2011年1月7日金曜日

冬の野菜が甘くなるわけ

皆さんは冬の野菜が甘くなる理由をご存知だろうか。
正月で北陸の実家にしばらく帰っていた。畑で取れた冬の野菜を何種類か食べた。ネギ、白菜、大根、蕪、いずれも甘みがあった大変おいしい。大根などは葉っぱまでおいしくいただいた。
冬に野菜が甘くなるのは理由がある。
気温がさがって氷点下になると、野菜も凍りつく。凍りついてしまうと、野菜の細胞が水分の膨張でこわれ、死んでしまう。そこで野菜も凍るまいと防衛手段を打つ。すなわち、みずから糖分を作り、MOL濃度をあげて、凍結を防ぐのだ。
糖は分子が大きいので、MOL濃度をあげやすい。MOL濃度があがると、水分は氷点下でも凍らなくなる。細胞が壊れにくくなる。
大変かしこい所行である。だれからも教わらなくても、冬野菜は自分でそういうことをやっている。
それに比べて人間の浅知恵なんて知れている。

人は大脳皮質を発達させて文明を築き上げ、地表にびっしりとはびこるまでに繁栄したけれど、本当の叡智はどこにあるのか、とよく思う。
文明が進めば進むほど自分の頭で考えられない、自分の身体を生かしきれない愚民が増え、思考停止の集団ばかりがのさばるような気がしてならない。

実家から東京に戻る途中の空港に向かう車中から、カラスが道路に数羽降りているのを見た。
車が通るのに危ない、なにをしているんだろうとよく見たら、なかの一羽がなにか黒いものを道路にポトリと落としている。よく目をこらしてみたら、なんとクルミなのだった。
カラスは自分でクルミを割ることができないが、中身は食べられることを知っている。そしてクルミを道路に落としておけば、やがて車がタイヤで踏みつぶしていってくれることも知っている。
恐ろしいほどの知恵だ。私たちはカラスや冬野菜に匹敵する真の意味での知恵を持っているだろうか。

真の知恵とは、自分の身体能力と生存と世界のありように対して有機的に引き結んだ、深く必然的な知恵ということだ。たんなる知識や、計算能力、情報の運用能力のことではない。自らの身体が凍結することを防ぐために糖分を増加させるようなたぐいの知恵と身体能力のことだ。
甘くておいしい冬の野菜をいただきながら、考えた。
文明というシステムにがんじがらめに捕われて自らの潜在能力を埋もれさせてしまった人間が、もういちど鋭い感受性や、世界とつながった深い叡智や、本来持っているはずの身体能力の可能性を取り戻せないものだろうか、と。
そのためにはなにが必要なのだろうか。
やはり自ら身体を運んで、凍てつく寒さを体験し、硬いクルミに歯を立ててみる必要があるのではないだろうか。実体としてあるのは、たしかにこの私の身体なのだから。