2011年7月30日土曜日

なぜ「朗読はライブ」なのか

「朗読はライブだ!」というワークショップを2009年から現代朗読協会でおこなっていて、それが来週スタートのシリーズで第8期となる。なぜ「朗読はライブ」なのかと、ということと、このシリーズで私たちが学んだことを少し書き流しておきたい。

日本には古くから「語り芸」がさまざまにあり、朗読も当然その系譜の延長線上にあるものだろうと考えていたことがある。
語り部、能や狂言、謡、琵琶語り、歌舞伎、文楽、落語、講談、伝統芸能やそうでないものも含め、たくさんの語り芸が古来から存在する。これらはいずれも「ライブ」だ。語り手とお客さんの間でリアルタイムにパフォーマンスとしておこなわれる。現代日本でおこなわれている朗読会が、どうやらにその系譜には属していないのではないか、と思うようになったのは、つい最近のことだ。
では現代日本でおこなわれている朗読、朗読会、朗読ライブはどこから来ているのか。
大正・昭和初期から普及したラジオ放送および、戦後普及したテレビ放送などの「放送技術」がそのルーツになっていると考える。その証拠に朗読教室はほとんどどれも放送技術を教える。

すでに確立されている伝統や技術や特定個人および団体が提唱するノウハウに「のっとらない」方法での、コンテンポラリーな身体表現としての「現代朗読」を私は提唱しているが、考え方としてはむしろ、「語り芸」の系譜に近い。つまり、身体性、呼吸、ライブ性を重視する。
2009年にスタートした「朗読はライブだ!」ワークショップ、略して「ライブWS」は、これまでに7シリーズやってきた。いずれも全6回のワークショップを通じて参加者全員でひとつの朗読パフォーマンスを作りあげ、最後にひと前で発表するという様式だ。
ライブ発表はさまざまな場所、さまざまなシチュエーションでやってきたし、参加者の数もまちまちだった。数人のときもあれば、10人以上のこともあった。スタジオを借りたり、ライブハウスを借りたり、現代朗読協会の羽根木の家の座敷でやったり。
東松原のレストラン〈スピリット・ブラザーズ〉でやったときは、オーナーの人見さんの協力で養護施設の子どもたちを招待して、おいしい食事とともに朗読を楽しんでもらったりもした。
演目もさまざまだった。朗読というとひとりで読むイメージがあるが、何人かで作るのも楽しい。
また、複数でひとつの作品を作りあげる過程で、朗読者はさまざまな身体性や、自分が未知だった声を獲得していくことも、発見のひとつだった。

朗読はとかく、口まわりと頭の中だけ、そして閉じられた感覚でおこなわれてしまうことがあるのだが、ライブではそれはつまらない。
全身を使い、感覚を開き、共演者やオーディエンスとコミュニケートしながら、空間と時間の共有のなかでひとつの表現作品を作っていくのだ。実際にやってみた者でなければ、その喜びはわからないかもしれない。
ライブWSも次期でなんと8回めとなる。今回の最終ライブは10月に下北沢の〈Com.Cafe 音倉〉を予定している。今回はどのような作品が生まれるのだろうか。私も楽しみだ。
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