2011年8月31日水曜日

長編サスペンスSF小説『原発破壊』を電子ブック発売

メルトダウンにいたるシビアな原発事故を、綿密な取材と多角的視点でリアルに展開する長編小説『原発破壊』を、電子ブックとして刊行しました。
こちらから立ち読み&購入できます。

四百字詰め原稿用紙に換算すると500枚近くの大作です。
これ、実は、1996年に執筆・脱稿していたのですが、ある事情で活字出版されることなく、こんにちまで私のコンピューターのディスクのなかに眠っていたものです。
3月11日の大震災に端を発して起こった福島第一原発の事故状況を追ううち、この小説のことを思い出しました。しかし、さまざまな心情が交錯して、事故後すぐには発表することができませんでした。
最近、電子ブックの販売実験をスタートしたこともあり、また原発の事故がまったくいっこうに収束してもいないのにもうそのことを忘れかけている人がいることなどから、このたび思い切って刊行することにしました。
1996年当時に執筆した原稿のまま、一言一句改変してません。そのままの形です。
再読して驚くのは、15年前に書かれたものなのに、まるでいま書かれたもののように事故状況がそっくりだということです。また、自分自身がこれほど原発について綿密な取材をおこなっていたことにもびっくりです。

皆さん、まずは立ち読みしてみてください。小説の全体の半分近く、立ち読みできるように設定してあります。
購入いただく場合の価格は300円です。


2011年8月30日火曜日

次世代作家養成塾:習作&講評「肥満」三木義一

次世代作家養成塾では、扱うテキストの種類を限定していません。
小説、エッセイ、詩、ブログ記事、メール、現代はさまざまなテキストで自分を表現したり伝えたり、業務連絡したりする機会が多いですね。それらすべてを「テキスト表現」という一元化した「原理」でかんがえようと試みているのが、この場なのです。
テキスト表現とは、「テキスト」すなわち「書かれた文字や文章」を使って自分自身を表現し、人に伝える行為のことです。
では、日記はどうでしょうか。
日記は普通、人に見せることを目的としていません。自分のためだけの書くものです。これはコミュニケーションといえないでしょうか。
日記は現在書かれ、そして将来のいつか、自分がそれを読むことを想定されています。つまり、現在の自分から未来の自分に向けての表現といえないことはないかもしれません。
が、それはちょっとこじつけがすぎるかもしれないですね。
しかし、最近はブログで日記を公開している人も多いと思います。たわいもない日常的な断片であったり、重厚な社会問題に切りこんで意見を述べるものであったり、さまざまなものがありますが、これはもう人に読ませるための日記であって、立派なテキスト表現といえるでしょう。

三木義一のこの作品は、文章の性質としては「詩」の範疇にいれることができるかもしれません。

(以下、講評つづきと作品本体は養成塾のメールマガジンで掲載しています)

※オンライン版「次世代作家養成塾」の詳細については、こちらをご覧ください。一か月間の無料お試し期間があります。

2011年8月29日月曜日

少年王者館「超コンデンス」@下北沢ザ・スズナリを観てきたなり

なるほど、マスゲームだ。
声とダンスと音楽と照明と映像と演技を使った、緻密なマスゲームに違いない。

わがげろきょ(現代朗読協会)の仲間であり、オーディオブックリーダーの窪田涼子が出演しているというので、スズナリまで少年王者館の本公演を観に行ってきた。
王者館の本公演を観るのは、窪田涼子が出演するようになりはじめてからこれでもう3度めか4度めになる。
ストーリーはまったく重要ではない。一種の現代美術、インスタレーション、パフォーマンスのようなもので、座長の天野天涯の個人的メッセージを集団で表現するといっていい。
分断されたストーリー、言葉、動き。ストップモーション、暗転によってしばしば変化する細切れのシーンと逆もどりする時間。絶え間ない音楽。フラッシュのような照明。舞台に投影されるビデオ映像、文字、そして舞台そのものやあらかじめ録画された役者の動き。
ひとつひとつ取ればとくにあたらしいものはないが、構成が緻密で、綿密に組み立てられたパズルのような舞台だ。セリフひとつ、動きひとつ、きっかけひとつ間違っても、全体がずっこけるだろう。そういう緊張感はある。
役者もパズルのワンピースで、数人のメインキャストを除いて、ほかは全員、極端に押し殺した表情と極端に誇張した動き、そして極端にデフォルメした発音・発声で個性を殺している。
窪田涼子もそのマスのなかにいるのだが、彼女が別の役者と交代しても、ステージのイメージは寸分も変わることはないだろう。
これは天野天涯氏の個人的な「スタイル」なのだ。観客はそのスタイルを楽しむために劇場に来る。
観ているうちに、私はだんだん悲しくなっていく。

マスゲームを好む人はたくさんいるし、マーチングバンドであったり、サーカスであったり、シンクロナイズドスイミングであったり、人間が協調して一糸乱れぬチームプレイを楽しむ気持ちがあることを否定するものではない。ただ、私がそれを好まないだけの話だ。
私はステージ表現においても、ひとりひとりの個性と多様性が生かされ、また時間と空間と役者のコンディションや観客のありようによって刻々と変化していく一種のコミュニケーション表現を作りたいと思っている。少年王者館とは真逆の方向性といっていいだろう。
そして窪田涼子は、たったひとりでも誇るに足る資質を持った個人表現者だと思っている。
たとえば、YouTubeで発表しているこの「祝祭の歌」
そして、「気の毒な奥様」
ほかにもたくさんある。
マスの一部品として埋もれるような人ではない。いや、すべての人がマスの一部品として埋もれるようなものではない。すべての人が自分の存在と自由な表現を保証され、輝かせられることが理想なのだ。
もちろんそれは、天野天涯氏にもいえることだが。そして、もうひとつ。窪田涼子自身の個人的ニーズを私も否定するものではない。それは尊重する。

それにしても、「超コンデンス」という天野天涯氏の個人的作品に2時間という時間は必要だったのだろうか。
平日の昼間なので70人くらいしか入りませんよ、と事前に聞いていたのだが、開演時間には席はほぼ満席のぎゅーぎゅーで、どう見ても100人以上ははいっていただろう。つまり、それだけ天野天涯の王者館は人気があるということなのだろう。笑い声も多くあがっていた。
王者館のステージを見終わっていつも思うことだが、天野天涯氏はステージではなく、ビデオや映画のほうが向いているのではないだろうか。

明日30日、新宿ピットインで現代朗読協会が板倉克行にディグ!

ジャズのライブハウスとして有名な新宿PIT INN(ピットイン)に、現代朗読協会の面々が登場します!
世界で活躍するフリージャズピアノの第一人者・板倉克行さんのライブにゲスト出演します。
板倉さんから直々にお声掛けいただきました。
3ベース、2フルート、タップダンサーらと混じってのセッション、どうなることか、みんなワクワクです!
もちろんNOプラン(笑)。あえて何を読むかをあらかじめ相談したり合わせたりせず、ステージ上でのその瞬間の感性のスパークをお客さまも一緒に共感します!

板倉克行 スペシャル・ナイト
8月30日(火)20時START
¥3,000(1DRINK付)
新宿PIT INN

◎出演
板倉克行(p)、金剛督(Sax,Fl)、北沢直子(Fl)
日野了介/田嶋 真佐雄/カイドーユタカ(B)、レオナ(tapdance)
◎ゲスト
水城ゆう(key)、照井数男/野々宮卯妙/窪田涼子(朗読)

ジャズの殿堂、PIT INNに朗読家が出演するのは初めてではないでしょーか。
というか、少なくともセッションとして参加するのは初めてに違いない。

ジャズのライブハウスってなんか怖くて……というウブなあなたも、 現代朗読とフリージャズがどこまで拮抗するのか見てみたい、という学究肌のあなたも、 こんなチャンスはめったにない(はず)!
ピットインでお待ちしています!

猫スケッチ展「猫のうた」最終日のランチタイムコンサート

昨日は私の猫スケッチ展「猫のうた」の会期最終日で、ランチタイムコンサートの三回めをおこなった。
午前十時に歌の永倉秀恵が準備のために羽根木にやってくる。私もピアノのウォーミングアップ。少し合わせたりしてみる。調子は昨日よりよさそうだ。朗読の野々宮卯妙もヨガを受けたおかげでなんとなく身体の調子がいいという。
11時半に、ちょうどイベントのために上京していた坂野嘉彦さんがやってくる。うまい具合に今日一日空き日だったので、付き合ってもらうことにしたのだ。といっても、まったくリハーサルはなし。即興で一曲、参加してもらうことをお願いする。

正午前に下北沢に歩いて向かい、正午すぎに〈Com.Cafe 音倉〉入り。
まずは腹ごしらえ。
醍醐尚味、紅子さん一家、名古屋からわざわざクセックの樋口と柴田くん、体験講座の受講者の谷合さんがお子さんと、かっしー、ふなっち、月海ちゃんとお連れ、なおさん、まぁや、玻瑠さん、少年王者館の公演で上京していたくぼりょ、バンガードさんご夫婦、ライブワークショップ参加の美子さんとお連れ、ほかにもいらしたかもしれない。大勢の人に来ていただき、ほぼ満席。ありがたい。

1時定刻にライブスタート。
まずは私のソロピアノで「浜辺の歌」を。今日はまるで初めてピアノを弾くかのように、丁寧に、しかしたどたどしく弾くことを心がけてみた。あらたな気づきがあって、おもしろかった。
続いて、野々宮と秀恵ちゃんに出てもらって、「Bird Song~鳥の歌」の朗読と歌のセット。私も秀恵ちゃんも曲順を間違えていて、先に「青い空、白い雲」をやるものとばかり思っていたが、野々宮がこちらを読みはじめたのでちょっととまどった。
マイク音量が小さいように感じたので、ピアノを弾きながら途中で指示を出したりして、ややぎくしゃく。まあしかし、野々宮と秀恵ちゃんの伸びやかなヴォイスに助けられた。
次はいちおう「雨の雫」というタイトルがついているが、完全即興の曲。秀恵ちゃんのヴォイスに、坂野さんのクラリネットに加わってもらった。
決まっているのは、調と、リズムのみ。とても自由に、のびのびとイメージを遊ばせてもらった。後半、坂野さんが時々調性を崩してくるので、ちょっとだけ付き合ったり。楽しい。
最後はまた野々宮と秀恵ちゃんによる「青い空、白い雲」。野々宮が珍しくエモーショナルに読んだ。そして秀恵ちゃんの歌もすばらしかった。

終わってから皆さんと話をした。
岩崎さとこが出演している劇を新宿のタイニイアリスまで観に行く予定だったのだが、名古屋からわざわざ来てくれた樋口くんたちや坂野さんもいたので、げろきょの何人かを誘って羽根木の家に移動し、ゆっくりすることになった。
夜にはタイニイアリスから帰ってきたなおさんが寄って、いろいろ話を聞かせてくれた。
心地よい疲れを残して、いい一日が終わった。

次世代作家養成塾:習作&講評「肥満」山田みぞれ

読書というのは一種の疑似体験です。
「疑似」というのは、似ているけれどもリアルな体験とは違う、ということを意味します。しかし、この「疑似」と「リアル」の近似値が小さければ小さいほど、文章の質が高いことはいうまでもありません。
たとえば、ものを食べる、という経験はだれもが持っています。ある文章にものを食べる行為が書かれていたとき、それを読んだ人があたかも自分も同時にものを食べているかのように感じたとしたら、その疑似体験は質の高いものになります。唾がわいたり、美味しさを思い出したり、満腹感を味わったりするのです。
実際にものを食べているときの私たちの身体の動き、神経の働きが、その文章を読むことでそっくりそのままよみがえってきたら、その文章はとても質の高い疑似体験を提供していることになります。

山田みぞれのこの作品は、質の高い疑似体験を読者に提供します。それはなぜでしょう。

(以下、講評つづきと作品本体は養成塾のメールマガジンで掲載しています)

※オンライン版「次世代作家養成塾」の詳細については、こちらをご覧ください。一か月間の無料お試し期間があります。

2011年8月28日日曜日

次世代作家養成塾:習作&講評「帆立貝」野々宮卯妙

「肥満」テーマでの野々宮卯妙の作品を取りあげます。
小説(物語)は太古より、ストーリーを人々に伝えるための手段でした。『源氏物語』はもちろんのこと、『古事記』『日本書紀』もストーリーとして書かれていますし、聖書もそうです。
それ以前に書かれたものとして、たとえばインドの『ヨーガ・スートラ』などがありますが、これはストーリーではなく「標語」の集合体のような形のものです。
つまり、原初は言葉の集合体だったものが、次第にストーリーを語るスタイルに発展していった、というのが人類共通の流れのように見えます。
ストーリーを語るスタイルは17世紀、18世紀ごろになって、ヨーロッパで急に発展します。アレクサンドル・デュマ(フランス)の『三銃士』『モンテクリスト伯』などや、セルバンテス(スペイン)の『ドンキホーテ』など、ストーリーはしだいに複雑に、そして波瀾万丈になり、登場人物も込み入ってきます。
19世紀になると、フランス、スペインはもちろん、ドイツ、イギリス、アメリカ、ロシアでもストーリーテリングが発展していき、急速に多くの人々が小説を読むようになります。これは活字印刷技術の発達にもよります。物語のコピーが大量に生産され、人々は安価な娯楽としてこれをこぞって買いもとめ、楽しむようになります。
文学が大衆化し、マス化していくと同時に、書き手側の技術も複雑化していきます。ストーリーを語るものから、しだいに人間の内面を語るものが出てきます。バルザック(フランス)、スタンダール(フランス)、ドストエフスキー(ロシア)、ブロンテ姉妹(イギリス)、夏目漱石(日本)。まだまだいますが、きりがないのでこのへんにしておきます。イメージはつかんでいただけるでしょう。
この時代、人間の内面は「独白」や「説明」によって描かれようとしました。
これに疑念を呈したのが、20世紀にはいってからの作家たちです。たとえばヘミングウェイ。
彼は「人間の内面は直接語ることはできない。言葉で説明するには抽象的すぎる」というかんがえのもと、「外面描写」から人間の内面を表現しようとしました。
たとえば、それまでの小説だと、
「彼女は身を切るような悲しみに襲われて泣いた」
と書くところを、ヘミングウェイは、
「彼女は両手で顔を覆った。指の間からこぼれた涙がテーブルを濡らした」
と書くわけです。
「身を切るような悲しみ」という表現は主観的なものですが、ヘミングウェイはそれを徹底的に排除し、客観描写だけで内面を表現しようとしたのです。それがこんにちの小説に革命をもたらしました。

前置きが長くなりましたが、野々宮卯妙のこの「帆立貝」は、たぶん意識的に客観描写の実験をしているのだと思います。客観描写だけでどれだけのことを伝えることができるか。こういう練習は、書くことの大きな練習になります。
それにちょっとエロティックでぞくぞくしますね。ぎりぎり下品に落ちていないところがいいし、また説明を意図的に限定していることで、これが男女なのか、女同士なのか、含みを持たせているところも、読者の想像をうまくかき立てています。

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2011年8月27日土曜日

次世代作家養成塾:習作&講評「風の谷のナントカ」船渡川広匡

ナンセンスユーモア作家・船渡川広匡シリーズのつづき。
この養成塾で最初のほうに取りあげた船渡川広匡の「せみ」という作品があります。覚えておいででしょうか。
その講評で、私は、まだ(セカンドステージの)技術がともなっていないこと、冒頭部分に問題があることなど、いくつか指摘しました。
それを受けて彼が書きなおしてきた作品を、今回は紹介したいと思います。

ところで、書き直しという作業は必要です。面倒ですが、必要です。
表現には、自分の内面から湧き上がってくる自分そのもののオリジナルなイメージをつかまえるファーストステージと、それをつかまえたあとに「人に読ませるための作品」として整えていくセカンドステージがある、ということはすでに述べました。そのセカンドステージの話です。
質の高いもの書きは、自分がいったん書きつけたものを執拗に書きなおします。何度も何度も書きなおします。締切りに追われて、書き散らしたものをそのまんま出版社に渡しているように見えても、ゲラ刷り(著者校正)の段階で書きなおします。ゲラ刷りはたいてい一校、二校と出てきますから、しつこくしがみついて直します。印刷が間に合わなくなるギリギリまで直しつづけます。
そのとき著者は、著者と読者のあいだを行ったり来たりする存在となっています。自分の書いたものを読者の視点で読みかえしながら、気にいらない部分を著者に立ちもどって書きなおします。そしてまた読者に戻り……という具合に、何度も行ったり来たりしながら直していくのです。

