2010年7月21日水曜日

「伝えるのはなにかということ、とか」by ののみや(再掲載)

以前、こちらに up しておきながら、ファイル整理をしているときうっかり間違って削除してしまったので、再掲します。
一度読んだ方はすみません。また、コメントをいただいた方もすみません。

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朗読者の野々宮卯妙が現代朗読の真髄に触れる考え方をうまくまとめて書いてくれていたので、彼女のmixi日記から引用させていただく。
この内容に関してのご質問は私も受け付けます。
ただし、きちんと一字一句、深く読んでください。さっと読みとばしてのコメントには返信しかねます。

(引用ここから)
自分を伝えるとか気持ちを伝えるとかいいますが……
自分では感情をたっぷりこめて読んだつもりなのに、苦笑されたりとか(^^;)
いったいどうすればいいのか、と悩みませんか?
だって、日常でも、伝えたいことがちゃんと伝わることって、少ないですよね。
一所懸命話してるのに、誤解されることは多々あるし、
それをフォローしようとしてますますドツボにはまったりします。
それを、朗読なら伝えられる、というのはどういうことなのか。

朗読では、ついつい、声優さんのように「怒ってるように」「悲しんでるみたいに」読みたくなると思いますが、
聞き手の心理としては、まず、引きます(^^;)。怒りなどは、まさにどん引きです(^^;)。
それだけでなく、そういった「~ような」読みは、何も伝えていません。
声優さんがそれで成り立つのは、アニメや映画などの映像があるからです。
また、彼らの仕事は、自分を伝えることではありません。
声優さんの声優的『朗読』は、聞いてる人に、その人がやった(アニメや映画の)役柄が読んでいると想像させたり、アニメの映像を想像させたりする、そこがおもしろいし魅力であって、その(役をやった)声優さんにしかできないことです。
私たちがそういう読みをするときは、相手に或るアニメやキャラを連想させて楽しませるとか、
アニメや漫画を見て楽しいと思う感覚を聞き手に思い出させて楽しい気持ちを再現させるとか、
そういう効果であって、それは朗読と言うより芸とでも言ったほうがいいものに変質しています。
「声優的」な朗読で、聞き手が「感動した」というとき、それはその人がアニメや漫画や映画で感動したときの気持ちを再現したということであって、その声優さんの存在を感じたということでは決してないはずです。
(もちろん、声優という職業の人が声優的ではない朗読をすることもあり、そのときはその人自身を伝えていることでしょう。ここではあくまで声優的、キャラ的『朗読』を指します)

さて、朗読とはその人自身を伝えること、と私たちは言っていますが、
その、「自分の存在を伝える」とは、どういうことでしょうか。

注意してほしいのは、自分の存在を伝えるというのは、
「私が私が!」ということ(自己主張や狭義の自己表現)ではない、ということです。
(どうも勘違いされがちなのですが)
実存を超えて無意識下まで含む「自分」、自分でさえもしかすると意識していない自分かもしれません。
社会性やら建前やら嫉妬心やらなにやらいろいろまとった自分(自我といってもいいかも?)ではなく、
その下の方に隠されている、ピュアな自分です。
それは、自分で恣意的に表そうとしたら、どうしても歪んでしまうものです。←重要
だから(他人の)テキストを使います。

そういう自然な身体性で読めるようになったとき、
何が聞こえてくるのか……
(たとえば)怒っている自分の身体が何を伝えているのか。
自分でも気づいてないかもしれないピュアな自分を、聞き手が感じとったとき、
聞き手の心は震え、それを鏡のように受けて自分もまた心が震える、
(いろんな震え方があります、涙だけではありません)
それが「コミュニケーション」なんですね。

つまり、伝えるために朗読するけれど、伝わるのは結果であって、
伝えようとして伝えるものでもない……
恣意(的な表現)を排除する必要がある(水城さんはよく「無意識に仕事をさせる」と言います)。
自分と言う主体があるかぎり、そこが難しいんですけれどね。
現代朗読のゼミやワークショップなどでは、水城さんがさまざまなエチュードを通じて引き出してくれますが……
本人、自覚がないままだったりすることもあり。
(でも、見てる人にはわかるところがおもしろい)

(中略)

ちなみに、素の声が、ふだんの話声と違う人はけっこういます。
話声って、相手によって使い分けてます、無意識に。
そういうところも難しい(笑)。声ってけっこう怖いものです……(笑)。
(引用ここまで)