2017年12月18日月曜日

YouTube:良きにつけ悪しきにつけ人から評価されたとき

人からほめられるとうれしい、舞い上がる、けなされると悲しい、苦しんでしまう。
「自分はこれでいいのだ」という自己肯定感が低い人が多いようですが、自己肯定を他者評価にゆだねていてはうまくいきません。
人から評価を受けたとき、こちらが影響を受けずに自分らしくありつづけるためには、どうしたらいいでしょうか。

そんな話を、名古屋市天白区の古民家スペース〈アロマファン〉で開催した、共感的コミュニケーションの手法をもちいた自己共感とオリジナル表現のためのテキスト表現ワークショップでしました。


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2017年12月17日日曜日

YouTube:共感文章講座の前置き「私はなぜ書くのか」

名古屋市天白区の古民家スペース〈アロマファン〉で開催した、共感的コミュニケーションの手法をもちいた自己共感とオリジナル表現のためのテキスト表現ワークショップで、前置きとして講師の水城が話した部分を抜粋してお送りします。

水城がいかにして共感的コミュニケーションを表現の世界に持ちこんだのか、そこでなにが起こったのか、このアプローチを用いることでどんなことが起こるのか、話しています。

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身体を使って共感を学ぶ、名古屋編

先日・12月14日(木)の午後、名古屋市天白区の水野生惠さんの古民家スペース〈アロマファン〉で「音読と共感のコラボカフェ」を開催した。
生惠さんにはこちらのスペース〈アロマファン〉を毎月のように提供してもらって、私が案内人となるワークや勉強会を主催してもらっている。
ありがたいかぎりだ。
この居心地のいい古民家スペースを、私の名古屋での活動拠点のひとつのように使わせてもらえるというのは、本当にサポートや尊重のニーズが満たされてうれしく感じている。

今回は音読と共感のコラボということで、私がみなさんとのつながりや貢献のニーズからおこなっている「音読カフェ」と「共感カフェ」のふたつを合体させてしまおうという、欲張りな企画だった。

音読カフェは音読療法をもちいた心身の調整、健康法、予防法、活力アップや介護予防のノウハウを、お茶をいただきながら気軽に練習しようというもの。
共感カフェは共感的コミュニケーションをお茶をいただきながら気軽に学んだり練習したりしようというもの。

ふたつを合体させることで相乗効果が見込まれる。
共感的コミュニケーションは、ことばの使い方やその原理・プロセスを学ぶということに目が向いて、とかく知識やアタマに注目が偏りがちだが、実際には身体感覚として学びを深めることが重要だ。
とくに自分自身につながるための自己共感において、それが重要となる。

自分自身の身体やいきいきとした感覚に目を向けておくことで、学びが深まることが経験的にわかっている。
なので、共感カフェの前に音読療法の呼吸法や発声、表現のワークをおこなうことはとても有効なのだ。
今回のコラボカフェは、そんなねらいがあった。

もっとも、コラボといってもともにカフェ形式のなかで気楽に、お互いの気楽さや安心を大切にしながら進めていったので、音読療法も共感的コミュニケーションも初めての方、まだ経験の浅い方も、気軽にご参加いただけたのではないかと思う。
もちろん経験を積んでいる方も、相乗効果のなかで発見や気づきがあっただろうし、そういう私自身も今回をふくめて毎回、発見や気づきがある。

ご参加いただいたみなさん、生惠さん、今回もありがとう。
年明けには1月7日にまたお会いしましょう。

1月7日:朗読と共感のコラボカフェ@名古屋天白
自由でのびやかな表現を心がける現代朗読と共感的コミュニケーションのコラボ企画を、名古屋天白の気持ちのいい古民家スペース〈アロマファン〉にて、新年1月7日の午前・午後で開催します。

2017年12月16日土曜日

YouTube:人の役に立ちたいと思ったときも自分を手放さない

どんな人にも多少なりともだれかの役に立ちたい、貢献したい、という気持ちがあります。
それが高じると、自分のペースや能力やキャパシティを棚にあげて、必死にだれかの役に立とうとがんばってしまいます。
しかしそれではあまりいいことが起こらないし、いい結果も生まれません。
どんなときにも、まずは自分のニーズにつながり、そこから行動を起こす必要があります。
人の役に立ちたいと思っているときも、それは本当は自分自身の喜びをともなったニーズがあるのです。