(以下、講評つづきと作品本体は養成塾のメールマガジンで掲載しています)

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2011年8月26日金曜日

電子ブック『オーディオブックの真実』を発売

InDeSignを使って電子ブックを作る実験を超スローペースでやってましたが、ようやく一冊完成したので、実験的に販売してみることにします。
以前、ツイッターで連続つぶやきしたものをもとに手を入れ、電子ブックにしたものです。A4サイズ2段組で、びっしり25ページあります。それなりの読み応えです。ま、オーディオブックとかダウンロードコンテンツに興味のある方向けですが。

「ブクログのパブー」というところのシステムを利用してます。
PDFファイルとePubファイルの両方があります。
ラップトップやiPadなどのタブレットマシンで読むならPDFがいいでしょう。縦書で普通の紙の本のように読めます。
iPhoneなど小さな画面で読むなら、ePub形式がいいと思います。iPhoneならiTunesのBooksフォルダに放りこんで同期させれば、iBooksというアプリで読めます。ただし横書きになります。

価格は100円に設定してあります。無料でもよかったんですが、課金の実験も兼ねているので。
今後は、私のこれまでのいろいろな著書や、ケータイサイトで連載した長編小説、そして新作の本などもどんどん公開していきたいと思います。
みなさん、どうぞよろしくお願いします。
あ、そうそう、次世代作家養成塾の電子マガジンもこの形式で配信していきます。


特盛 MacBook Air 11" を使ってみる

いわゆる「特盛」の MacBook Air 11インチを使ってみた。
なにが特盛なのか。おもな特徴は以下。

OS OS-X 10.7 Lion
CPU Intel Core i7
RAM 4GB
フラッシュストレージ 256GB
Thunderbolt I/O
バックライトキーボード

Lionはすでに導入ずみだったので特に驚かない。
CPUは速いのか、というと、速い。けど、体感はわずかな違い。これまでのAirだって充分に速かった。もっとも、映像のレンダリング処理とか、音楽編集、あるいはアドビのCSなどの重たい作業では、確実に威力を発揮する。
RAMの4GBも効いていそうだ。重たいソフトをいくつも並行して立ちあげて作業しても、まったくストレスは生じない。
フラッシュストレージ、つまりSSDドライブ256GBというのはすばらしい。128GBを使っていたのだが、映像編集、音楽編集、そしてCS5.5などを入れると残り50GBを切っていた。映像の取りこみなどをするとすぐに逼迫してしまう。なので、少しずつ取りこんでは外付けHDDに退避するということを繰り返さなければならなかった。
256GBは余裕だ。いろいろデータを突っ込んでも150GBは余りがある。なので、VMware Fusion や Parallel で Windows 7 をインストールしておこうかという気にもなる。

私はAirは比較的軽い作業や持ち運びに使い、MacBook Pro 15インチをメインマシンとして重い作業に使っているのだが、新Airだと重たい作業にも耐えそうだ。つまり、外出先でも自宅環境とあまり変わることなく、ストレスレスに映像編集や音楽編集ができるということになる。
こんなうすっぺらくて、しかも安価なマシンで。
すごいことになったなあ。
スティーブ・ジョブスの引退が発表されたばかりだが、ほんとに残念だ。健康が回復することを祈る。ありがとう、ジョブス。

ものを書くときに読者をどう想定するか

小説でも詩でもハウツー本でもブログでも、なにかを書くときには対象読者を想定すべし、とよくいわれます。つまり、どういう人が読んでくれるのか、どういう人に読んでもらいたいのか、イメージして書きなさい、というわけです。
本当にそうなのでしょうか。
この想定読者問題をかんがえてみることにします。

一見、自分の文章を読んでくれる人をイメージして書くのは、メッセージを向けるべき相手がはっきりしているので、表現もしっかりするように思えます。それでいいのかどうか、検証してみたいと思います。
羽根木のゼミのメンバーに、いつもだれを想定して書いているのか、聞いてみたことがあります。
「編集者」
「不特定多数」
「ブログを読んでくれている友達」
「自分自身」
いろいろな答えが返ってきました。が、「だれも想定しない」という答えはありませんでした。
私自身はどうかというと、職業作家になったとき、編集者から対象読者についてはいやというほど聞かされ、絞り込んで想定するようにいわれて書いてきました。だから、対象読者を想定することをほとんど無意識におこなってしまうし、習い性のようなものだといっていいかもしれません。
が、最近はそのかんがえが変わってきました。

まず、読者をこちらがいくら頭を絞って想定しても、はたしてそのとおりの読者が読んでくれるかどうかわからない、という問題があります。
たとえばネットで20代前半の女性を想定してボーイズラブを書いたのに、実際には40代の女性がもっともたくさん読んでくれた、なんてことはいくらでも起こります。
では、対象読者をひとりに絞りこんだらどうでしょうか。この場合は、想定外の読者があらわれる心配はなさそうです。
しかし、この場合でも問題が起きます。たとえば、対象読者を担当編集者ひとりに絞ったとして、その編集者を想定して一生懸命書いたとします。彼ならこういう話・こういう文書を喜んでくれるはず、と思って書いたとします。で、実際に読んでもらうと、思いがけない反応が返ってくるわけです。場合によっては、まったく喜んでもらえなかったりします。もちろん喜んでもらえることもあるかもしれませんが、いずれにしても、喜んでもらえるか喜んでもらえないかは、たんなる自分の「想像」であって、事実ではありません。つまり、予測不能なのです。
予測不能なことを無理に想定して書きすすめていくとどういうことが起こるでしょうか。
書き手は自分の外側になにかものを書くための「基準」とか「評価」を想定して書いていくことになります。書くためのイメージを想起させる主体が、自分のなかではなく、自分の外にあることになります。これは、自分を表現するためのテキストを書く行為として、とてもつまらないことではないでしょうか。「商品を書く」というのなら話は別かもしれませんけどね。

では、どうかんがえればいいのでしょうか。

(以下、略。本文全体は養成塾のメールマガジンで掲載しています)

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 ⇒ http://ibunko.com/online_text.html

2011年8月25日木曜日

朝ゼミ、ピピカレー、昼ゼミ、ネコゼミ、ビデオゼミ

午前10時半から朝ゼミ。
まだ夏休み期間のせいか、お母さんしてる人は欠席しがち。レギュラーメンバーの半分しか出られなくて、ちょっと寂しい。
朝ゼミでは宮澤賢治の「なめとこ山の熊」をみんなで読んでオーディオブックにしよう、という計画が進行中なのだが、まだ収録用シナリオが完成していないのと、参加者が少ないのとで、今日は「なめとこ山」はお休み。代わりに、昨日のヨガで習ったことをいくつかシェアしたり、新作を含むいくつかの朗読エチュードを試してみたりした。
「インターバルのエチュード」という新作エチュードをやってみたのだが、なかなかおもしろい効果があるようだった。

昼は近所のピピカレーへ。ここ、最近、いつも混んでいる。

午後は2時から昼ゼミ。
唐さんが小川未明を読む。まぁやが宮澤賢治を読む。みぞれさんが自作短編を読む。かっしーが太宰治を読む。ひさしぶりにゆっくりそれぞれの読みを聞かせてもらった。

夜は8時からビデオゼミ。
Google+のビデオチャット機能を使った複数人数でのオンラインミーティングなのだが、今夜は参加者がたるとさんと朱鷺さんのみ。自宅にいながらにして参加できるのでとても楽だし、たのしいので、もっと積極的に参加してもらいたいのだが。
ま、でも、3人で楽しくやらせてもらった。

次世代作家養成塾:習作&講評「肉人間」船渡川広匡

今日も引き続き、ナンセンスユーモア作家・船渡川広匡の作品をお送りします。
この「肉人間」はタイトルからして秀逸だと話題になりました。
本人によれば、これまでタイトルは考えずに課題テーマをそのままタイトルにしていたそうですが、読者からの要望があってタイトルを個別につけてみることにしたそうです。

作品にタイトルをつけるのはなかなか悩ましい問題です。
商業作品の場合は、タイトルをつける基準はただひとつ、「売れるか売れないか」しかありません。内容はともかく、タイトルだけで消費者に手に取ってもらったり、話題になったりすれば、こっちのものです。
しかし、私たちは商品を作っているわけではありません。自分を表現するための作品を作っているのです。その作品のなかでまず最初に読者に届くのがタイトルです。
「この作品を読んでもらう人に、最初にとどく言葉がタイトル。では、どのような言葉を届けるのがふさわしいか」
という思考が必要です。一概に、「こうすればいいタイトルになる」という王道はありませんね。残念ながら。

で、「肉人間」。
まさにずばりそのもの、内容そのまんま。そしてインパクトのある言葉。
読んでみたい気になりますね。
成功です。
内容的には、私はこの続きが読みたいと思った。肉人間が主人公に自分の肉を食べよと迫ってきた。そのあとどうなるんだろう。主人公は食べるのか、食べないのか。もし食べたらどうなるのか。食べなかったらどんな恐ろしいことが待っているのか。
この続きもまた、船渡川の無意識の暗闇から引っぱりだしてきてほしいものです。どんなとんでもないものが出てくるのか、楽しみでしかたがありません。

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2011年8月24日水曜日

初のヨガ講座(た〜の〜し〜い〜)と平日午前のテキストゼミ

今日はまず、午前中にテキスト表現ゼミの、平日午前の部の初回。参加者はみぞれちゃん、みきてぃ、ののみや。まったくタイプの違う三人で、おもしろかった。仕事のローテーションの関係でこのところあまり参加できなかったみきてぃが、この曜日時間帯には参加できるということで、ひさしぶりに話ができてうれしかった。

午後は田中智講師によるヨガ講座なのだが、二時間前からは食事をしないでほしいといわれていたので、昼食抜き。というより、テキストゼミの最中に少しだけパンをかじっておく。
午後になって暑くなってきた。

午後二時からヨガ講座。引き続きみぞれちゃん、ののみや、まりこ、ののみや娘、まりもちゃん、少し遅れて矢澤ちゃんが参加。
田中先生は前置きもそこそこに、いきなり始めて、初心者コースといいながら二時間みっちりやってくれた。古典ヨーガをベースにした、ヨガの思想体系をも踏まえたベーシックな内容なので、無理なポーズもなく、ポーズとリラックスの意味についてもしっかりと認識させてくれる充実した内容で、大変おもしろく、楽しかった。
暑いなかだったが、ほとんど苦になることもなく、二時間、集中とリラックスを同時に体験できた。
田中先生、ありがとう。
この講座はあさって26日の夜にも開催される。できれば、現代朗読協会で定期的に講座を持ちたいところで、現在、詳細は検討中。

終わってからお腹がすいたので、ありあわせのものでベトナム・フォー風そうめんを作って食べる。これは夏にはなかなかいい簡単料理なのだ。今度、レシピをアップしよう。

次世代作家養成塾:習作&講評「伝説」船渡川広匡

すげーばかばかしいアイディアを思いついたとき、それを書くべきか捨てるべきか、迷うことはよくあると思います。
自分のなかの見えない無意識の闇に釣り糸を垂らしていると、泡沫のようにくだらないイメージや言葉が湧き上がってきます。それらを拾いあげたり、捨てたりして、ものを書くわけですが、ばかばかしいからといって書くに値しないということはありません。
どういうものに書く価値があって、どういうものに書く値打ちがないのか、それぞれ一定の価値基準のようなものを持っていると思いますが、いったんそれを捨ててしまうのも大事なことです。
自分が持っている価値基準は、いったいなにを根拠にしているのか。ひょっとしてその価値基準は、だれかから与えられたものなのではないか。社会的基準として外側から与えられたものなのではないか。自分の価値基準だと思いこんでいるだけではないか。
そういうことを疑って、価値基準をいったん捨ててみる。そのためには、自分の価値基準にそぐわなくて捨ててしまうようなアイディアを拾いあげて、書いてみる。
つまりは私たちはなんらかの価値基準にそってなにかを書くのではなく、「書く行為」そのものが重要だということです。「なにを」書くのかではなく、「どう」書くのかが重要なのです。どんなくだらないアイディアでも、書きかたによってなにかを人に伝えることはできます。たとえばこの船渡川広匡の「伝説」のように。

本当にくだらないアイディアだと思います。
ようするに「高木ブー」一発です。あとで聞いたところでは、筋肉少女隊の曲からタイトルも思いついたということです。
まったくばかばかしい内容ですが、大事なのは船渡川広匡の文章としてこれを書けるかどうか、ということです。それができれば、内容のばかばかしさは逆に驚愕の共感作品となります。
そういう意味で、船渡川広匡は大変おもしろい可能性を秘めながら、いつもあと一歩の詰めが弱いのです。アイディアも思いついたところからさらに切りこんで濃縮させたいところです。
たとえば、電車の空席のエピソード。これはありきたりすぎる。もっとキレのいい「ギャグ」がほしいところです。
また、「私」がなぜタクシーの中でパソコンを広げて報告書を作成しているのか。こういうディテールについては「ただそう思いついたから」で終わらせてはいけません。こういう部分を詰めていくことが「創作」という行為なのですから。

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2011年8月23日火曜日

次世代作家養成塾とはどういうものなのか

参加してみたいけど、まだよくわからないのでためらっている、という人がいるらしいので、もう少し詳しく説明してみましょう。
本当は一か月間の無料お試し期間があるので、どうしようか迷っている人はとりあえず一か月だけでも参加してみればいいと思うのですが、まあ、あらかじめわかっておきたいという人も多いようなので。

「次世代」と「作家」と「養成塾」というそれぞれの言葉について説明します。
文字通り、「次世代」の「作家」を「養成」する塾、ということになりますが、それぞれの定義をしておかなければなりません。
たとえば「作家」という言葉。ほとんどの人が漠然と「小説などの文章を書き、本を出版して生活している人」というふうに考えているのではないでしょうか。
これは作家の定義ではなく、たんなる外側から見た「形態」を表しているにすぎません。作家というのは「形態」ではなく「状態」なのです。しかも、外側から規定される状態ではなく、本人にしか規定できない状態なのです。

私たちは経済的な社会システムに首までどっぷりとつかって暮らしているため、ものごとを経済から切り離して考えることに極端に不自由になっています。「作家」にしても、それで「食えてるか食えてないか」ということばかり考えてしまいます。
しかし、それで食えていようが、食えていまいが、彼が書く文章のクオリティには関係ありません。
私はこの養成塾で「食える作家」を養成するのではなく、「すぐれた作家」を養成したいと思っています。それで食えるか食えないかは、その結果にすぎませんし、社会情勢、時代状況や、人脈、その他さまざまな運にも左右されるでしょう。外側の状況には規定されないといったのはこの意味で、まわりの状況がどうであれ、本人が「作家という状態」であれば、その人はだれがなんといおうと作家なのです。

では「作家という状態」とはどのような状態のことでしょうか。
私がかつてそうであった職業作家とは、「出版社や編集者から原稿の発注があって初めて書きはじめる人」です。注文もないのに、あるいは出版するあてもないのに、原稿を書いたりはしません。つまりカネにならない原稿は書かないのです。
しかし、その職業作家もかつてはそうであったに違いない「作家という状態」というのは、注文があろうがなかろうが、出版するあてがあろうがなかろうが、もっと極端にいえばだれかに読んでもらうあてがあってもなくても、とにかくなにかを書かずには生きていられない、という人のことです。
本当の作家は目がさめた瞬間からなにか書くことを考えています。なにをしていても書くことを考えています。人生の中心に書くことがあります。暇があればなにか書いています。それがお金になるかどうかとか、だれかが読んでくれるかどうかとか、関係ないのです。彼はただ、書きたいから書いているだけなのです。それが彼の表現であり、生き方なのです。
だから、社会的にそれで食えているかどうか、とか、著書があるかどうか、とか、作品が活字になったことがあるかどうか、とか、なにか賞をもらったことがあるかどうか、などということは、彼が作家であるかどうかとはまったく関係のないことなのです。たんなる外的評価にすぎません。

私はこの状態の、いってみれば純粋作家状態に「次世代」という名称を冠することにしました。
私たち表現する者は、いい加減、マネーシステムやマーケットから離脱したものの考え方をしなければなりません。
表現は本来、マネーシステムとは関係のないものであり、もちろんテキスト表現もそうです。私たちはお金のためにものを書くのではなく、自分と、それを読んでくれるかもしれない人のために書くのです。それが結果としてお金になったりならなかったりするのは、また別の話です。切り離して考えなければなりません。

この「次世代作家」をどうやって養成するのか。
ここからは養成塾の具体的な内容の話になるので、ひとことでは書けません。
ただ、これだけはいえると思います。
小説にせよエッセイにせよ、文章を書く人に書き方を教えるとき、これまであまりにその「身体性」や「感受性」のことがおろそかにされてきました。次世代作家養成塾にはこの部分にまずスポットをあてます。
表現は「技術」と「個性」の両方があって初めて成立します。そして「個性」はそれぞれの人固有の「身体性」と「感受性」によって生まれるのです。(「経験」という人もあるかもしれませんが、これは少し違います。説明すると長くなるので、いまははぶきます)。この部分に着目し、個性すなわちオリジナリティを磨く方法を身につけることで、ひとりひとりをまったく違うタイプの優れた書き手へと養成します。
これが「次世代作家養成塾」の目的です。
すべての人はひとりひとりが優れて個性的な表現者になりうる。それが私の信念です。

もうひとつ。蛇足ですが。
次世代作家養成塾の運営方針は「共感」と「ユーモア」です。いついかなる時でも、共感とユーモアを忘れずに運営していくつもりです。
ともあれ、とにかく楽しいのです。いっしょにやりましょう。

※「次世代作家養成塾」の詳細はこちらをご覧ください。一か月間の無料お試し期間があります。

日曜・音倉は歌姫参上!

