2011年5月6日金曜日

声と身体はつながっている

新刊『音読・群読エチュード』から抜粋して紹介します。

 現代社会は多くの情報があふれかえっています。ただ歩いていても、さまざまな文字や映像などの視覚情報が飛びこんできますし、音の情報も膨大です。また、街にはさまざまなにおいも満ちています。
 これらの情報にいちいち注目していたら疲れきってしまいますし、生活できません。
 そこで私たちは「慣れる」もしくは「無視する/スルーする」という形で、膨大な情報の波から自分を防衛しています。それは子どもたちもおなじ事情です。
 私たちは自分にとって必要な情報だけを受けいれ、それ以外のものはすべて無視することで、うまくバランスをとって生活しているのです。
 毎日通い慣れた道を歩くとき、「駅・右、公演・左」といった標識は必要のない情報なので、目にはいったとしても無視します。逆に、初めて行くような土地では標識情報が重要なので、目をこらしてキャッチします。日常生活では前者のようなふるまいがほとんどをしめます。
 情報を「無視する/スルーする」とは、「感受性を閉ざす」あるいは「感受性レベルを低くたもつ」ということです。現代生活はそのように人間を「閉じられた状態」であるようにしむけます。電車のなかでは人々はほとんどが携帯電話を手にするか、イヤホンを耳に突っこんでいるか、眠っているか。自分の外に向かって感受性をひらいている人にはほとんどお目にかかれません。
 歩いている人もイヤホンを耳にいれ、必要最小限の情報しか自分のなかにはいってこないように遮断しています。
 逆に、感受性レベルを高くし、感覚を外にむかって開いた状態の人のことを想像してみてください。そこにはたちまち、生き生きとした人が登場するでしょう。目はきらきらと輝き、さまざまな物音に耳をすまし、嗅覚も鋭敏にはたらかせている。皮膚は風の冷たさや太陽の暖かさを感じています。
 まさに人が「生きている」というのは、このような状態ではないでしょうか。
 音読をふくめなにかを表現するとき、そしてだれかとコミュニケートするとき、人はこのような生き生きとした状態でいたいものです。現代ではこれが圧倒的に欠如しています。
 子どもたちは本来、あるがままで生き生きした存在ですが、しかし成長するにしたがってしだいに感覚を閉じることが「上手」になります。もちろんそれは彼らの責任ではなくて、現代がそういう環境だということです。
 しかし、いつでも生き生きした自分自身の感覚を取りもどし、はつらつとした人間になれるように、感受性を意識するための練習をしておくことはとても役に立ちます。
(第四章より)

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