2011年9月29日木曜日

次世代作家養成塾:習作&講評「ほうじ茶」三木義一

 ひさしぶりに次世代作家養成塾で毎日配信しているメールマガジンから、冒頭部分を紹介します。

「文体」とはなんでしょうか。
 私たちがある文章を読むとき、そこにたしかに書き手の体臭のようなものを感じることがあります。だれが書いた文章なのか、はっきりと手触りを感じることがあります。
 村上春樹の小説には、村上春樹の感じがあります。
 それを「文体」と読んでいるわけですが、では、具体的に文章のどこをどう感じることによって、文体を認識しているのでしょうか。

 三木義一の作品を見てみます。
 冒頭。
「枯れ枝を沸かしたような液体から、瞬くように微粒子が舞い上がっている」
 ここから彼の文体を感じることができるでしょうか。できるとすると、どの部分でしょうか。
 比喩表現が二か所、使われています。「枯れ枝を沸かしたような」と「瞬くように」ですね。
 こうやってあらためて見ると、比喩表現は読者に文体らしきものを感じさせるのに有効な手段であるように思われます。
 ほかにはないでしょうか。
「舞い上がっている」
 現在形で文章を終えています。「舞い上がっていた」ではなく「舞い上がっている」。この時制の使い方も、わずかに文体らしきものを生れさせているように思えます。
 三木義一は意識してかどうかわかりませんが、この作品全体を現在形で語っています。そして、最後の最後だけ過去形にしています。「おかわりを頼んだ」。この時制の用法も、文体らしきものを浮かび上がらせる効果があるかもしれません。
 ほかにも「文体」のための要素はいくつかありそうです。かなり多いかもしれませんし、逆に意外に少ないかもしれません。
 もしあるとすると、自分の文体がどのような要素で特徴づけられているか、客観的に読み直してみるとおもしろいかもしれません。

(以下、略。本文全体は養成塾のメールマガジンで掲載しています)

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