猫のスケッチ展「猫のうた」の会期最終日に、もう一度ランチタイムコンサートを行ないます。
下北沢〈Com.Cafe 音倉〉にて、13時より。

ここにゲストで歌姫が来てくれることになりました。
数年間活動を休止していた永倉秀恵が、ちょっとだけ歌いに来てくれるのです。
彼女の過去の歌声は、iTunes Store などで聴けますが、このたび、復帰するにあたって、またあらたな境地を開いてくれることと思います。
本格復帰はまだ少し先のことになりますが、そのプレライブとして1、2曲だけ歌ってくれることになりました。ぜひ会いに来てください。

すでに2回おこなったランチタイムコンサート同様、私のピアノ演奏や野々宮の朗読もあります。
展示も最終日ですので、猫ちゃんたちにも会いに来てくださいね。

次世代作家養成塾:習作&講評「肥満」前野佐知子

説明をするな、削ぎ落せ。描写に徹せよ。
というのは、しばしば、口がすっぱくなるくらいいうことです。
なぜ説明してはいけないのか、なぜ描写に徹するのか、についてはあらためてきちんと説明する機会を持つことにします。ここでは簡単に、どういうことなのか、かいつまんで、前野佐知子のこの作品で例示しておきます。

以下の文章。
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聡子にすり寄るように薄闇が迫る。手元の日付が見えにくい。聡子は立ち上がって電気をつけた。ゴミ袋は3つになっていた。
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ここで「手元の日付が見えにくい」という部分は、主人公聡子の主観です。心のなかの言葉であって、それは外側から見えないものです。こういう種類の文章を徹底的に削ぎ落してみるのです。
次のようになります。
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聡子にすり寄るように薄闇が迫る。聡子は立ち上がって電気をつけた。ゴミ袋は3つになっていた。
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どうですか? なにが変わりましたか? どんなふうに変わりましたか?

前野佐知子のこの作品は、たぶん、悲しみや悔しさを内にこめたまま、しかし無表情に淡々とモノを捨てていく彼女の「描写」がすべてだと思うのです。それゆえ、余計に描写に厳しく目を配らなければなりません。
あと、彼から別れを宣告されるそのセリフも、ひと工夫あるといいでしょう。

(以下、作品本体は養成塾のメールマガジンで掲載しています)

※オンライン版「次世代作家養成塾」の詳細については、こちらをご覧ください。一か月間の無料お試し期間があります。

2011年8月22日月曜日

ジブリアニメ「コクリコ坂から」の良さはなにか

急に思いついて、宮崎駿の息子の宮崎吾郎の監督作品「コクリコ坂から」を観てきた。
宮崎吾郎は前作「ゲド戦記」がアレだったので、まったく期待していなかったのだが、思いがけずいい映画だった。拾い物だった。
とくにすばらしかったのは、全編の美術だ。東京オリンピックの前年の1963年という時代設定だが、街の風景、海や丘の風景、建物、屋内、商店街、そして横浜から東京にかけての繁華街の光景など、いい空気感で描かれている。もちろんアニメなのでリアルというわけではないが、空気感をうまく出していると思った。
もっとも、父・宮崎駿の作る絵柄の広々した気持ちよさにはかなわない。これが個人の資質によるものなのか、時代によるものなのか。ひょっとして、父・駿が生まれ育った環境と、息子・吾郎が生まれ育った環境の違いのせいで、それぞれの監督が作る絵柄の空気が変わってくるのかもしれない。

音楽もよかった。全編、ジャズと、ジャズっぽいアレンジの曲でカバーされている。
もっとも、絵と音楽のマッチングがしっくりしていない場面もいくつかあって、音楽がうるさく感じられるシーンもあった。
これはあまり指摘されることはないのだが、宮崎駿は天才的な音楽使いでもある。音楽を作るのは音楽家だが(今回は武部聡志)、それを使うのは監督である。宮崎駿は「カリオストロの城」からすでに天才的だった。彼が「風の谷のナウシカ」という、実質的には彼自身の初長編アニメで久石譲という、当時はほとんど無名の音楽家を使ったことも、宮崎駿の音楽的感性の鋭さを証明している。
吾郎は残念ながら親父に及ばない。

20代より若い人たちには、この映画のどこがよいのかさっぱりわからない、という意見があることを聞いた。
なるほど。これを、1963年という日本のある時期のノスタルジックな風景のなかで語られるストーリーとして理解するなら、彼らにはさっぱりわからないことになるだろう。私は1957年生まれだが、かろうじてこの時期の日本の風景はノスタルジックな感情に重ねあわせることができる。が、この映画をノスタルジックに観てしまったら、見方を誤る。
映画の終盤で風間くんが演説する場面がある。あそこにたぶん、宮崎駿(吾郎ではなく)のメッセージがこめられている。そのメッセージは、おそらく、「ナウシカ」「ラピュタ」そして「トトロ」「千と千尋」などにも通底している強いメッセージなのだ。それを受け取れるかどうかは、観客の年齢とは関係のない話だ。

余談だが、カルチェラタンを壊さないように徳丸理事長に3人で頼みに行くシーンで、徳丸財団の建物が昔の徳間書店の徳間ビルそのものだったので、笑ってしまった。
私は処女長編を徳間書店から出して作家デビューしたのだが、1986年に初めて徳間書店を訪れたときのことをはっきりと覚えている。まさにそのビルが出てきて、びっくりした。
そしてもちろん、徳丸理事長は亡き徳間康快氏そのまんまなのである。いろいろと問題のあった人ではあるが、これも宮崎駿のちょっとした遊び心と同時に、供養の一種なのかもしれない。

などと、父親と比べてばかりいるのはかわいそうだ。それが宿命だとはいっても、ひとりの映画監督として見たとき、「ゲド戦記」⇒「コクリコ坂」という成長がある。これはすばらしいことだと思う。
私たちはこの映画を、宮崎駿の息子が作った映画、ではなく、宮崎吾郎という若手監督の懸命の作品として観なければならない。
私たちにいま必要なことは、若手や新人をけなすのではなく、育てることだ。そのことに喜びを感じることだ。
いま、映画界も文学界も演劇界も音楽界も、本当に人材を育てることが難しくなってきている。せっかくの才能が次々とつぶされていくのを見ているとつらくなる。
私のような年上の者も、大人も、そして作り手の同年代も、それよりも若い人たちも、人を応援し育てることを真剣にかんがえてほしい。そうすれば結局は自分たちもその恩恵にあずかることになるのだ。
それができないと、たとえば本郷館のような文化資産(カルチェラタンそっくりだ)を個人の所有物だからと平気で取りつぶしてしまうのを許容する精神的貧困極まる社会が、さらに進展していくだろう。

創作における「アイテム」の扱い、など

現代朗読協会「羽根木の家」で週に2回開催されているテキスト表現ゼミの模様からの抜粋。
8月20日(土)夜に開かれたゼミで取りあげた照井数男と船渡川広匡の作品講評から。ゼミでは創作で「イベント」「アイテム」といった概念を導入しています。また、船渡川広匡の作品は相変わらずばかばかしくも無意識領域に踏みこむ不思議な話。

テキスト表現ゼミでは、随時、参加者を募集中ですが、羽根木の家まで来れない方のためにオンライン版「次世代作家養成講座」も並行開催しています。
興味のある方はこちらをご覧ください。

ケロログ「RadioU」で配信中。

次世代作家養成塾:習作&講評「出会う」石川月海

テキスト表現にはさまざまな形がありますが、養成塾で提出されるのは「小説」すなわちフィクションの形を取るものが多いようです。
また、フィクションにもさまざまな形があります。読むほうはいちいちそんなものは区別してませんが、書き手側は自分がどういうアプローチで書いているのか、ある程度客観的に理解していたほうがうまくいくことがあります。
そんなことを考えずに一気に書いてしまってもいいんですが、フィクションにもいろいろな形があって自分はいまどういうアプローチで書いているのか自覚していたほうがいい場合もあります。これは「技術」に属することがらなので、知らなくてもかまいませんが、知っていたほうが自分の「可動域」が広がることは間違いありません。もっとも、技術にとらわれてしまって、可動域を広げるつもりが逆に「とらわれ」になってしまってはつまらないですが。

石川月海のこの作品のようなアプローチのテキストを、私は「スケッチ」と呼んでいます。
どんな人にも「物語」があります。それはどこか遠くから流れてきて、これからもどこかへ流れていく大きな河のようなものです。そのどこか一瞬を切り取り、あたかも静止画のように描いて読者の前に差し出す。
よく描かれたスケッチは、その前後の物語や、登場人物の世界全体をうまく想像させてくれます。なので、スケッチはなるべく具体的な手触りがほしいのです。
もちろん、抽象的なスケッチも可能でしょう。しかし、まずは具象スケッチをいかに自分らしいタッチで描けるようになるか。これはテキスト表現の練習のスタートとしてかなり有効で、重要なものです。

この「出会う」という作品は、そういう意味で手触りが具体的であり、描かれているシーンの空気や登場人物の匂い、繊細な気持ちの揺らぎといったものが非常に緻密に構成されていて、驚きます。大変すぐれたスケッチだと感じました。ほとんど注文のつけようがありません。
ひとつだけ。「不安」という言葉が何度か出てきますが、これは主人公の気持ちを表す言葉ですね。しかし、具体的な言葉ではありません。「不安」という言葉を使わずにこのスケッチを描けなかったか、ということです。

(以下、作品本体は養成塾のメールマガジンで掲載しています)

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2011年8月21日日曜日

次世代作家養成塾:習作&講評「肥満」倉橋彩子

ちょっと難解な作品になりましたね。しかし、悪くはないと思います。
現代の商業流通ルートに乗っている小説は、ほとんどが「難解=わかりにくさ」を排除されています。書き手が編集者から要求されるのは、わかりやすさ、明快さ、はっきりとした結末、といったものです。
書かれるひとつひとつのシーンが曖昧でなく明快で、だれが読んでもはっきりくっきりと目に浮かべることができるようにします。登場人物の造形も明快で、ときに記号的であるか、せいぜい記号を組み合わせたものであることが多い。

この倉橋彩子の作品は、この短さにも関わらず、視点が入りくんでいます。時間軸も交差しています。説明が極端にはぶかれ、読者はなにがどんなふうに、だれの目を通して起こったのか、注意力と想像力を駆使しなければ読みとくことができません。
このような書き方は商業作品とは逆行していますが、なに、それでかまわないのです。倉橋彩子はなんの遠慮もなく、読者にこびることなく、自分の表現をおこなえばいいのです。
そういう意味で、倉橋彩子はどんどんオリジナリティを磨きあげつつある書き手です。
もっともっと個性の中心に向かっていったらどうなるか。だれにも書けない、ひょっとしてだれにも理解できない作品ができてくるかもしれません。それはすごいことですね。

草間彌生という世界的造形作家をご存知でしょうか。水玉アートで有名ですね。
彼女は小説もたくさん書いていて、それはそれはオリジナリティに満ちた文章です。ストーリーも意味もご自分のなかで完結してはいるんでしょうが、それを決して「他人にわからせようというサービス」はしていません。そこが逆に魅力的なのです。
意味がわからないストーリー、言葉、セリフ、描写、まるで前衛絵画そのもののようなイメージが文章で展開されています。そして読者は草間彌生の言葉の世界をただ受け入れ、楽しむのです。純粋なテキストの快楽といっていいでしょう。
倉橋彩子に草間彌生になれ、というつもりはありませんが、より自分の言葉の世界を、読者にこびることなく追求していってもらいたいと思います。
もっとも、この作品にまだまだ未完成感があることは否定できません。もっともっと注意深く構成や言葉を詰むことはできるでしょう。

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本は衰退するか、テキスト表現の行方は?

現代朗読協会「羽根木の家」で週に2回開催されているテキスト表現ゼミの模様からの抜粋。
8月20日(土)夜に開かれたゼミで、メンバーのひとりが某作家のトーク&サインイベントに行ってきた話をしました。そのなかで、その作家が、
「これからは自分の本を売るというより、本全体の売り上げを底上げする必要がある」
というような主旨のことをいったというのを聞き、塾長・水城が反論を展開することになりました。
私たちは本を読むとき、「なにを」読んでいるのか。本を読むとは、ふたとおりの情報を読んでいることである、という話です。

テキスト表現ゼミでは、随時、参加者を募集中ですが、羽根木の家まで来れない方のためにオンライン版「次世代作家養成講座」も並行開催しています。
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ケロログ「RadioU」で配信中。

2011年8月20日土曜日

ライブワークショップ2回め、テキスト表現ゼミ「肥満」テーマ

午前10時から今期ライブワークショップの2回め。
見学者、1名。
欠席者が3名いたけれど、昨日から急に涼しくなって羽根木の家もすごしやすく、ワークショップもやりやすい。現代朗読は身体性を重視するので、身体を動かす場面がけっこうある。今日もストレッチ、呼吸、発声と、いつもよりじっくりとやった。
その前に、いつものように気づき報告。まなさんがバリ島に行ってマインドフルネスを味わってきた話とか、ゆみこさんのカミングアウトの話など、興味深い。その過程で、見学のよしこさんがマインドフルネスについて質問されたので、解説する。マインドフルネスは表現行為にかぎらず、生活、仕事、勉強などすべての場面で人生を豊かにしてくれる大切な方法だ。来週のヨガ講座でもそのことを深めてくれるだろうと期待している。

宿題だった「双子の星」の一場面を描いた絵を見せてもらう。それぞれ個性的で、楽しい。
そのあと、「評価」を手放すための共感的「連想感想」のエチュードをやる。これはいつやっても楽しく、読むほうも聴くほうも幸せになれる。評価的ではなく共感的に聴くための練習だが、これがそれぞれの表現力を飛躍的にのばしてくれる理由を解説したりする。
また、感覚を閉じるのではなく、開くことで表現が豊かになる原理も解説する。
今日のライブワークショップも充実した内容となった。私自身も学びの多い時間だった。

午後6時から、テキスト表現ゼミ。
今夜はふなっち、照井、まえの、ののというメンバー。テーマは「肥満」。
今夜も楽しかった。そして深い話もいくつか。我々はテキスト、映像、ゲームといったものからなにを消費しているのか、という話。テキスト表現がめざすべきもの。

終了後、ふなっちがよく行く国分寺のライブハウス〈クラスタ〉の話になり、一度そこへ行ってみようということになった。
ネットで調べて、そこに出演している人たちの話で盛り上がる。

ものを書くのに適してる時間

私はことあるごとに「夜書いた文章はクオリティが低い」といいつづけ、作家をめざす人には朝型の生活をすすめている。文章はなるべく早い時間帯に書くように忠告している。
これをまじめに聞いてくれる人はあまりいないのだが、ちゃんと根拠がある忠告なので、いまさらながらその根拠を説明しておく。

