2010年5月18日火曜日

賢人を作るコミュニティ

 最近の日本人が思考停止に陥りがちなのは、リスクを必要以上に避けたがるゆえにあまりに横並び行動を取りすぎるから、などという説がある。たしかに、老若男女を問わず横並び行動を取ろうとするのは、もともとリスク回避のための行動だったかもしれない。
 企業行動など、集団の行動にもその傾向は強い。日本の企業はとくに横並びを重んじるといわれているが、たしかにそのとおりかもしれない。このところの電子ブックをめぐる著作権の問題で大手出版社が寄り集まってあれこれいっているのを見ていると、横並びを重んじるあまり時代の変化についていけず、思考停止に陥って、ついには恐竜のように滅びていくイメージが湧いてくる。
 それはともかく、そのような思考停止におちいった大衆のことを、ニーチェは「畜群」と呼んでさげすんだ。真の人間は、畜群から離れ、想像力をもって超越しなければならない、と説いた。超人思想である。それもどうかと思う極端な話だが、いわんとするところはまあわからないことはない。
 大衆が畜群化しているとなにかと都合がいいのは、資本主義社会だ。「これがいいよ」といえば全員ドッとばかりにそちらになだれを打ち、作られた流行を追ってものを買い、プレハブに毛の生えたような家を35年ものローンを組んで買い、ぴかぴかの車を一家に一台そろえたがる。資本家にとってこれほどおいしい話はない。
 いや、共産主義社会でも畜群は都合がいいだろう。同一思想を植えつけて統制するには、ひとりひとりが「判断力」や「想像力」を持っていてもらっては困る。
 ようするに、国家という制度にとって、国民は畜群であるほうが都合がいいのだ。

「国家」といったが、これは「近代国家」といいなおそう。
 私が子どものころ、「すばらしい世界旅行」という番組があった。この番組には、時代のせいもあったのだろうが、しばしば「未開民族」とか「裸族」が登場していた。取材班はアマゾンの奥地やニューギニアの高地に分けいり、まだ文明(西洋文明ね)と接触したことのない部族を取材するのだ(山口探検隊じゃないよ)。
 そして視聴者は知るのだ。未開文明といっても、彼らなりの秩序と文化があり、自然を崇拝しながら静かに暮らしている、ということを。「未開」とは失礼ないいかたではある。
 いまになって思えば、「未開民族」たちのなかには、思考停止に陥った愚民はただのひとりもいなかった。子どもは長老たちに教えられ、自然のなかで生きていくための知識と知恵を身につけながら育っていく。大人になれば、部族の調和を保ち、問題が起きれば部族全員で考え、力を合わせて対処する。そして子どもたちは部族全員にかわいがられながら大人になる。ひとりの子どもに、お父さんお母さんが何人もいる。
 ニーチェのいう「畜群」は、まさに近代国家が生んだものだ。国家の必要から、国家が恣意的に作りだしたものなのだ。
 どうやって?
 もちろん「教育」によって。
 想像力を奪い、身体と精神を拘束し、消費と競争に快楽を覚えるように教育する。その結果、国民は「畜群化」する。反乱も革命もデモもない、一見平和で穏やかな浪費国家である。

 私たちが畜群であらぬためには、国家を解体するのがてっとりばやいだろう。しかし、もちろんそんなことはできない。
 では、どうすればいいか。
 私なりの考えだが、人々がひとりひとり存在を尊重され、自由でいることを認められ、そして自分と全体のことを同時に考えられるような場=コミュニティをたくさん作っていけばいい。そのコミュニティは畜群ではない。未開部族がそうであったように、愚民もいない。それぞれが知恵をもって、自分の責任で、自分と全体のために考え、行動している。
 そういう、人が賢人となり、そしてまた賢人を作りだすミュニティを作ることは不可能だろうか。
 いや、じつはすでに、現代朗読協会という見本があるのですよ。これがいいたくて、長々と書いたのであります。