岐阜各務原のカフェ〈花寧香〉で開催した共感カフェで水城が話したことを、抜粋して紹介します。


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2017年12月13日水曜日

YouTube:ニーズには近景と遠景がある

どんなときにも人にはニーズがあり、それが満たされたり満たされなかったりするとき、感情があらわれたり、言動が生まれたりします。
自分自身のニーズを明確にし、自分につながっているとき、その言動はクリアで力強いものとなります。
これを自己共感ができている状態といいます。
ところで、ニーズには「すぐ目の前のいまこの瞬間にいきいきしている」ような近景と、その背後にレイヤー構造としてある遠景のようなものがあります。
この両方を把握していることが大切なのです。

岐阜各務原のカフェ〈花寧香〉で開催した共感カフェで水城が話したことを、抜粋して紹介します。


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2017年12月11日月曜日

アカシデカフェ、オハナ、知立文化会館、アロマファン

5年間つづいていた三軒茶屋の〈カフェ・オハナ〉での共感的コミュニケーションのミニライブ付き勉強会が、8日(金)をもって最終回となった。
最後は、というか、最後も、とてもいきいきとした最終回となった。
参加いただいたのは、経営者、公務員、講師、ヒーラー、お勤めの人、さまざまな方だったが、感謝したい。

オハナが終わると聞いて、親切にも、三茶の近くの池尻大橋にある〈アカシデカフェ〉につないでくれた人がいたので、オハナの前に野々宮といっしょに寄ってきた。
まだあたらしい店で、とてもきれいですっきりした、居心地のいいカフェだ。
てっきり、共感的コミュニケーションに興味を持ってくれているのだと思って行ったのだが、オーナーのゆきさんは朗読表現に興味があるのだという。
現代朗読のワークを定期的にこちらでやろうという話になった。
ありがたいことだ。

朗読のワークショップとはいえ、現代朗読は共感的コミュニケーションを重要なファクターとして取りいれている。
いわば身体的・音声的共感表現の練習ともいえる。

私と野々宮が隔月交代で担当することになる予定だ。
おなじ現代朗読のワークとはいえ、野々宮は朗読の実演者、私は演出家という立場で、それぞれアプローチがちがっていると思うので、ぜひ両方を体験してもらいたい。

金曜日は現代朗読ゼミを午前中に開催したあと、車を飛ばして知立に移動。
語人・サヤ佳ちゃんとその仲間たちが出演する知立演劇フェスティバルに出演するための、前日リハーサルに参加した。
このフェスには、去年こそ参加しなかったものの、その前に何度か参加している。
今年はサヤ佳ちゃんが代表をつとめる〈ゆめぱレット〉というグループでの参加で、私はピアノ演奏と、ちょっとだけ演出のお手伝いで、サポート出演した。

終了後は福井の実家に帰省して、木曜日・14日には名古屋天白の水野生惠さんの古民家スペース〈アロマファン〉で、音読と共感のコラボカフェを午後1時から開催する。
お近くの方、ご都合のつく方はどうぞお越しください。
とても居心地のいい民家で、アットホームな雰囲気でこころと身体の調整・健康法をおこなったり、共感的コミュニケーションについて知識と体感の統合をめざした勉強会を開催する予定。

2017年12月10日日曜日

メールやSNSにおける共感的コミュニケーション

「メールとかSNSのメッセージで共感しあうことはできますか?」
という質問にたいして、これまで多くの人に、言下に、
「できません」
と、にべもない返事をしつづけてきた。
たしかにそういう側面もあるし、いまもコミュニケーションは対面でなければ重要な情報の多くが抜け落ちてしまうというかんがえは変わりない。
しかし、文章=テキストで「まったく」共感しあうことができないか、というと、そうでもないような気が最近はしてきている。