いろいろな説があるが、人類がいまのように知能を発達させ、ヒトとして進化をとげた形になったのが、いまから500万年前とも600万年前ともいわれている。ま、ひとまず500万年前としておこう。
そのうち、人が日常的に「明かり」とくに「電灯」を使用して夜でもものを読んだり書いたりできるようになったのは、たかだかここ100年かそこいらにすぎない。それまでは夜は休息の時間であった。労働の時間ではなかった。
また、農耕が始まって食料を備蓄する生活が始まったのは、たかだかここ5000年(0.5万年)くらいのことにすぎない。つまりそれまでは、食料は朝起きたらすぐに「採取」もしくは「狩猟」しに出なければならない生活をしていたのだ。

人類500万年の歴史のうち、499.5万年までが採取・狩猟生活だったわけだから、現在の人もそのころとそう体質が変わっているわけではない。つまり、採取・狩猟生活をしていた昔とおなじ体質のまま、現代生活を送っているわけだ。
朝起きたら、ただちに採取・狩猟に出なければならないわけで、しかも空腹であろう。お腹が減っているだの、眠いだのいっていては、生命にかかわる。つまり、朝起きてすぐの時間に最大の能力が発揮できるようになっていなければならない。というより、そういう体質の人間だけが淘汰されて生き残ってきたというのが、500万年の歴史であろう。
現代人も本当は、朝起き抜けの空腹時に最大の能力を発揮できる体質を受けついでいるはずだ。運動能力、思考能力ともに、朝最大に発揮されるのだ。でなけりゃ生きのびることができない。

そうやって能力を発揮して採取・狩猟をおこない、無事に食料にありつけたあとは、なるべくエネルギー消費を抑えてのんべんだらりとすごす。夜は運動も思考も抑制して、朝まで生きのびるために静かにすごす。
これが人の生活スタイルなのだ。
だから、夜書いた文章は「能力の低いときに書いた」文章となる。

(以下、略。本文全体は養成塾のメールマガジンで掲載しています)

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2011年8月19日金曜日

次世代作家養成塾:習作&講評「人魂」山田みぞれ

「あらすじ」あるいは「説明」と、「描写」は違う、という話をいつもしています。しつこくしています。
この違いについて、学校教育では決して教えてくれません。でも、テキスト表現にとっては最重要課題のひとつといっていいのです。

今回、取りあげるのは、山田みぞれの作品です。みぞれの初提出作品。
初提出にしてはとてもよく書けています。そもそも「読み物」として体裁をなしています。詳しく訊いてはいないんですが、彼女はたぶん、過去にかなりの分量の文章を書いた経験があるのではないでしょうか。
そういう文章です。
そういう文章であるにも関わらず、説明と描写の違いについての認識が欠如しています。そこの部分をシェイプアップすれば、格段にクオリティがあがるはずなのです。

 わんわん池でザリガニ釣りをしていたあの夏の日、永尾のおじさんに出会った。

これは描写ではなく、説明。

「大丈夫か?坊主!」
 抱え上げられた僕は、そのぎょろりとした目玉を見てわっと泣き出した。

これは説明ではなく、描写。
このふたつの違いがわかるところから、テキスト表現の「技術的側面」のレベルアップが始まります。
簡単にいえば、「そのまま画面にできる」かどうかの違い。映画を作ると思ってもらえばいいかもしれません。
もちろん、すべてのテキストが描写でなければならないということではありません。ストーリーを伝える、といったようなある種のテキストについては、描写が有効なのです。そして、描写と説明の意識的分別ができているかどうかということが、表現者の技術レベルを差別化するのです。

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下北沢・音倉ランチタイムコンサートの2回め

今日は私の猫スケッチ展「猫のうた」会期中におこなうランチタイムコンサートの2回めだった(あと1回、28日が最後)。
このところ猛暑がつづいていたのに、今日は午前中から土砂降りになって、気温がぐんぐんさがった。25度以下になって、涼しくなった。
そんな雨のなか、下北沢〈Com.Cafe 音倉〉に行く。

前回とおなじようにプロジェクターを使い、映像を投影しての演奏。今日の映像は冬の雪原の映像と、雨の森の道の映像。
子連れのお母さんたちのグループがふた組10人くらい食事に来ている。そして、トランジション世田谷のあさわさんが、トランスコミックという世界のからくりを説明する漫画を作っている仲間の方たちと来てくれた。ネバーネバーランドのオーナーの下平さんも。
朗読の野々宮の知り合いも。

映像を投影しながら即興演奏から始めて、今日は夏の曲「浜辺の歌」と、オリジナル曲の「ヒガンバナ」を演奏する。
最後に野々宮の朗読で「青い空、白い雲」をやる。
げろきょのメンバーの顔が見えなかったのは寂しかったが、平日の昼間で皆さん、都合が悪かったのだろう。

ランチタイムコンサートは残すところあと1回。
最後はスケッチ展の会期の最終日の28日(日)。やはり13時から30分くらいピアノ演奏と朗読をやる予定だ。

2011年8月18日木曜日

与えられた欲望ではなく真に内在する欲求を見極めたい

つねづね私は「マインドフルネス(mindfulness)」というものを推奨しています。
朗読を始めとするパフォーマンスをおこなうときだけでなく、日常生活においてもいつも心がけ、練習するようにすすめています。
マインドフルネスというのは、簡単にいえば、「いまこの瞬間」に「ここで自分であること」への意識の集中のことです。

人の心やありようの乱れは、
「すでに起こってしまってもはやどうすることもできないこと」
をうじうじと悔やんだり、
「まだ起こってもいないこと」
をくよくよすることから生まれます。いまこの瞬間、自分と自分の周りのことに意識を向け、それをきちんと味わうことに平安と幸福があるのです。それはこれまで、さまざまな宗教や思想のなかで語られてきたことです。
でも、いまは宗教的な話をしているのではありません。

マインドフルネスを心がけて生活しましょう、というと、かならずそれに異をとなえる人がいます。
「そんなふうに刹那的にいまのことばかり考えていると過去の反省もできないし、将来の計画もできないじゃないか」
というわけです。刹那的に生きる人間が増えてしまって、社会がこんなふうにどんどん悪くなってしまったのじゃないか、と。
私はそれは違うと考えます。すべての人が「真の意味で」マインドフルに生きることができれば、このような荒涼とした社会にはなりえなかったのではないか、と。

真の意味で、いま、この瞬間、自分がなにをしているのか、なにをしたいのかに意識を向けられること。これは現行の経済優先主義・効率優先社会のなかでとても難しいことです。われわれはたえず、効率を求められ、お金儲けを優先し、将来設計をしいられています。「現在」はそのための「準備期間」としてしか機能していません。
そのなかで、資本主義というシステムは人々に「ある欲望」を意図的に植え付けます。その欲望は人類500万年の歴史のなかで一度も人々が持ったことのない種類のものです。それは独占欲、拡大欲、所有欲、権力欲、自己誇示欲といった、それは人が本来持っているものではない欲望です。

資本主義の本質とは「エスキモーに氷を売りつける」ごとく、いかに人に所有欲を持たせ、金や物品を多く消費させるか、というシステムです。
産業革命以降に生まれた資本主義経済は、生産と消費が果てしなく拡大していくという絶対前提で成り立っています。銀行預金に利子がつくのも、ローンやカード払いに利子がつくのも、すべて成長原理の上に計算されています。だからいったん成長が止まるとその経済は破綻するのです。
アメリカのプライムローン問題がそれでした。そして実は、プライムローンを何十倍も上回る規模の矛盾を、いまの経済システムは内包していて、いつ崩壊してもおかしくない状況だといわれています。

いま個人個人にとってもっとも重大な事実として、私たちが自分の欲望だと思っているのは実は社会から与えられた後付けの欲望である、というのがあることです。私たちはもともと、所有欲も独占欲も持ってはいません。持っているのは、安全に生存していたい、心を許せるだれかとおだやかにつながっていたい、というニーズだけなのです。それは自分のなかの奥深い場所を静かに見つめてみれば、だれもがわかることでしょう。
また、もし食事がなくて、住むところがなくて、子どもに乳を与えられなくて困っている人がいれば、私たちは本来手を貸すことに喜びを感じる生き物です。喜んで自分が持っているものを分け与えますし、だれかよりよい家に住んだり、高級な車に乗りまわすことに喜びを感じたりは、本来、しません。自分がだれかの役に立ち、安心できる居場所があれば、それでいいのです。
そういう状況のなかで、与えられた欲望ではなく真の意味で自分のやりたいことはなにかと見つめたとき、どんなことが自分のなかから生まれてくるでしょうか。
作物を作ることでしょうか。
料理をすることでしょうか。
身体の不自由な人を介助することでしょうか。
歌うことでしょうか。絵を描くことでしょうか。
子どもたちに教えることでしょうか。
愛し合うことでしょうか。

真の意味で人々が与えられたものではないみずからのニーズに従える社会。そしてそのことがお互いに尊重できる社会。
そういう社会はどのような手触りを持つでしょうか。
そのような社会を実現することはもはや不可能なのでしょうか。
私は可能性はゼロではないと思っています。
ひとりひとりがマインドフルに生きること。いまを気づき、楽しむこと。多くの人がそのようにすごせるようになったとき、世界の風景は一変するのではないかと思うのです。
いま、この瞬間の自分に目をむけ、本当に自分がやりたいことを自分にやらせてあげましょう。

Google+のビデオチャットを使ったビデオ朗読ゼミ

先ほど終わったばかりだが、今夜は初めてのビデオ朗読ゼミをテスト的にやってみた。
午後8時からだったが、30分くらい前からSkypeで待機して、まずはたるとさんを捕獲。Skypeで案内しながら、無事にGoogle+のビデオチャットルームへ誘導成功。
つづいて朱鷺さん。こちらもSkypeでは何度もつながっているのだが、Google+のビデオチャットルームがなかなかうまくいかない。どうやらプラグインのインストールがうまくいっていないようだ。私のチャットルームへと入るためのアイコンが出てこないらしい。
そうこうするうち、こなしさんが自力でチャットルームに入ってきた。
かっしーもやってきた。彼はすでに一度、チャットルームでのミーティングに成功している。

朱鷺さんがようやく、チャットルームへの参加ができたようだ。といっても、時々不安定になって、出入りしてしまう。そして、他のみんなの動画が表示されていないとのこと。まだプラグインがうまく動いていないみたいだが、とにかくつながることはわかった。近くパソコンの先生が来て見てくれるというので、次回は大丈夫だろう。
野々宮が参加して、全部で6人になった。
画像と音声にずれがある。また、だれかがスピーカーをオンにしていると、その音声をふたたびマイクから拾ってしまうらしく、エコーがかかったような音になってしまう。これは、全員がイヤホンを使うことで回避できるだろう。また、ひとりが朗読するときは、ほかの人がマイク入力をオフにしておくことで、音声のクオリティは確保できるだろう。

いくつかコツをつかみ、次回以降、ビデオゼミはうまくやれそうだ。
なにより、自宅にいながらにして、気楽に参加できるのがいい。
もちろん、生身で一カ所に集まって、フェイス・トゥ・フェイスでおこなうことには及ばないものの、すでにお互いによく知っている存在なので、オンラインでも充分に代替できる。

この現代朗読ゼミ・オンラインクラスは、地方在住の方や、さまざまな理由で外出がしにくい人など、だれでも参加できるようになっているので、興味がある方はまず、こちらをご覧ください。

「作家になりたい人」と「作家になれる人」の違い

「文章を書きたい」「文章で自分を人に伝えたい/自分を表現したい」という人にはどういうニーズがあるのでしょうか。
私が聞いた限りではじつにさまざまなニーズがありますが、なかでも一番多いのが、
「将来作家になってそれで生計を立てられるようになりたい」
というものです。
この時点で、残念ながら、作家としては「アウト」です。なぜなら、作家というのは、あるいは作家になりたい人というのは、将来のことを考えてものを書いたりはしないからです。自分の将来を考えながらものを書いているような人は、まず作家にはなれません。
作家である人、もしくは、作家になりうる人は、自分の将来を考えてものを書くのではなく、ただ現在、たったいま、この瞬間にものを書かざるをえないから書いているにすぎません。いまの私がそうであるように。そういうやむにやまれぬ内的衝動をかかえている人しか、結果的には作家にはなれないのです。

そういう人は朝、目がさめた瞬間から、もうなにか書くことを考えています。起きてすぐノートに向かって、あるいはパソコンに向かって、ものを書きはじめます。そのことが「生計を立てる」ことにつながるかどうかなんて考えもしません。
結果的にそれで生計を立てられるようになる人もいれば、すばらしい小説を書きながら一生、一冊の本も出すことなく去っていく人もいます。それでもその人は作家なのです。宮澤賢治がそうであったように。

(以下、略。本文全体は養成塾のメールマガジンで掲載しています)

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中野〈スイートレイン〉は今日も熱かった

板倉克行さんのライブに中野まで行ってきた。
8時すぎに店にはいると、店は満席で、すでにライブは始まっていた。しかも今夜はトリオセッションだ。ピアノの板倉さんのほかに、ベースとサックスがいる。
客ですでにかっしーが来ていた。izaさんもいらしてる。
座るところがそこしかなかったので、私は最前列のトリオのド真ん前、かぶりつきの席に座った。
いきなり音の洪水。シャワーを浴びるように音楽を浴びる。
いいなー。
わざわざ三重から聴きに来たというお客さんもいた。

ファーストステージが終わって、板倉さんとご挨拶。野々宮とかっしーがあわてて、30日の新宿〈ピットイン〉ライブの打ち合わせを始めた。
と思ったら、5分で終了。どうせ細かいことなんか決められやしないし、決めてもどうなるかわかんない。それがいいのだ。
30日は大阪の窪田涼子が来れるかどうかわからない微妙な感じなのだが、来たらもちろんなにかやってもらうことになるだろう。それだって不確定要素。

セカンドステージの前に、板倉さんから「連弾しよう」と誘われる。喜んで。
その前に、ベースの日野さんと短くデュオセッションをやらせてもらえないかと頼んでみたら、快く承知してくれた。
さっそく日野さんにお願いして、ふたりでセッション。おもしろ〜い。
そのあと、板倉さんとサックスの人に、かっしーが加わって、朗読と音楽のセッション。かっしーは贅沢極まりない経験をさせてもらっただろう。
ふたたび私が呼ばれて、今度はトリオセッション。考えてみれば、20代の頃は毎日のようにトリオでライブをやっていたのだった。まったくの初顔合わせの3人で、気ままにプレイ。いや〜楽しい。お客さんからも思いがけず、やんやの喝采をいただく。
そして板倉さんと野々宮のデュオ。朗読とピアノ。
飛び入りに近い私と朗読のふたりの参加だったが、店の人にもお客さんにもおもしろがってもらえたようだった。

2011年8月17日水曜日

次世代作家養成塾:習作&講評「人魂」船渡川広匡

昨日、「表現行為におけるふたつのステージ」という話をしたが、今日はその実践として、船渡川広匡の実作品を取りあげる。

船渡川はテキスト表現における身体メソッドを自分なりにうまく見つけている。それはつまり、昨日の話でいえば「ファーストステージ」の部分だ。
ファーストステージで一気に書き上げた「テキスト素材」は、そのままでは人に読ませられるものではない。とくに船渡川の場合、自作品に対する客観的な分析力や構成力、そして自分自身のコンテクストがまだまだ未熟で、そこの部分をシェイプアップする必要がある。

以下に彼が最初に書き上げた「人魂」と、書き直した「人魂(改)」をならべて掲載するが、まったく違う作品になっていることは一目瞭然だ。もちろん「改」の作品クオリティが一桁跳ね上がっている(たとえば、の話ですよ)。
私がアドバイスしたのは、ファーストステージで書きあげたものを、まず客観的に「構造」としてとらえてみること。身体の奥から無意識にわきあがってきた言葉やストーリーは、そのままでは夢の世界とおなじで、混沌としている。文字化するときに若干の整理をおこなうにせよ、計画的に構成されたわけではない。

