2010年7月3日土曜日

名前への疑念、文体への疑念

先生、私は迷っております。
もっとも、私には「先生」と呼べる方はおりませんので、架空な対象としての「先生」ですが。

私はここ数年、NVC(非暴力コミュニケーション)という考え方に出会い、勉強してきました。
そこでは人のコミュニケーションのあり方ばかりでなく、この世界のあり方についてのさまざまな考え方や私たちのふるまいについて、古くてあたらしい考え方が提示されています。
ひとりで、あるいは仲間たちと学ぶうち、多くの気づきに出会うことができました。
今日はそのなかのふたつのことを取りあげたいと思います。

20代の終わりに商業的娯楽小説家として本が出ることになったとき、編集者から「ペンネームをかんがえるように」といわれました。なぜなら、私の戸籍名が「娯楽小説家としていまいちだから」だったからです。
娯楽小説家としてふさわしい名前とは、
「人々に覚えてもらいやすい」
「書く内容とイメージが合っている」
そしてなにより、
「売れそうだ」
ということが喜ばれます。
そのときの私はとくになんというかんがえもなく、「水城雄」という名前を自分につけることにし、またその名前は編集者にも喜ばれました。
以来20年以上、私はとくに深いかんがえもなくその名前を使ってきましたし、また人々も私の名前がそれであることを違和感なく受け入れてくれていました。
ところが、いつごろからでしょう、たぶんNVCの勉強を始めたころから無意識内に生まれたのだろうと思いますが、私の名前に違和感を覚えはじめたのです。
違和感の原因がわからないまま、音楽や朗読演出方面のときは「MIZUKI」とローマ字表記にしてみたりしました。
そしてつい最近、違和感の理由がはっきりしたのです。

だれかにいわれたのでした。
「水城雄の「雄」というのは英雄の「雄」で、「オス」ということでしょう?」
NVCでは「男は男らしくするように、女は女らしくするように教育されながら人は育つ。その過程で多くの後天的な考え方や思いこみ、ふるまい方が身についていく」という分析があります。身についてしまった癖のような反応が、ときにある種の「暴力」をもたらすことがあるというのです。
そのとき、私は自分の名前が、性差の象徴のような名前であることに気づいたのです。
これからは「水城ゆう」とひらがな表記にしようかなあ、なんて悩んでいるんですが、どうでしょうね、先生。

もうひとつの迷いを聞いてください。
20代末から小説を書きながら生きてきた私は、なにを書くにしてもほとんどの場合「ですます」調ではなく、「だである」調を使ってきました。そのほうが思考が整理され、文体も切れがよく、よく伝わるように思っていたからです。
たしかにそのような面はあると思います。
ところが、最近、気づいたのです。
私は数年前から宮澤賢治の作品を使った朗読プログラムをいくつか作り、あちこちで上演していますが、賢治の文体はほとんどが「ですます」調です。
最近私は、賢治の作品を「非暴力」という観点から読みなおすことを始めています。すると、彼の「ではます」調の文体は、非暴力と関係があるのではないか、と思えはじめたのです。
かんがえてみると「だである」調は「言い切り」文体であり、断定的です。断定的なものの言い方は、たしかに多くの人を納得させるには有効です。
が、NVCでは「Judgement(評価)を手放す」というのです。人やものごとに対する評価、あるいは自分自身に対する評価、あらゆる場面で評価をくだしつづけているのが現代人だというのです。そのことが暴力的なコミュニケーションを生む一因になっています。
断定的なもの言いは、評価的でもあります。自分はこのことをこのように考えている、というよりも、自分このことをこう評価している、という価値判断の語り方となるのではないか。
私はそのことを懸念しているのです。
で、とりあえずはまず、この文章を「ですます」調で書いてみました。どうでしょうね、先生。