私が「できない」といいきってきたのは、言語および身体コミュニケーションを前提とした共感のプロセスが念頭にあったからだ。
たしかにだれかがだれかに共感する、あるいは共感しあうという交流においては、ことばに含まれるテキスト情報だけでなく、それがどのように発しられているのか、どんな調子なのか、どんなリズムなのか、そこにはどのような感情が読めるのか、引いてはそのことばはどのような身体から発しられているのか、といった複雑でリッチな情報の受け取り合いが重要になってくる。
しかし、それは対面または直接の音声交流がリアルタイムにおこなわれることを前提とした共感のプロセスにおいて重要だ、という意味だ。

最初からリッチ情報を交換できない、という限定された条件で共感を試みるとしたら、どんなアプローチがありうるのだろうか。
たとえばテキスト情報しか交換できないという限定条件において。

その観点から、共感のプロセスを一から見直してみたとき、あらたな可能性が浮かびあがってくる。
テキストで共感的な交流がまったくできない、ということは、ないのではないか。

このところ私がみなさんと試みて、大きな成果をあげている、「なにかを書くことによって自己共感を深める」というワークで、上記の可能性が私のなかでふくらんできた。
自己共感だけでなく、他者共感も試みることができるし、相互共感もありうるかもしれない。
その際、リアルタイムでリッチな交流とはかなり異なるアプローチが必要だろうと思う。
とはいえ、共感的コミュニケーションの核心的な原理をはずすわけでは、もちろんない。

こんなことをかんがえはじめて、ひさしぶりにかなりわくわくしている。
共感的コミュニケーションという体系のなかで、まだあまり手をつけられていないテキストコミュニケーションの原野に、ざっくりと冒険の舵を向けてみようと思っている。

2017年12月7日木曜日

最近のこと、母の葬儀など

昨年末に脳内出血で倒れた母は、手術、リハビリと入院生活を今年の5月まですごし、その後高齢者介護施設(特別養護老人ホーム)に入所していた。
最初のころは元気に歩いたり、食事もしていたのだが、しだいに弱ってきて、寝たきりになり、話もしにくくなってきた。
脳機能障害と、2回の切除を経て再発・転移したガンの進行が思ったより早かったのだ。

ここ数か月はかなり弱ってきて、食事がまったくできなくなって点滴でしのいでいた。
11月末には呼吸が不安定になることがあって、「そろそろ」という声が医師や介護職員から出ていたので、私もそれなりに覚悟していた。

12月1日の早朝に連絡があり、こちらに連絡する間もなく息を引きとったという。
そのまま車に乗って実家にもどった。
すでに遺体は葬儀屋によって自宅に運ばれ、座敷に安置されていた。

身内と隣近所だけに知らせ、ごく簡素に通夜と葬儀をおこなった。
それでも思ったより多くの人が来てくれて、いずれも母と親しかった人たちばかりで、心からのお別れをしにきた人ばかりだった。
僧侶が何人も来て頼みもしないお経をあげるようなことはなく、静かに親しい者だけでお別れした。

お通夜の夜、おいでいただいたみなさんにはそこそこにお引き取りいただいて、私は母とふたりだけで座敷で寝た。
ものいわぬ母とゆっくりすごせたのはありがたかった。

母とはここ数年、私にとっては「和解」とも感じられる共感的な対話を積みかさねることができていて、私もうれしかったが、母も喜んでくれていたとしたらいいなあと思っている。
別に仲が悪かったわけではないけれど、ふつうの親子にありがちな表面的でパターン化された会話やつながりしかなかったのだが、母が車の運転で事故を起こしたことをきっかけに、共感的な対話を試みたのが、私にとってはつながりのチャレンジだったし、それがよかった。

母を見送ったいま、私は寂しさを感じるけれど、安らかさもあって、母もそうであったらいいなと願っている。

東京にいったんもどってきて、今週は共感週間ともいうような共感カフェや文章講座のイベントがつづいているが、母とのつながりを取りもどした私の経験をだれかとシェアする機会があるといいなと思う。
もちろん母のこと、母とのことについては、あらためて書きのこしてみたいとはかんがえている。
それが私の供養だから。