作品構造をとらえるとき、私は「イベント」を箇条書きに切りだしてみることをすすめる。
このやりかたについては、いずれ近いうちに詳しく述べる。
書きだされたイベントを見れば、作品構造は一目瞭然となる。そして、もっとも重要なイベントがどこから始まり、どこで終わっているのか。イベント同士がどのような時間の流れのなかにあるのかがわかる。
構造がわかれば、今度はイベントを削除したり、付け加えたり、入れ替えたりしてみる。
私が「人魂」で提案したのは、10個くらいあるイベントの最初の半分をごっそり削除してみてはどうか、ということだった。それが「改」になっている。1000字近くあったものが、500字になった。
削除したのち、そのなかで必要な情報は後で残ったイベントに適宜おぎなっておく。

(以下、作品本体は養成塾のメールマガジンで掲載しています)

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なんとなく表現活動したいけどなにをすればいいのかよくわからない人

現代朗読協会の体験講座を受けに来たり、ゼミを見学に来たりする人のなかで、
「まだ自分がなにをしたいのかはっきりわからない」
というようなことをおっしゃる方がけっこういらっしゃる。わからないのだが、しかしなんとなく表現活動はしてみたいと思って来られたわけだ。
すべての人はなんらかの形で自分を表現したいという根源的欲求を持っている。なにもそれははっきりとした表現行為や芸術行為に限らない。料理だって犬小屋作りだってガーデニングだってケータイメールだって、立派な表現行為である。
しかし、漠然と現在の自分の生活に物足りなさを感じていて、生活のなかの表現に不満を持っている人は多い。それは、表現の受け取り手との間に共感のクオリティが実感できない場合だ。それがいい・悪いではなく、現代生活はそのようなケースが多い。
そのようなとき、はっきりと意識した表現行為に自分が関わることで、ある種の救いを得られることがある。またそのことで、生活にもいい影響が出ることもある。
問題は、どのような表現行為を自分がしたいか、それが漠然としていてわからない、というケースだ。

大人になっても、いや大人になったからこそ、自分がどういう表現をしたいのかわからなくなっている人は多い。むしろそれが普通だといってもいいくらいだ。なにも特別なことではない。そういう人は、まず、どんなことでも「やってみる」ことが必要になる。
なにもしないうちに、事前に自分のやりたいことがわかる人はめったにいない。やってみて初めて「こういうことがやりたかったのか」とか「これはやりたかったことではない」ということがわかるのだ。
ただし、そのときに大事なポイントがある。
教室でも講座でもいいのだが、そこがどのような指導法をしているか。
たとえば「~しなければならない」「~してはならない」といった、なんらかの「型」にはめる指導をおこなっている場合、自分の表現を見つけることは難しくなる。
そういう講座は「表現の場」ではなくたんなる「お教室」「お稽古」であることが多い。なにかの型にはめることは、なんらかの「技術習得」にはなるが、自分の表現の発見には結びつきにくい。

まずはやってみることだ。どんなことでもいい。とにかく一歩を踏みだしてみる。
うまく自分の表現が見つかれば、人生が豊かになることは間違いない。
もちろん最初は朗読でもいいのです。敷居が低いしね。

2011年8月16日火曜日

三軒茶屋〈羊羊〉怪談朗読ライブに行ってきた

福豆々子、唐ひづる、玻瑠あつこが、不定期にやっている三軒茶屋のジンギスカンの店〈羊羊〉での朗読ライブに行ってきた。
今回のテーマは、季節柄、怪談らしい。
店は10人も入れば一杯のこじんまりしたキャパで、もちろん満席。

演者三人は浴衣姿。さすがに着こなしはばっちり。よくお似合いだ。
そんなビジュアルも楽しい趣向だが、いざ始まってみると、笑いあり、哀愁あり、恐怖ありの、エンタテインメント感ばっちりの朗読をたっぷり聴かせてもらった。
決めごとがあまりないにも関わらず、演者同士と客がシンクロしてパフォーマンス空間を作っていくという現代朗読の手法を用いながら、エンタテインメント方面に突出している。私も多いに笑わせてもらったり、突っ込みを入れさせてもらった。

朗読ライブというと、とかく、きちんとかしこまって静かに聴く、という感じがあるのだが、ここでは飲みながら、会話しながら、小芝居に突っ込みを入れながら、ほかのお客さんともコミュニケートしながら、まるで音楽ライブを聴きにきたかのように楽しく盛り上がったのだった。
最後の演目は落語の「三年め」と漱石の「夢十夜・第一夜」をたくみに組み合わせたテキストだったが、それに店主のパーカッションが加わって、充分に楽しませていただいた。

次回はいつになるのかわからないが、このユニットは〈羊羊〉という場だけでなく、店を飛びだして、また他の朗読者や演奏者をも巻きこんで、さらに広がりを作ってくれるとうれしいものだ。

表現行為におけるふたつのステージ

すべての表現行為にはふたつのステージがある
厳密にいえば、ステージにあがる前の段階もあるのだが、それはちょっと置いといて。

最初のステージは内在する衝動にしたがって行為を具体的な形にしていく段階。テキスト表現においては、実際に最初になにを書こうかかんがえ、自分の内側に釣糸を垂らし、自分を取り巻く世界にもマインドフルに目を向け、そこから生まれてくる言葉をつかまえ、そして文字に書きつけていく段階がファーストステージだ。
セカンドステージは、そこに現出した「ブツ=テキスト」を他者との共有化のために整えていく段階である。

音楽やダンスのようなパフォーミングでは、楽譜を読みこんだり、振り付けを考えたり、といった準備段階があり(ファーストステージ)、次にオーディエンスと時空間を共有するライブ段階(セカンドステージ)がある。
テキスト表現とも共通した面が多い美術や映画(非パフォーミングアート)などでは、スケッチをしたり、ラフコンテを描いたり、ストーリーボードや絵コンテを描いたり撮影したり、といったファーストステージがあり、つづいて絵を仕上げたり、編集や音入れといったポストプロダクションのセカンドステージがある。
つまり、すべての表現行為は、内的・個人的作業と、外的・共有作業があるということだ。

 第一ステージ  第二ステージ
 内的    ⇒  外的
 個人的      共有

書きなれてくると、このふたつの作業を同時進行でやれるようになる場合もある。一気に書いたものがそのまま人に読ませることができるほどのクオリティを持つような場合も、まれにある。
しかし、たいていの書き手は、どのように熟練の作家でも(たとえ私のような者でも)、最初に書きあげたものをそのまま人に読ませることはまずない。
最初に書きあげたものをどうするか。
まずは自分が読み手となって、可能な限り客観的に、しかし制作者の視点を失わないで、徹底的に読み直し、書きなおしていく作業をする。
皆さんの場合は、幸いなことに、この塾があり、的確なアドバイスがあり、自分の作品の欠点に気づくチャンスが大きくある。ならば、積極的に書き直しをしよう。

書く力が弱いうちは、ひとたび書きあげると、それだけで息切れしてしまうことが多い。しかし、本当はそこからがスタートなのだ。ファーストテキストを書きあげた瞬間は、まさにスタートラインでセットポジションを取ったところと思えばいい。
書き直すというのは、全力で走りはじめるようなものだ。ここでも力が弱いうちはすぐに息切れしてしまう。
書く力をつけるためには、最初は息切れしても、何度も何度も食らいついて走りなおすしかない。そのうち、楽々と百メートルを走れるようになる。二百メートルだって走れるようになる。短距離(短編)が走れるようになると、長距離(長編)を走ることも楽ちんだ。
ただし、その逆はない。

(以下、略。本文全体は養成塾のメールマガジンで掲載しています)

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MacBook Air 11" をソロピアノコンサートで使う

コンサートというほど大げさなものではないのだが、下北沢の〈Com.Cafe 音倉〉というライブカフェでは時々、ランチタイムコンサートをおこなっている。
今月、私も三回、やらせてもらうことになった。
その第一回めを先日おこなった。

基本的にピアノのソロプレイなのだが、音倉にはプロジェクターがあるので、映像を少し使ってみようかと思った。
ついでに、環境音も鳴らしてみようと思いついた。
そこで、MacBook Air 11インチを持ちこむことにした。
必要な機材は、以下のとおり。

MacBook Air 11インチ
プロジェクター用ロングケーブル
音声アウト用ケーブル

いつも持ち歩いている機材となんら変わらない。つまり、いつものショルダーバッグひとつでライブ会場に行ける。
結果的にAirから音声をPAに出すためのケーブルは、持っていかなくても会場側にあった。プロジェクター用のケーブルもあったのだが、長いケーブルをつなぎなおして引き回すのが大変そうだったので、持っていったのを使った。

映写用の映像は動画で、あらかじめ準備したものをデスクトップに置いておき、始まるまえに動かしてプロジェクターで壁面に投影する。
環境音はiTunesなどに取りこんでおいてもよかったのだが、トラックにならべて複数をミックスしたり、トラックを視認しながら切りかえたかったので、LOGICを使うことにした。必要な音源をあらかじめトラックに読みこんでおいて、ソロボタンで切り変えて使う。音量もLOGICのコンソールで調整する。
店側にはあまり負担をかけることがなく、自分でほとんどをコントロールできるのがいい。

Airの電源アダプターは持っていかなかった。一時間足らずの短いライブだったので、バッテリー切れの心配はなかった。
これで充分やれることがわかった。
ランチタイムコンサートは19日と28日にもやる予定だが、この体制でいこう。

2011年8月15日月曜日

テキスト表現ゼミ、9月生を募集します

現代朗読協会では、テキスト(文章/文字)を使った自己表現を研究するためのゼミナールを9月も引きつづきおこないます。
参加は途中からでもいつでも可能です。

扱うテキストは小説、随筆、詩、シナリオ、評論など、ジャンルを問いません。テキストを用いて自分を他人に伝えることを学び、研究成果をアウトプットしていくためのゼミです。

◎日時 土曜コース 9月3日、10日、17日 18:00~20:00
    水曜コース 9月7日、14日、21日 10:30-12:30
◎場所 現代朗読協会「羽根木の家」
    世田谷区羽根木1-20-17
◎参加費 一般 月額10,000円/ゼミ生 無料

※申込はこちら
 申込講座名を「その他」とし、備考欄に「テキスト表現ゼミ」とお書きください。

また、羽根木の家に来れない方のためにオンライン版「次世代作家養成塾」もスタートしました。
興味のある方はこちらをご覧ください。

習作&講評「ウツセミ」石川月海

オンライン「次世代作家養成塾」がスタートしています。塾生は随時募集中です。
世田谷・羽根木の家でリアルに集まっておこなっている「テキスト表現ゼミ」のメンバーも、作品発表や塾長からの講評・アドバイスの場の一部としてオンラインに合流しています。メールマガジンで取りあげる作品も、ゼミ生/塾生の分け隔てなく選んでいます。ご了解ください。

テキストのオリジナリティはどこから生まれるのか。
たとえばこの養成塾で「オリジナルティを生み出す方法」を全員が習得できれば、ここからそれぞれのオリジナリティを持った書き手がたくさん生まれることになる。オリジナルティは「差異」であって「優劣」ではないから、表現本来の目的である「みずからの内在欲求の表出」とその結果による「つながりのクオリティ」の確保にもってこいである。

という前置きはさておき。
皆さんがある文章を読んで「この文章にはオリジナリティがある」と感じたとき、それはなにをもってそう感じるのだろうか。
ストーリー展開、言葉使い、意外な比喩、思いがけない会話、さまざまな要素があるだろう。たくさんの要素があるのだが、それらをひとつひとつ検討し、つぶしていくのは大変だ。これらを一括して、まとめて磨きあげる方法はないだろうか。
ひとつある。
それは「ディテール」を磨きあげる方法だ。
具体的な方法についてはおいおい詳しく述べる予定だが、ここではこの石川月海の作品を例に取る。

空虚な現代の生活のなかで、セミの抜け殻のようになっている「ボク」。
うつろなのだが、だれもが知っている痛々しさや焦燥のようなものが見え隠れしている。その心理をくどくどと心理説明をすることなく、描写と独白でつむいでいく。
ここには多くの人が共感できる空気感/手触りのようなものがある。
が、と私はあえていう。この文章の手触りはどこかで読んだ覚えがある。ライトノベル、若手の純文学作家、ケータイ小説、サウンドノベル、そういったフィールドでよく見かける手触りに近い。つまり、ここに描かれている空気感は一般的に共感を得やすい「こんな感じ」ではあるけれど、石川月海の存在そのものの感触ではない。

ここでディテールの話に戻る。
たとえば、
「遮光カーテンを閉め切った部屋で、もう何日、ずっと、ただ、横たわってる」
という描写は、石川月海でなくても、このように書くことはあるだろう。では、「石川月海ならどう書くべきなのか」ということだ。
この閉め切った部屋はどんな部屋なのか。横たわっている場所はどこなのか。そこはベッドなのか、床なのか。ベッドだとしたらどんな形なのか。なにを着ているのか。裸なのか。痩せているのか、太っているのか。子どものころに転んでできた頬骨のところの傷はまだ残っているのか。
実際に書かなくてもいい。しかし、このようなディテールを作品のなかに潜ませることで、それは「だれかの文章」ではなく「石川月海」の文章になる。なぜなら、「そのような部屋に横たわっているそのようなボク」は石川月海のなかにしかいないのだから。
それができれば、どんなつまらないストーリーも、書き手の存在そのものになる。いやむしろそうなったらストーリーなど邪魔でしかないだろう。
自分のなかをすみずみまで照らしだしてみること。それがテキスト表現の重要な所作のひとつだ。

(以下、作品本体は養成塾のメールマガジンで掲載しています)

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野菜餃子パーチー

昨日の夜はNVC(Nonviolent Communication)のトレーナーであるキャサリンとジェシーを囲んで、ふたりを招聘したりワークショップのお世話をしたりした人たちが集まって、羽根木の家で餃子パーティー。
その準備を、ミニコンサート後、おこなう。
肉類がだめな人が多いので、野菜と、魚介類を少し使った餃子を作ることにする。具をとにかく細かく刻む、刻む、刻む。
夕方になって皆さんが来たので、手分けして包んでもらった。私は今度は焼く、焼く、焼く。
作ったのは、舞茸・キャベツ・ニラ・ホタテの餃子、椎茸・キャベツ・ニラ・エビの餃子、シメジ・キャベツ・ニラ・ネギ・アサリの餃子、エリンギ・キャベツ・ネギ・キュウリの餃子。ほかにも持ち込みの食材、飲み物などどっさりあって、にぎやかなパーティーとなった。

キャサリンとジェシーはとても喜んでくれた。
ふたりから聞いたのだが、アメリカやその他いろいろな場所でのワークショップで、私が前回プレゼントしたCD『quiet pictures』を使ってくれているらしい。うれしい。
彼らのためだけにも、またあたらしいCDを作りたくなった。
もうすぐブラジルに帰る予定のユーリとサンドラといろんな話をする。彼らも音楽が好きで、ライブ映像を見せたら、喜んでくれた。

写真がない!
あまりに楽しくて撮るのを忘れていた。いずれ小梅さんがUPしてくれるだろう。

音倉ランチタイムコンサート1回め、終了

昨日は下北沢〈Com.Cafe 音倉〉のランチタイムコンサートとしておこなうソロピアノ演奏の一回めだった。
純粋なピアノ演奏以外に、映像や環境音、朗読も使いたかったので、朝からその準備。そういえば、コンサートといっても、純粋なピアノの音だけ、なんていうのはありえない。観客がいるし、店のなかだし、とくに音倉のようなカフェは、食事に立ち寄ったお客さんもいるので、その人たちの話し声、食事の物音、厨房で働く人たちの音、エアコン、ドアが開閉する音、そういうもの全部につつまれて音楽がある。できればそういう物音すら全部構成要素にするような音楽を演奏したい。

コンサートは13時からだったので、12時くらいに音倉に行き、ビデオプロジェクターやPAの準備。ほかにもピアノを移動したり。
食事のお客さんが二組いて、そのまま聴いていってくれるといいのに、と思っていたら、13時前に一組帰ってしまった。残念。
そのかわり、トランジション世田谷・北沢会のあさわさんが来てくれた。小梅さんがご夫婦で来てくれた。ご主人の陣さんは初対面。猫に好かれるというだけあって、静かでおだやかな人。素敵だ。
開演時間が来たので、さてやろう、と思ったら、ゼミ生のなおさんとふなっちが来てくれた。ほかにもたぶん食事に来られたのだろう、知らないお客さんが何組かはいって、そこそこにぎやかな感じになった。

