2012年1月18日水曜日

「現代朗読協会」という場を死守する

photo credit: Noukka Signe via photopin cc

先日の体験講座でも、参加者の感想で「目からウロコでした」というものがありました。いつも必ずいわれることです。
なにが目からウロコなのか。
「朗読ってこんなに楽しかったのか」
「朗読ってこんなに自由でいいんだ」
「朗読って技術誇示ではなく自己表現の手段だったんだ」
「朗読の主人公は作者でも作品でもなく朗読者なんだ」
とまあ、こんなところでしょうか。
ほかの講座からいらした方からは、
「真逆のことをいわれました」
とよくいわれます。
現代朗読には「こうしなければならない」とか「これをしてはならない」というものが一切ありません。
普通にかんがえれば、表現というものはそうであって、子どもが自由に歌ったり踊ったり絵を描いたりするときのように、好きなようにやればいいのです。自発的にやりたいと思ったことは、すべて自分に許してやる。自己規制やあるいは外部評価のなかにすばらしい表現はありません。
しかし、こういう主張をしていると、苦しさをがまんして練習しなければいい表現ができるはずはない、ということをいわれることがあります。また、表現は厳しい制限があってこそよいものになる、という人もいます。
本当にそうでしょうか。
私にも覚えがありますが、苦しい練習や厳しい制限のなかにいると、なんとなく達成感があるような気がします。しかしそれは錯覚だし、また変ないいかたですが苦しさや制限のなかに逃げこんでいるともいえます。
表現するとき、ルールがあったほうが楽なのです。たとえば日本語の共通語アクセント。これを厳しく守ることに命をかけている人たちがいます。一見厳しい世界のように思えますが、ルールを守りさえすれば文句をいわれないわけですから、じつは楽です。
逆に、なんでもやっていいよ、アクセントだって好きにしていいんだよ、といわれたほうが大変です。人は大人になってしまうと、ルールのなかでやることを覚えてしまい、自由にすることが大変になってしまいます。
完全に自由ななかで自分のやりたい表現を見つけること。自分の自由を制限するものを厳しくチェックし、排除していくこと。これが現代朗読の基本姿勢です。だれからなんといわれようと、この姿勢を変えるつもりはありません。