2010年4月28日水曜日

朗読者のための文章論

 ただ「文字を読みあげる」だけなら小学生だってできる(字さえ読めれば)。機械音声での読み上げソフトなんてのもある。
 ただ「正しく美しく読む」だけなら、そのための訓練を積んだアナウンサーやナレーターが得意だろう。そのための技能訓練学校がたくさん存在し、毎年多くの優秀なアナウンサー/ナレーターが卒業するし、いまも現場で働いている。これは一種の技術者であろう。
 これらを超えて「その人にしか読めない読みでオーディエンスに文字情報以上のなにごとかを伝える」のが、朗読者の仕事であろうとかんがえる。それはすばらしいピアニスト(でなくてもいいが、音楽家)がその人にしかできないやりかたで、音楽を音符の形で残されている以上の芸術作品としてオーディエンスに伝えることとおなじである。
 こういう人のことを「表現者」という。
 もっとも、これは言葉でいうのは簡単だが、じゃあ実際にどうやればいいんだ、という話になるとコトはそう簡単ではない。
 そもそも、「その人にしか読めない読み」とはなにか。
「文字情報以上のなにか」とはなにか。
 このような抽象的な概念をきちんと定義しておくことこそ、演出家や朗読指導者の役割であろうと思う。

 朗読者は自分が読もうとする文章(テキスト/本)をどのように扱えばいいのか。
 音声化して朗読する以前に、本を読む/文章を読むとはどういう行為なのか。そして朗読者にとっての本を読む/文章を読む行為はどのようにあるべきなのか。
 私は文章を書く人間なので、文章がどのように書かれていくのか、ある程度理解している。すくなくとも自分自身はどのように文章を書いているのか、わかっている。しかし、朗読者はその文章がどのように書かれたものなのか、想像をめぐらすことはあるだろうか。
 朗読者はたんなる「読者」ではない。その文章を「音声化」し「自分の表現の素材」として扱うある種の「専門家」であろう。
 文章を専門的に扱うというのは、ただ「読む」とか「意味がわかる」ということではもちろんない。たんなる「読解」を超えた文章との深い関係性を構築することである。そのための方法は、もちろん現代朗読の研究の場でも模索中であるが、いくつかの方策は発見されている。
 たとえば、書き手がそうであるように、朗読者も文章をまず「構造的」にとらえることができる。「構造主義」という現代思想の用語が示すように、主観を排し、既成の枠組みにとらわれず、ものごとそれ自体のなかにある構造を見つけだし、分析する方法である。
 文章を「構造的」にとらえるためには、「シーン解析」「時制」「人称」「文章機能」など、いくつかのアプローチの方法がある。書き手なら必ず、意識的にせよ無意識的にせよ、これらのことをかんがえている。