13時すぎ、始める。
最初は海べりの映像をプロジェクターで流しながら、即興曲。タイトルはない。これは最後の演目になんとなくイメージがつながればいいと思っていた。
2曲めは、ひさしぶりに「Into Your Mind」というオリジナル曲をやる。これは7、8年くらい前、地下スタジオに住んでいたころ、毎月やっていたライブで必ず演奏していた曲だ。
3曲めは「青い空、白い雲」。もともと歌詞がついていて、伊藤さやかや秀恵ちゃんに歌ってもらっているものだが、今回はピアノのみ。
最後は朗読の野々宮卯妙に出てもらって、「ラジオを聴きながら」を朗読と演奏でやる。

終わってから陣さんがわざわざ感想を聴かせてくれた。
そういえば、お客さんのほとんどがご夫婦、親子連れ、家族連れ、カップルといった人たちで、私の音楽がこういう人たちに生で聴いてもらえたというのは、なんだか幸せな時間なのだった。

ランチタイムコンサートはあと2回あって、次回は今週金曜日の昼。皆さんのお越しをお待ちしております。
詳細はこちら

2011年8月14日日曜日

下北沢・音倉でピアノのミニコンサートをおこないます

現在、下北沢〈Com.Cafe 音倉〉にて猫スケッチ展「猫のうた」を開催中ですが、おなじ場所でピアノのミニコンサートを3回、おこないます。

◎日時 2011年8月14日(日)、19日(金)、28日(日) いずれも13:00〜13:30
◎場所 下北沢ライブカフェ〈Com.Cafe 音倉〉
世田谷区北沢2-26-23 EL・NIU B1F/下北沢駅よりゆっくり歩いて3分
◎料金 無料
飲食代のみ、それ以外のライブチャージなどはありません。予約も不要です。

暑い夏のさなかではありますが、静かなオリジナル曲を演奏します。
朗読の飛び入りもあるかもしれません。あるいは朗読の飛び入りも歓迎です。
演奏の後はお茶でも飲みながらおしゃべりしましょう。猫の絵もゆっくり見ていってください。
みなさんのおいでをお待ちしてます。

2011年8月12日金曜日

猫のうた:ラジオを聴きながら

下北沢〈Com.Cafe 音倉〉にて開催されている水城ゆう猫スケッチ展「猫のうた」のオープニングイベントとして、去る2011年8月9日に現代朗読協会メンバーの協力を得て朗読ライブがおこなわれました。
その模様を抜粋してお送りしましたが、これが最終ファイルです。
水城ゆうのオリジナルテキスト「ラジオを聴きながら」を野々宮卯妙が朗読しました。

音倉でのスケッチ展は8月28日まで開催中。
また、14日(日)、19日(金)、28日(日)のいずれも13:00~13:30には、水城ゆうのランチタイムコンサート(ピアノ演奏)がおこなわれます。飲食代以外は無料。どなたも気楽にお越しください。


映画「蜂蜜」を観た、すごい

トルコの監督セミフ・カプランオールの「蜂蜜」を観てきた。
カプランオールは「ユスフ3部作」といわれる「卵」「ミルク」、そしてこの「蜂蜜」で一躍有名になったらしい。私は「卵」も「ミルク」も観ていない。
主人公はユスフという6歳の男の子。言葉に障害を持っているが、大好きなお父さんの前ではしゃべることができる。他の人はそのことを知らない。お母さんも知らない。
お父さんは森のなかで蜂蜜を集める仕事をしているが、このところ蜜蜂がいなくなって生活が困窮している。お母さんは茶畑で働いているが、過酷な労働の割には賃金は安いのだろう。
そしてお父さんは、ある日、森に出かけていったまま帰ってこなくなる。
ユスフを取り巻く社会的な背景と同時に、一家が住んでいる山のなか、森の風景がこの映画の醍醐味といっていいだろう。

茶の産地らしく、多湿で、多雨な風景だ。道はいつもぬかるんでいる。しかし、山々や森林は美しく、日本の風景と大変似ている。
そんな豊かな自然のなかで暮らす、質素で、つつましい人々。ちょっと宮澤賢治の「なめとこ山の熊」を思いだした。ユスフの父のヤクプは、マタギの淵沢小十郎にちょっと似ている。
カプランオールは記号を注意深く排し、ストーリー性を丁寧に排除し、静謐な映像の積み重ねのみで言葉にできないものを観客に伝えようとしている。それは、記号に満ち「こうすりゃ受けるだろう」「こうすりゃ泣けるだろう」といった作り方をされている現代商業映画に真っ向から抵抗するもののように感じられる。このカプランオールの闘い(といってもいいだろう)は、映像表現における人間性の回復の闘いそのものといっていい。

「蜂蜜」を観ながら、私は一瞬一瞬のシーンに魅入られ、心を動かされ、また叱咤激励されていた。
記号的なシーンといえば、エンディングに近く、それまでミルクを飲むことを一切拒絶していたユスフが、お母さんのために決意してミルクを飲みほすシーンがある。ユスフの成長を表しているシーンだろうが、それとて控えめだ。
また、学校で先生から、優等生の印の赤いリボンを付けられるシーンもあるが、それもいかようにでも解釈できるように作られている。

そして、この映画には「音楽」がないのだった。
いや、準備された「映画音楽」はないのだが、全編、森の音、鳥のさえずり、雨や風、雷の音、人の声に満ちている。それが音楽そのものに感じられる。

唯一残念だったのは、これが「デジタルカメラ」で撮影されている(であろう)ことだ。
アナログフィルムでの撮影に比べると、やはり圧倒的に情報量が少ない。手触りが違う。これだけの美しい風景の、なにか多くの質感が落ちてしまっている。
しかしそれもやむをえないことだろう。というより、このような撮影と編集機材の「パーソナル化」によって、これだけの映画がほとんど一個人で作れるようになったともいえる。
それなのに、なぜこのような映像表現者が日本から現われてこないのか、私はそれが残念でならない。

猫のうた:吾輩は猫である4~猫

下北沢〈Com.Cafe 音倉〉にて開催されている水城ゆう猫スケッチ展「猫のうた」のオープニングイベントとして、去る2011年8月9日に現代朗読協会メンバーの協力を得て朗読ライブがおこなわれました。
その模様を抜粋してお送りします。
まりも朗読による夏目漱石『吾輩は猫である』の第三弾は、途中から照井数男がからんでいきます。つづいて、唐ひづるによる萩原朔太郎の詩「猫」は、最終的に出演者全員が登場してのにぎやかなパフォーマンスとなりました。

音倉でのスケッチ展は8月28日まで開催中。
また、14日(日)、19日(金)、28日(日)のいずれも13:00~13:30には、水城ゆうのランチタイムコンサート(ピアノ演奏)がおこなわれます。飲食代以外は無料。どなたも気楽にお越しください。


2011年8月11日木曜日

猫のうた:Cat's Birthday〜吾輩は猫である3〜Cat Plane

下北沢〈Com.Cafe 音倉〉にて開催されている水城ゆう猫スケッチ展「猫のうた」のオープニングイベントとして、去る2011年8月9日に現代朗読協会メンバーの協力を得て朗読ライブがおこなわれました。
その模様を抜粋してお送りします。
水城ゆうのオリジナルテキスト「Cat's Christmas」改め「Cat's Birthday」をまぁやがメインで、途中から瀬尾明日香と照井数男も登場して朗読。つづいて、まりもと野々宮卯妙による夏目漱石『吾輩は猫である』の第三弾へ。さらに水城ゆうの「Cat Plane」を全員参加でにぎやかなパフォーマンスをおこないました。

音倉でのスケッチ展は8月28日まで開催中。
また、14日(日)、19日(金)、28日(日)のいずれも13:00〜13:30には、水城ゆうのランチタイムコンサート(ピアノ演奏)がおこなわれます。飲食代以外は無料。どなたも気楽にお越しください。

猫のうた:車屋の黒のブルース~吾輩は猫である2

下北沢〈Com.Cafe 音倉〉にて開催されている水城ゆう猫スケッチ展「猫のうた」のオープニングイベントとして、去る2011年8月9日に現代朗読協会メンバーの協力を得て朗読ライブがおこなわれました。
その模様を抜粋してお送りします。
水城ゆうのオリジナルテキスト「Ranmaru Blues」改め「車屋の黒のブルース」を唐ひづるがべらんめえ朗読で。つづいて、まりもと唐ひづるによる夏目漱石『吾輩は猫である』の第二弾へと続きます。

音倉でのスケッチ展は8月28日まで開催中。
また、14日(日)、19日(金)、28日(日)のいずれも13:00~13:30には、水城ゆうのランチタイムコンサート(ピアノ演奏)がおこなわれます。飲食代以外は無料。どなたも気楽にお越しください。


現代朗読協会は「怪しい」ように見えるらしい

いつもいわれることだが、我がNPO法人・現代朗読協会はなんとなく怪しい感じがして、知らない人は来るのをためらうらしい。
朗読をやりたいと思ってネットで検索して、現代朗読協会のウェブサイトを見つける。こちらには怪しく作っているつもりはまったくないのだが、怪しい感じがするらしいのだ。
怪しいと思った人は多くがそれきりになってしまうのだろう。それを乗りこえて、なんとかやってきてくれた人から、どんなふうに怪しく感じたのか話を聞いてみた。
多くの人はまず映像でびっくりするのだという。多くの人は朗読というと、着物を着た上品な初老の女性が、行儀よく椅子に腰をかけて文学作品を美しく静かに読む、というイメージがあるらしい。が、現代朗読協会ではそのような朗読はまったくといっていいほどおこなっていない。
実際にライブを観てもらえれば、現代朗読の楽しさ、斬新さ、おもしろさ、奥深さはただちにわかるのだが、映像記録として切り取ったものだけ平面的に見ると、なんとなく宗教儀式めいていたり、アングラめいて見えたりするようだ。

怪しいハードルを越えて実際にげろきょにやってくる人は、説明文や私のブログをけっこうじっくりと読んでくれたケースが多い。私はこのようなメッセージをたえず継続的に発信しつづけていて、それが自分の役目だと思っている。
私が書くような冗長なメッセージは届きにくい時代だと思うが、それでも熱心に読んでくれる人がいる。最終的にげろきょに来てくれた人のなかには、何人か、何か月も何年もためらい、文章を読みこんでから、意を決して飛びこんでくれた人が何人かいる。

最近けっこう多いのが、他の朗読講座や養成所を経験してから、あらためて現代朗読を体験しに来る人だ。
まずは体験講座に来てくれる。そしてそのままゼミ生になったり、ライブワークショップや基礎講座に継続的に来てくれる人が多い。
とにかく、体験やライブに来てくれさえすれば、現代朗読の魅力はすぐにわかってもらえるのだ。一目瞭然なのだ。そこには無限に広がっている朗読の魅力と自己発見の楽しさが見つかる。
見学でもなんでもいい、とにかくこの場に来てほしい。ここには評価や義務や強制は一切ない。共感のなかでお互いにまだ見ぬ自己の可能性を伸ばしていく場がここにある。
次回体験講座は今週末です。詳細はこちら

猫のうた:吾輩は猫である~二匹と猫たちの冒険

下北沢〈Com.Cafe 音倉〉にて開催されている水城ゆう猫スケッチ展「猫のうた」のオープニングイベントとして、去る2011年8月9日に現代朗読協会メンバーの協力を得て朗読ライブがおこなわれました。
その模様を抜粋してお送りします。
まずは、まりもによる夏目漱石『吾輩は猫である』の冒頭からスタートして、まぁやと瀬尾明日香による水城ゆうのオリジナルテキスト「二匹と猫たちの冒険」の朗読パフォーマンスへと続きます。


2011年8月10日水曜日

猫スケッチ展の偵察(おもしろかった)と猛暑

今日は東京でも日中が37度、夕方5時になっても33度を下らない猛暑だった。
そんな中、昨日から始まっている猫スケッチ展「猫のうた」の会場の下北沢・音倉まで、様子を見るのと用事があるのとで行ってきた。

こんなことを書くと失礼なのだが、音倉はランチタイムでもいつもお客さんが少ない。あまり知られていない「穴場」だといっておこう。いや、確かにそのとおりなのだ。
オーガニックフードを使った料理はおいしいし、店は地下にあるとはいえドライエリアから差し込む明るい陽光が地下の閉鎖感をまったく打ち消している。
ここがいつも静かなのは、運営がNPO法人で、ガツガツした宣伝がされていないせいだろう。だから穴場なのだ。この点はわが現代朗読協会と事情が似ている。

今日は行ってみると何組かのお客さんがランチに来ていた。
私もランチを頼んだ。ラタトゥイユのパスタで、なかなかおいしかった。とくにここのラタトゥイユには蓮根がはいっていて、よかった。私はラタトゥイユに蓮根を入れたことはないが、蓮根はいける。食感もよろしい。
ほかのお客さんのテーブルに、私の猫絵のポストカードが数枚乗っているのが見えた。どうやら、買い求めてくれたらしい。別のお客さんも、壁面の絵を熱心に見てくれている。
ふたり連れのお客さんが、帰り際に絵をじっくりと見ながら、なにやら話している。思い切って話しかけてみた。年輩の女性ふたり。
すると、猫が大好きで、ご自分も飼っているのだという。昨日のライブのことを知っていれば来たのに、と残念がっていた。住所と名前を芳名帳に残していってくれたので、ランチタイムコンサートのご案内を送ろう。

一見アーティスト風の、私より少し年輩の男性がふたりやってきて、来年の1月くらいにここで展示をやりたいと、店の人と相談しているのが聞こえた。店の人がシステムを説明している。
それから、男性たちは私の絵と販売額を見て、「安いなあ」などといっている。彼らの作品はきっと高額なのだろう。

短い時間だったが、いろいろとおもしろかった。
今週の日曜日はランチタイムコンサートとしてピアノ演奏をするので、明日はその準備をしよう。ピアノ演奏と同時に、映像と音響をいくらか使ってみたいと思っている。
ランチタイムコンサートの詳細はこちら

2011年8月9日火曜日

下北沢・音倉「猫のうた」オープニングイベント・朗読ライブレポート

4時半、起床。曇。その後、午前中に晴れてきて、猛暑。
昨夜うまくできなかった猫スケッチのポストカード作りを、別のソフトを使ってやってみる。やはりうまくいかない。プリント線が出る。発想を変えて、プリント線が出ない絵を試し刷りで選んでから、それだけを増刷して持っていくことにした。
持っていくものとか準備して、9時すぎに歩いて羽根木を出る。荷物が重い。そういえば、昨夜、NVCの会合で畳敷きに座っていたとき、脚を投げ出して両手を後ろに突いて支える姿勢をしていたため、慢性ねんざ気味の左手首が痛くなってきた。膝が悪いので、あぐらや正座ができないのだ。急に痛みが増し、ピアノを弾くのに支障が出るレベルだ。

音倉には唐さんを除く出演者が時間どおり来た。唐さんには連絡がうまくいかなかったらしくて、しかし11時には来るはずだから、先にリハーサルを始めることにした。
店の中山さんと音響や照明のセッティング。それからかいつまんでリハーサル。
左手首が痛くて、どうも集中できない。
唐さんも来て、さらにリハーサル。
終了後、みんなに手伝ってもらって、猫絵のキャプションを貼ってもらう。
近所の薬局に行って、左手首にはめるサポーターを買ってきた。はめてみると、少し具合がいい。暑いけど。

12時半、開場。
今回、お客さんはとても少なくて、ほとんどが身内。逆にアットホームな雰囲気とはいえる。けっこう告知しまくったのだが、平日の昼だろうか、あるいはこれが私の集客力の限界なのだろう。いつも集客に苦労することを忘れてライブ計画を立ててしまうのだが、これからは忘れてはならないと肝に銘じる。

1時半すぎ、ほぼ定刻にライブスタート。
まずはまりもちゃんによる『吾輩は猫である』の冒頭部分の朗読。軽妙で、とても気持ちのいい読みでスタートしてくれた。ピアノとのかけあいも軽やか。手首が痛くて重苦しかった気分が、とたんに消えていく。まりもちゃん、ありがとう。
そのあとは、まぁやと瀬尾明日香から始まるオリジナルテキスト「二匹と猫たちの冒険」。これは途中から次々と朗読者が出てきて、シュールな展開になる話。どんどん楽しくなってきた。

