2010年3月19日金曜日

表現について考えてみた

「朗読」も「表現行為」のひとつである、という立場から、現代朗読をかんがえている。
 では、「表現行為」とはなんなのだろう。「なにを」表現するのだろう。
「表現」というと私たちはなんとなく暗黙に「自分を表現すること」ととらえているようだ。「表現行為」とは「自分を表現すること」、すなわち「自己表現」のこと。
 それでよろしいか? という問いをあらためて立ててみよう。

 ひとまず「表現」することの目的格に「自分」を置くとする。では、「自分」の「なにを」表現するのか。
「自分」とは哲学用語でいえば「主体」である。いまここにある私。「現存在」ともいう。
 ちょっとかんがえればわかることだが、この「私」全体をつつがなく総体的に表現することなど、不可能である。ならば「自分を表現する」とは、なにかの行為を通じて「自分の存在をだれかに伝える」ことにほかならない。
 たとえば、私が声を出す。あなたはそれを聞く。そのとき、あなたは私がそこにいることを確認する。私は声を出すことであなたに私の存在を認識させることができた。これが「表現」の定義といっていいのではないか。
 私が言葉を発する。あなたは私の言葉を聞き、意味を理解する。あなたは私がそこにいて、なにをいいたいのか理解する。
 私がピアノを弾く。あなたは私の演奏を聴き、私の演奏が楽しげであればあなたも楽しくなるかもしれないし、うるさいと思って嫌悪をもよおすかもしれない。いずれにしても、私のおこなったことがあなたになんらかの影響を与える。
 このとき、重要なことは、私がどんなたくらみを持って演奏をしようとしても、あなたの反応については私は予測できない、ということだ。たとえば悲しげな曲(ベートーベーンの「月光」とかね)を演奏し、あなたを悲しい気持ちにさせようとしたとする。ひょっとしてあなたは悲しげな気持ちになるかもしれないが、ならないかもしれない。そもそもあなたはベートーベンなど聴きたくないと思っているかもしれないし、そもそもピアノなんか聴きたくないかもしれない。あるいはもっと楽しい曲が聴きたいなあ、なんてかんがえるかもしれない。
 では、表現行為において私ができることはなんだろうか。
 なにかをたくらみ、周到に準備して作り上げることでないことだけは確かだ。それは表現ではなく、「制作」である。
 私がおこなうことがあなたにどのような影響と結果をもたらすとしても、私にできることは私が私であるまま、なにもたくらまず、正直に「いま」の私の精神と身体のありようのままで、誠実にものごとをおこなうこと。
 これしかないのではないだろうか。
 その表現行為が正直に、誠実にあなたに伝わったとしたら、あなたは私の存在を受け取ってくれるかもしれない。そしてそのことは私にも「返信」として伝わってくることだろう。私はあなたと時間と空間と体験を共有する。互いの存在を感じ、世界のありようを感じる。そのとき、私はあなたとともに、ここに存在し、生きて「在る」ことを賞味するのだ。