出演者の紹介をしたあと、唐さんによる私の「Ranmaru Blues」あらため「車屋の黒のブルース」。水城作。共通語も東北弁も操るバイリンガルな唐さんが、今度はべらんめえな江戸っ子朗読を聴かせてくれた。
そのまま続けて、ふたたびまりもちゃんの『吾輩は猫である』。車屋の黒が登場する部分。そこに唐さんがからむ。
続いて、まぁやの「Cat's Birthday」。水城作。これには途中で瀬尾明日香と照井数男がからむ。照井がいい感じの気持ち悪さを出してくれ、まぁやのかわいらしさ、瀬尾ちゃんの男前っぷりとよい対照を作った。

まりもちゃんの『吾輩』の第3弾。今度は三毛子と三弦の師匠さんの話で、野々宮卯妙がからんで軽妙なかけあい。
そのまま私の「Cat Plane」を、瀬尾、唐、野々宮の3人による即興かけあいで。非常にスリリングで、ちょっと大人っぽい部分もあったのだが、来ていた矢澤ちゃんの息子くんから「一番おもしろかった」と絶賛されたほど、楽しい朗読となった。リズムもよく、音楽的な朗読だった。
まりもちゃんの『吾輩』の最後。長編小説のラスト部分。これには照井数男がからみ、最後は彼のひとり読みで終わる。
そのまま萩原朔太郎の詩「猫」を唐さんが始め、全員が参加して、からみあって終わる。

ここでいったん、気分を変えて、今日の8月9日という日について私が少し話す。長崎玄白の日。明後日11日は東日本大震災から5か月め。12日は日航ジャンボ機墜落事故の日。15日は敗戦記念日。
それらの犠牲になった人たちを悼んで、短く黙祷を捧げる。
そのあと、ピアノから入って、昨日書きあげたばかりの私のオリジナルテキスト「ラジオを聴きながら」(青空文庫収録)を野々宮卯妙が朗読。静かに終了。

私のヨガの先生の田中さんが来てくれた。田中さんを引き合わせてくれた矢澤ちゃんも、息子くんと来てくれた。
ゼミ生からはみぞれさん、中村さん、前野さん、久保りからが来てくれた。唐さんの友人も来てくれた。
名古屋ウェルバアクトゥスの仲間のふみさんの知り合いの方が来てくれ、お花までいただいた。
身重の真理子もわざわざ来てくれた。
そういえば、久保りかは勤め人なのに平日の昼間、仕事を休んで来てくれたのだろうか。

終わってから、何人かで羽根木の家に戻り、打ち上げ。何人かは買い出し隊で後から合流。そして材料を調理して、豪華メニュー。
照井数男もかいがいしく動いて、女性陣からの評価をさらにあげていた。
ヨガの田中先生も来てくれたので、話を聞く。それがまたおもしろいのなんのって。近く現代朗読協会でもヨガ講座をやってもらうことになっているのだが、とても楽しみだ。

メモ録程度にまわしていたビデオが、意外によく撮れていたので、近く抜粋してYouTubeに公開しよう。

ラジオを聴きながら

という短編を「水色文庫」の最新作として公開しました。
こちら

これは、8月9日の音倉「猫のうた」オープニングイベントの朗読ライブのなかで読まれました。

下北沢「猫のうた」絵の展示とオープニングイベントのお知らせ

私が描きためてきた猫のスケッチを、下北沢〈Com.Cafe 音倉〉にて展示することになりました。
オープニングイベントとして猫にちなんだ朗読ライブもおこないます。

◎展示会期 2011年8月9日(火)〜28日(日)
◎場所 下北沢・Com.Cafe 音倉
世田谷区北沢2-26-23 EL・NIU B1F/下北沢駅よりゆっくり歩いて3分
カフェタイム 12:00〜15:30 ライブタイム 18:30-22:00 月曜定休

私はとくに絵を専門的に習ったわけでも、訓練を受けたわけでもありませんが、30代のころから自己流でずっと描いてきました。
最初は山野草、その後ジャズマンなど音楽家のペン画やエッチング、そして最近は水彩による猫スケッチをおもに描いています。
その一部を音倉のギャラリースペースに展示させてもらうことになりました。気軽においでください。

◎オープニングイベント 2011年8月9日(火)13:30開演
◎料金 2,500円+1ドリンク
(ご予約の方にはもれなく猫の絵はがき3枚組をプレゼント)
◎出演 まりも、野々宮卯妙、まぁや、瀬尾明日香、唐ひづる
ピアノ:水城ゆう

オープニングイベントでは猫を題材にした詩や小説などの文学作品の朗読と、ピアノ演奏を楽しんでいただければ、と思っています。朗読作品のリクエストも受け付けています。
現代朗読協会の朗読者たちによる、深くて楽しい朗読パフォーマンスをお楽しみください。

◎ご予約・お問い合わせは あいぶんこ または出演者に
メール:live@ibunko.copm

一宮「稲葉佳子展」の朗読イベントを観に行く

一昨日7日(日)は愛知県一宮市まで行ってきた。
一宮市三岸節子記念美術館でファイバーアーティストの稲葉佳子展が開催されているのだが、その作品空間で朗読パフォーマンスがおこなわれた。朗読はバラさんこと榊原忠美と清水陸子。
私はこのパフォーマンスのために「繭世界」というオリジナルテキストを提供していて、それで招いていただいた。

午後の新幹線で名古屋へ。名古屋駅までバラさんが車で迎えに来てくれた。
一宮市へ。
三岸節子記念美術館は想像を超えて大変立派な美術館で驚いた。そして稲葉佳子さんの絹糸と繭を使ったインスタレーションもすばらしい。とても気持ちのいい作品で、空調のわずかな空気の動きで柔らかく動いているのがおもしろい。一種のモビルアートだ。

バラさんたちがリハーサルをしている間、私はそのへんをブラブラ。岐阜の高橋かずえさんや、クセックの樋口と柴田も来た。
稲葉さんともゆっくり話ができて、作品制作の裏話など、興味深い話をたくさん聞いた。
午後5時に美術館自体は閉館。朗読イベントのためのお客さんが続々とやってきた。席は80席くらい用意してあるだろうか。満席だ。

午後5時半、時間どおり始まった。私は取っておいてもらった席に座った。稲葉佳子さんの隣。
最初は清水さんによる宮澤賢治の「双子の星」の「一」。これはちょうど現代朗読協会でもライブワークショップで取りあげている作品で、興味深く聴かせてもらった。円形のインスタレーションのなかを立ったまま、ゆっくりと移動しながら読んでいた。
次はバラさんによる「返されなかった青春」。移動したり、持ってきた椅子に座ったり、立ったり。役者朗読である。かなり切りこんだ表現で、もう少しでキレそうなギリギリのところでやっている。お客さんには相当、グッサリ来たのではないだろうか。初老の女性がもっとも多い。
最後は私の「繭世界」をふたりで読む。交互に読んだり、重なったり、動いたり。バラさんがうまく演出をつけてくれていた。作品とあいまって、非常に不思議な空間がそこに生まれた。私は楽しかったが、お客さんはどうだったのだろうか。
終わってから、私も紹介されて、ひとことご挨拶した。たくさんの拍手をいただいて、皆さんにも楽しんでいただけたのだなと思った。

全部終わってから、稲葉さん、ご家族、友人、バラさん、樋口・柴田と、トンカツ屋に行って食事。私はビールを一杯だけいただく。ついでに、10月に〈あうん〉でやる「沈黙の朗読」をコーディネートしてくれている橋本さんと打ち合わせ。
新幹線の時間が迫ってきたので、またバラさんに送ってもらって、名古屋駅に。けっこうギリギリな時間で、ちょっとひやひやした。バラさん、お世話になりました。
楽しい一宮行きであった。

2011年8月8日月曜日

明日の「猫のうた」出演者について

今日の午前中、下北沢の〈Com.Cafe 音倉〉までえっちらおっちら荷物を運んで、猫の絵を30点ばかり搬入してきた。
明日から28日まで猫スケッチ展「猫のうた」がある。
明日はそのオープニングイベントとして、朗読と音楽のライブをやる。13:30から。
現代朗読協会のメンバーが出演してくれるので、そのメンバー紹介を簡単にしておきたい(明日もするけど)。

まず、トップバッターはまりもちゃん。
彼女は新美南吉やその他、オーディオブックをいくつか読んでくれているけれど、ライブに出演するのは珍しい。2年くらい前のメイド朗読では、ピンクメイド姿で観客を悩殺したことはあるけれど、それ以後、羽根木の家での座敷朗読にちょっと顔を出してくらいかな。
朗読歴はそう長いとはいえないけれど、朗読パフォーマーとしてすばらしいことは私が保証する。明日、来れる人は大変ラッキーなのだ。

次はまぁや。そして瀬尾明日香。
このユニットは、朗読ユニットとして非常に楽しく、クオリティの高いものに定着してきた感がある。今回は即興性の高いかけあいをたっぷりと聴かせてくれるはず。
もちろん、ひとりずつでもすばらしいのだ。まぁやはかわいらしい猫娘の話を、瀬尾ちゃんは色気たっぷりの怪しい猫詩を聴かせてくれる。

唐ひづる。
先日、武蔵小山で、いわゆるワンマンライブをおこなったばかり。ワンマンでも充分にステージを持ちきることができる彼女だが、今回は爆発的な瞬発力を見せてくれそう。
てやんでえべらぼうなオス猫のひとり語りや、色っぽい猫詩、そして萩原朔太郎の有名な詩など、たっぷり楽しませてくれることまちがいない。

照井数男。
メインの女性陣にあって、はっきりいって添え物。とはいっても、いなくてはならない存在で、仰天の気色悪い朗読を聴かせてくれるはず。

野々宮卯妙。
今回、出演が控えめなので、本人はちょっと物足りなさそうだが、いやいやどうしてどうして。きっちりおいしいところを用意してますぜ。
実力派の実力を出しきっていただましょう。

「猫のうた」オープニングイベントは、明日8月9日13:30から、下北沢ライブカフェ〈Com.Cafe 音倉〉にて。
詳細はこちら

2011年8月7日日曜日

ライブワークショップの濃い3時間、スイカ、猫ライブリハーサル

昨日は「朗読はライブだ!」ワークショップの今期(第8期)の初日だった。
土曜日にも関わらず、そして昼に向けて猛暑になったにも関わらず、午前10時からおおぜいが参加してくれた。今回の最終ライブは、にぎやかなものになりそうだ。
今期取りあげる作品は、宮澤賢治の「双子の星」の「一」のほう。
初日なので、これから毎日やってほしい身体作り、呼吸、発声などを一緒にやったあと、「双子の星」の読み合わせをしながら現代朗読の方法についてみっちりと確認する。今期の参加者も大変熱心で、本質的な質問がいくつか出て、表現についての深い話になった。濃い3時間だった。

10名ほどでゾロゾロと東松原のカレー屋に行き、昼食。
シマムラ・かっしーと10月にやる予定のライブの打ち合わせをする。が、昼食がてらなのと、みんなが一緒なのとで、なんとなく雑然としてしっかりと詰められなかった。後日あらためて詰めたい。
羽根木の家に戻ってから、朝から見学の丸さんが差し入れてくれたスイカを切って、みんなでいただく。

15時から昼ゼミ。9日の「猫のうた」オープニングイベントのメンバーが全員揃ったので(これが初で最後)、リハーサルをやる。初合わせなのでバタバタなところはまだあるが、おもしろくなりそうだ。

18時からはテキスト表現ゼミ。
つづく。

2011年8月5日金曜日

テキスト表現ゼミ習作選「親指」奥田宏二

毎週日曜日の夜、羽根木の家でおこなっている「テキスト表現ゼミ」の習作を不定期に紹介していくシリーズ。

とにかく奥田宏二は文章が達者である。わかりやすく的確な描写技術、話運び、アイディア、どれをとってもそつがない。
問題はそのレベルが「そつがない」レベルにとどまっている、ということだ。
とはいえ、悲観することはない。そのレベル、つまり一般的な活字商業作品のレベルを超えていけるポテンシャルの片鱗は見えている。
破綻を怖れずに書いてほしい、と思う。ストーリーやイメージにリミッターをかけないこと。「このくらいだと成立するだろう」という枠を外すこと。


「親指」奥田宏二

ブレーキランプが何度か点滅すると その光は 遠く他の光と交じり合い 次第に見えなくなった。
洋介は 呼吸の中に 遠く読経の声が聞こえた様な気がして
道の向こうに見える生家に目をやった。
葬儀屋の仕事は見事なもので、すでに 葬儀の名残は 跡形も無かった。
これで洋介は 父 母 共に失ったことになるが、洋介にその実感は まだ沸いてこなかった。

東京の一戸建て。とはいえ東京都下の田畑に囲まれた一軒で、
近隣の目標物が洋介の生家という、大きいだけが 取り柄の家である。

ひときわ大きな庭の柳が、ここからでも風になびいているのがよく見える。
柳がゆれる度 青い生家の屋根が見え隠れするのだが、あらためてよく見ると、
洋介は自分の記憶より 屋根が幾分か 古く 煤けていることに気が付いた。

相続問題は一切もめることなく、洋介が引き継ぐということで あっけなく片付いた。
喪主は洋介だったが 取り仕切ったのは殆どのところ 叔父だった。
今後やる事を 一通り説明し終えた叔父は、日が傾き始めたころ、黒塗りのBMWで帰っていった。

「隆、早くおいで」
叔父の車追いかけていた息子は、いつの間にか道端にしゃがみこんで 何やらゴソゴソ
やっている。
息子の興味はすでに、叔父の車から 道端の小石に切り替わっている様子だった。

まぁ急ぐことも無いか―
何かに夢中になっている息子をぼんやり眺めながら 洋介は胸のポットからタバコ
を取り出し火をつけた。
これは 父の部屋から拝借した 最後の一箱である。
ハイライトはいつものマルボロと違い、洋介の肺に重く圧し掛かって来たが、次第に
その重さも心地よくなってくる。
洋介もまた 父と同じく 愛煙家だった。

道端にしゃがんでいた息子はいつの間にか洋介のそばで木の枝を振り回していた。
「隆」
そう呼ぶと 洋介はわざと息子が自分の親指を握るように手を差し出した。
洋介は不意に 昔この道を父の親指を握って歩いたのを思い出していたのである。
息子はそれが当たり前の様に洋介の親指を握ると 体を傾かせながら
洋介に引きずられるように歩いた。

ゆらゆらとしばらく歩いていたが、息子は突然家のほうに向って大声を出した。
洋介は声の先を見ると
いつの間にか庭に出ていた妻が こちらに向って手を振っている。
 
ああ、この光景もみたなぁ―

しみじみとその光景を感じていると 洋介は煙の先に父の気配を感じたので

そこに行くのはまだまだ先だよ―

何となくそう呟いた。
親指で繋がれた親子の見上げる先には 
タバコを燻らせる お互いの父の姿があった。
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※羽根木の家に直接来られない方のために、オンライン「次世代作家養成塾」がスタートしています。問い合わせ・お申し込みはこちらから。

2011年8月4日木曜日

桃、ガーゼハンカチ、「猫のうた」ライブの稽古

朝ゼミに来たまりもちゃんが、桃をたくさんもらったのでと、重たいのにわざわざ持ってきてくれた。さっそく切って、みんなでいただく。
桃の切り方の話になる。しっかりした桃だったので、私はアボカドのようにクルリと包丁で切れ目をいれて、種を中心にひねってふたつに割って、種を取り去ってから、食べやすい大きさに切り分けた。柔らかい桃だとこの手は通用しない。
また、私は桃はたいてい、皮ごと食べてしまうのだが、これは少数派らしい。みんな皮をむいて食べるという。私は皮ごと、ジュースをボタボタこぼしながらむさぼりつくのが好きだけど。
朝ゼミでは、宮沢賢治の「なめとこ山の熊」の最終仕上げに向けてのエチュード。

昼食に例によって〈ピピカレー〉に行く。
今日、初参加の中村さんから、十条の店で買ったというかわいいガーゼハンカチ(しかし和柄)をいただく。やはり十条のかき氷屋の話を聞く。

カレー屋で長居をしてしまって、羽根木の家にもどったら、昼ゼミの参加者が3人、待ちぼうけ。すまぬ。
昼ゼミでは、ひさしぶりに遠方の那珂市からやってくる菊地くんの「鼻」の読みを聞いて、いろいろ研究したあと、9日の「猫のうた」ライブの稽古もやる。唐ひづる、まぁや、まりもが参加していたので。

昼ゼミ終了後、唐さんとまぁやに、「猫のうた」ライブの葉書チラシに連絡先のゴムハンを押してもらう。印刷し忘れたのだ。このゴムハン押しが面倒な作業で、すぐにインクが乾かないので、広げて乾かす必要もある。
ふたりでコツコツと効率よくやってくれて、残り全部終わり。助かったー。ありがとう。

5時すぎにせおちゃんが来て、唐、まぁや、せおの3人で「猫のうた」ライブの稽古。だいぶ形が見えてきた。
そもそも、稽古をほとんどまったくやらなくても本番でなんとかしてくれそうなメンバーを、今回は、日にちも迫っていることもあってお願いしたのだ。3人とまりもちゃんのほかには、照井数男と野々宮卯妙というメンバー。
そしてこのメンバーは、本番になってみないとなにがどうなるか予測がつかない。本番でしか起こらないことが起こる。
楽しみだ。
「猫のうた」ライブの詳細はこちら。平日の昼ではありますが、皆さんのおいでをお待ちしております。

朗読原稿を書く

昨日はほぼ一日、朝から夕方までコンピューターの前でテキストを書いていた。
来週9日(火)、下北沢の〈Com.Cafe 音倉〉でやる「猫のうた」ライブのための朗読テキストで、げろきょゼミ生のまぁやと瀬尾明日香の二人に読んでもらう。いわゆるセリフのかけあいだが、芝居のシナリオではなく、あくまで朗読テキストだ。

私はもともと小説家であり、活字になり製本された形が最終型であるテキストを書いていた者だが、同時にラジオ番組の制作にも多くたずさわってきた。
ラジオ番組では、ナレーターに読んでもらうためのスクリプトを多く書いていた。それはナレーターに読まれて(音声化されて)初めて成立するものだ。しかし一方で、小説家の性質が「活字として読んでも成立するようなもの」を同時にめざしていたようにも思う。
(参考「水色文庫」)

朗読テキストもそうだが、朗読者に読んでもらって(音声化されて)初めて、作品として成立する。と同時に、活字として読まれたときにも作品として成立するように書くこともできる。そもそも朗読テキストは活字作品として書かれたテキストを用いることが多い。
朗読テキストを書くというのは、私のなかでは特別な位置づけだ。
私が朗読テキストを書くとき、まず、だれか特定の朗読者を想定していることが多い。芝居でいえばいわゆる「あてがき」というやつである。今回はまぁやと瀬尾あすかがそれにあたる。
彼女たち(彼ら)に読んでもらうことを想定して書くとき、そこにはまず彼女たちの声がある。身体がある。人格がある。
さらに、彼女たちが立つ場所(ライブスペース)や共演者やオーディエンスもある。
私はそこでピアノを弾く。その音もある。
さまざまな実体が音声化の現場で想定される。それらを思い描きながらテキストを書いていく。これはあきらかに、そのような想定のない小説を書く作業とは質が異なる。
もうひとつ、時間の想定もある。小説ではありえないが、何分で読めるか、という想定だ。

いずれにしても、朗読者を想定し、それが実際にどのように読まれるのかは、作者の予想を超えることがしばしばある。というより、ほとんど毎回、予想を超えたことが起こる。それが楽しくて朗読テキストを書くようなところがある。
作者の想定を超えて現場でリアルに起こること。予測不能の事態。これこそテキストの実体化の醍醐味であり、ライブの魅力だ。
このライブは来週9日(火)下北沢〈Com.Cafe 音倉〉にて。

音声表現スキルアップ講座

当スキルアップ講座で扱う「音声表現」とは、声と言葉(日本語)を使っておこなう表現=朗読/ナレーション/アナウンス/司会/オーディオブック収録=のことです。

・取り換えのきかない唯一無二の存在になるために

ただきれいに読める、正しく読めるだけなら、替えはいくらでもいる時代。
「あなたにお願いしたい」「あなたでなければだめ」と言われるために、今なにができるのか。
音声表現を職業にしている方、職業にすることを目指している方、あるいは音声表現を自分のライフスタイルとして選んだ方のための集中講座です。

◎日時 2011年8月22日(月) 10:00-17:00
◎場所 現代朗読協会「羽根木の家」 ←主催はどうしよう。アイ文庫・げろきょ?
◎参加費 一般 33,000円/サポート会員・学生・専門学校生 22,000円(教材費を含む)
◎定員 10名

◎サポート
初日の講座から1ヶ月間、メールサポートをします。また、その間は現代朗読協会のゼミ生と同等の扱いとし、現代朗読ゼミ、その他各ワークショップにも自由に参加できます。
ゼミの詳細についてはこちらをご覧ください。
⇒ http://www.roudoku.org/ws/semi.html

◎概要
当講座にカリキュラムはありません。参加者ひとりひとりのニーズに合わせた綿密で徹底的な指導をおこないます。そのために定員制にしています。
自分のニーズではないと思っている他の参加者の問題にも参加することで、思いがけない発見をもたらし成長してもらうことも狙いのひとつです。
思いもよらない角度からヒントをもらうことで、表現力を大きくジャンプアップさせることができます。

◎セッションの目的/ねらい
他と取り換えのきかない存在になるためにあなたができること、めざすべきことを見つけましょう。
多くの人が技術を磨いたり生きていく過程で、さまざまな思い込みや癖を身につけていってしまいます。しかし、自分ひとりではなかなかそのことに気づかないことが多いのです。
観察のプロである演出家からさまざまな指摘を受け、受講者の多くはハッとしたり、目からうろこが落ちる経験をします。自分自身が無意識におこなってしまっていることに気づいたら、あとはそれを「やめる」「磨く」「選択する」ことも可能になります。
本当の自分自身の表現がどういうものなのか、知りたくはありませんか?

◎セッションの特徴
講師を務めるのは、30年近くにわたってラジオや音楽の制作、文学出版、そしてオーディオブックの製作に携わってきた演出家。
数多くの表現者と対峙し、蓄積してきた無数のノウハウと、客観的で直感的な観察、生理/心理/表現の基礎理論にもとづいた的確な指導によって、受講者の多くが大きく変貌してきました。
受講満足度は非常に高く、受講者は仕事にたいする誇りや真摯さを獲得し、生活習慣すら変化する方がたくさんいます。
日時が合わない方、ひとりでこっそり受講したい方のために、個人セッションも用意しています。

◎オーディション
オーディオブックリーダーを希望される方は、別途、制作/販売代理店との提携でおこなうオーディションを受けることもできます。詳しくはお問い合わせください。

ツイッターも参考にしてください。

お申し込みはこちらからどうぞ

2011年8月3日水曜日

新潟阿賀町災害ボランティアセンターからのSOS

トランジション世田谷のお仲間から以下のようなメールが回ってきたので、ささやかながらお力になれればと思い、掲載します。

------------
東日本震災のなかで、新潟福島では洪水の被害にあっています。
新潟長岡のボランティアバックアップセンターから
以下のSOSが届きました。
駆けつける方を求めています。
また、
周辺の方にお伝えしていただけることでもかまいません。
よろしくお願いします。



本日より阿賀町災害ボランティアセンターの運営支援に入っております。
水害の被害は町内の広範囲にわたっており、現在は地域住民の皆さんや消防の皆さんが中心に泥かきなどの復旧作業を行っているのですが、まだほとんどボランティアの支援が入っていない状況です。
被害の大きさから考えるとまだまだ多くのボランティアの皆さんの協力が必要です。
(三条の陰に隠れて、なかなか報道されませんが、結構被害が大きいです。)

是非、皆さんにもボランティア活動に参加いただき被災地の復旧・復興にご協力いただけたらと思いますので、どうぞよろしくお願いいたします。
なお、阿賀町の災害ボランティアセンター情報については、以下のHPをご覧ください。
阿賀町の災害ボランティアセンター情報はこちら

それでは、どうぞよろしくお願いいたします。
------------

「繭世界」が稲葉佳子展で朗読される

愛知県一宮市に一宮市三岸節子記念美術館がある。市町村合併前は尾西市三岸節子記念美術館だった。
三岸節子は1905年(明治38年)に生まれ、その後女流画家として活躍、60歳をこえてからフランスに渡り、南仏に住んでいた。84歳で帰国、大磯に永住。94歳で永眠。
この美術館にまだ行ったことがないのだが、次の日曜日7日に行くことになっていて、楽しみにしている。

現在この美術館では、稲葉佳子展「夏に舞う」がおこなわれている。会期中にいくつかイベントが予定されているのだが、そのなかのひとつに朗読会がある。名古屋の俳優で私の盟友である榊原忠美氏と、清水陸子さんのふたりがおこなう朗読で、ひとりずつ文学作品を朗読したあと、最後に私の「繭世界」という作品を朗読することになっている。
「繭世界」はこのイベントのために私が書き下ろしたオリジナルテキストだ。
なぜ「繭世界」なのかというと、稲葉さんの作品(インスタレーション)が蚕の繭から作った真綿を使って作られたものだからだ。
テキストは抽象的で現代的な作品だが、それがインスタレーションのなかで二人の朗読者によってどのように音声化されるのか楽しみだ。

稲葉佳子展は現在も会期中だが、朗読会は8月7日(日)17:30からおこなわれる。
ご都合のつく方はぜひお運びください。私も東京から駆けつけます。
詳細はこちら

2011年8月2日火曜日

SPTワークショップ・カフェで羽根木ブレーパークのリーダーの話を聞いた

羽根木公園というけっこう大きな丘の上にある公園が近くにあって、散歩やら花見やらでなにかと出かけている。2月には梅祭が開かれ、おおぜいの人がやってくることでも有名だ。
その公園の中に「羽根木プレーパーク」という子どもたちの遊び場があり、そこで焚き火をやったり、ツリーハウスを作ったりして、かなりおもしろく遊んでいるのは知っていた。漠然とだれか大人が世話しているんだろうな、学生のボランティアがいるのかな、程度には思っていた。
今日、プレーパークのプレーリーダーという人が、世田谷パブリックシアター主催の「SPTワークショップ・カフェ」で話をするというので、参加してみた。

話を聞いてみると、プレーパークはNPO法人プレーパークせたがやという団体がきちんと運営しているもので、3人のプレーリーダーがちゃんと給料をいただいて専任で子どもたちの面倒を見ているという。びっくりした。
そして、プレーリーダーの小川さんの話がおもしろかった。
とにかく「あれはだめ」「これはしてはいけない」という風潮の世の中にあって、なるべく子どもたちを自主的にのびのびと遊ばせてあげようという趣旨で、リーダーはサポートをしている。個別の事例がいちいちおもしろく、小川さんの懐の深さと子どものような好奇心・自由度が本当に楽しく、こちらも勇気づけられるような気がした。

一番うれしかったのは、時間内では私にはほとんど発言の機会がなかったにも関わらず、終わってから小川さんみずからが話に来てくれて、現代朗読協会に強い興味を示してくれたことだ。
私もプレーパークのことはずっと気になっていたこともあって、なにかいっしょにやれないかという気持ちになった。
近く、遊びに行ってみよう。
とにかく、プレーパークに行けば小川さんに会えることは間違いないので。

これは三軒茶屋のキャロットタワーで夜おこなわれたイベントだったが、急にそういうものに行ってみようと思ったのは、たまたま予定があいていたということもあるけれど、昼間、まぁやとまりもちゃんが来て「猫のうた」ライブの打ち合わせ・リハーサルをやったことも私の気持ちを軽快にしていたのだ。
「猫のうた」はあとちょうど一週間だが、まだ全然リハーサルはしていないし、テキストも未完成のものが残っている。それでも楽しくやれそうに思えるのは、今日の打ち合わせの感触がよかったからだ。
まりもちゃんもまぁやも、ほかに出てくれる瀬尾ちゃん、唐ちゃん、卯妙さん、照井くん、考えてみればみんな凄腕のライブパフォーマーだ。彼らに任せておけばなんの心配もいらないし、面白くなることは間違いない。私はただ、テキストを提供し、当日はただ無心にピアノを弾いて楽しめばいいだけだ。

もうひとつ。思い出したことがある。
「猫のうた」の日は8月9日で、長崎原爆の日だった。それへの思いを少しだけ入れてみたいと思っている。
下北沢でのライブ「猫のうた」の詳細は、こちら

なぜ猫は稲系の葉っぱを食べたがるのか

たぶん水稲だと思います。
猫はなぜか、こういう細長い葉っぱを食べたがります。市販の猫草も細長系です。そして食べては、けっけっと毛玉を吐きます。ところかまわず吐きます。困ります。
ススキのような細かいギザギザがある刃物のような葉っぱを食べると、ときに血といっしょに吐いたりして、心配になります。

この絵を含む猫スケッチ展を開催することになりました。オープニングイベントとして朗読ライブもおこないます。

◎展示会期 2011年8月9日(火)〜28日(日)
◎場所 下北沢・Com.Cafe 音倉
カフェタイム 12:00〜15:30 ライブタイム 18:30-22:00 月曜定休
※詳細はこちら

朗読と呼吸

朗読は言葉を使う表現であり、言葉は声からできる。声は声帯を震わせることで生まれ、声帯の振動は呼吸によって生まれる。呼吸のクオリティはそのまま、朗読のクオリティへと反映される。
オーディエンスは朗読される「物語」を聴くと同時に、朗読者の呼吸を聴いている。
物語は顕在意識で聴き、呼吸は潜在意識の部分で聴いている。朗読者が不安定な呼吸をしていれば、オーディエンスも不安を感じ、朗読者がゆったりした呼吸をしていれば、オーディエンスも落ち着いた気持ちになる。朗読表現にとって呼吸は非常に重要な要素だ。
そういう観点から、現代朗読ではさまざまな呼吸法を検証しながら取りいれてきた。この過程で、呼吸法には朗読表現のみならず、現実の生活に役立つさまざまな利点があることがわかってきた。つまり、朗読のための呼吸法をやることによって、いろいろなメリットが生まれるのだ。

現代朗読における呼吸法は、いろいろなものがミックスされている。声楽の呼吸法、体操の呼吸法、合気道や古武道の呼吸法、ヨガの呼吸法など。
試行錯誤でいろいろやってきたが、最近はっきりしてきたのは、呼吸は身体全体のコンソールのようなものだということ。
たとえば、不随意神経系である自律神経へのアクセスが呼吸によって可能になる。自律神経は交感神経と副交感神経のペアで成り立っているが、呼吸法でそのどちらかを活性化することが可能になる。
浅く素早い呼吸のとき、交感神経が優位になる。深くゆったりした呼吸のときには、副交感神経が優位になる。とくに現代人は交感神経ばかり働くシーンが多いので、副交感神経を優位にする呼吸法が有効だ。ヨガ、合気道など、有効な呼吸法がある。

呼吸は普段、とくに意識することがなくても自然に行なわれている不随意筋の働きでもあるが、意識的に行なうこともできる。不随意と随意の交差点にあるのが、呼吸という行為であるともいえる。これをうまく使うことで、不随意神経へのアクセスができる。
また呼吸法によっては、呼吸筋のみならが、姿勢筋の鍛錬もおこなうことができる。腰痛などにも有効だと思われる。横隔膜と肋間筋を動かすことで、現代人がうっ血しがちの中丹田周辺の神経叢や内臓に血行をうながし、活性化することもできる。結果的に、自律神経が安定し、不安やストレスが軽減され、代謝が促進され、免疫力も増加することになる。
現代日本はさまざまなストレスや不安、環境汚染、放射線の問題など増える一方で、個人の力では対処できない問題が多く存在する。
それらに少なくとも自分の身体性を整えることで対処する方法はある。もちろん朗読を含む表現行為を生活の柱とすることで、イキイキと世界と関わっていくことができると思う。

2011年8月1日月曜日

海辺の七匹

海岸の防波堤の上に野良の若い猫が七匹、集まっています。兄弟猫も混じっているようです。
一度にたくさんの猫を描くのはあまりありません。けっこう大変で、タッチはだいぶ荒くなりました。それはそれでよし、としましょう。

この絵を含む猫スケッチ展を開催することになりました。オープニングイベントとして朗読ライブもおこないます。

◎展示会期 2011年8月9日(火)〜28日(日)
◎場所 下北沢・Com.Cafe 音倉
カフェタイム 12:00〜15:30 ライブタイム 18:30-22:00 月曜定休
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