2013年5月30日木曜日

共感的コミュニケーション勉強会、バーベキュー、春の祭典100年

昨日の昼はひさしぶりに羽根木の家の庭でバーベキューをやろうということになり、五月生まれのセルフ誕生会を兼ねて4人集まった。
木原さん、野々宮、みぞれちゃん、私。
みぞれちゃんは五月生まれじゃないけど、お誘いしたら来てくれたので。

それに先だって、肉を仕入れるために一昨日の昼、吉祥寺に行ってきた。
ついでに吉祥寺の駅のあたりをぶらぶら歩いてみたのだが、吉祥寺をそんなふうに歩くのはほとんど初めてだったかもしれない。
おもしろい店がいろいろあって、下北沢とはまた違った魅力のある街だなあと思った。
〈donburio〉という大変すっきりした造りの店でランチ。

吉祥寺から戻って、夜は共感的コミュニケーションの勉強会。
初めて参加する男性やゼミ生。
告知にも書いてあるけれど、継続的に勉強してもらいたいという気持ちがあるので、初回参加は2,000円だが、2回め以降のリピーターは500円とさせてもらっている。
ブリジットがワークショップでやっていた方法を参考にしながら、少し内容を工夫してやってみた。
わかりやすくなったのではないかと思う。

昨日のバーベキューでは木原さんがおいしいドイツビールを何本か持ってきてくれたので(重かったことであろう)、それを楽しみながら、肉とたくさんの野菜を炭火で焼いておいしくいただく。
そのあと、午後は共感的コミュニケーション勉強会。
木原さんとみぞれちゃんもそのまま参加。
こちらも初参加の人が何人かいて、非常に熱心に時間いっぱいみっちりとやれた。

6月の共感的コミュニケーション勉強会は27日(木)の開催。
また三軒茶屋の〈カフェ・オハナ〉でも26日(水)の夜に開催予定。

横浜のホッチポッチ・ミュージックフェスティバルの実行委員会から、今年も現代朗読協会に出演依頼がとどいた。
よろこんでやらせてもらいたい。
今年は10月20日(日)の開催らしい。

夜は下北沢のラプラスで、ストラビンスキーの「春の祭典」初演100周年を記念して、映像資料の上映会があるというので、行ってくる。
なかなか興味深い映像だった。
終わってから10数人が残って、近所のフレンチ居酒屋みたいなところで飲み会。
ソプラノ歌手でずっと東北被災地の支援活動をされている中村初惠さんを初め、ユニークな方々とお会いできて、楽しかった。

2013年5月28日火曜日

「Sound of Vision Vol.157」に行ってきた

昨夜はバリトンサックス奏者・UKAJIさんのソロライブ「Sound of Vision Vol.157」に行ってきた。
場所はキッド・アイラック・アート・ホール。
なにげなく書いたけれど、昨日で157回めとのこと。
びっくりである。

私はたまたまこのライブのことを知って、154回めから欠かさず聴きに行っている。
初めて聴いたときにはびっくりし、また混乱してしまったので、2回めはそれを確認しに行った。
2回めでこのライブのすごさを確認して、3回めは迷わず楽しみに行った。
そして昨日の4回めはだいぶ勝手がわかってきたので、リラックスして楽しむことができた。
つまり、この私(つまりかなりの音楽猛者であると自認している人間)にしてきちんと楽しめるようになるまで4回必要だったわけだ。
あまり音楽ライブに親しんでいない人にとっては、わけのわからないものかもしれない。

そうそう、ゼミ生のてんちゃんと菜穂子さんも聴きにきていたのだが、どういうふうに聴いたんだろう。
感想を聞きたいな。

昨日は比較的メロディアスな曲目が多かった。
最後の「My Foolish Heart」をのぞいてほぼ全曲、即興もふくめてマイナーキーで、調性のあるわかりやすい曲が多かった。
ただし、メロディがわかりやすいからといって、UKAJIさんのやっていることがわかるとは限らない。
針の穴をバリトンサックスのラッパの先でつつくような、おそろしく繊細なことに挑戦しているのだ。

めずらしくバッハは一曲のみ。
非常にゆっくりとしたテンポで、しかしリズムをしっかりと保って、一音一音確認するように、踏みしめるようにバッハの譜面を歩いていく、そんな演奏だった。
ほかにベラルーシだっけ、元ソ連領のどこかの国の民謡や、ベネズエラの曲があったり、選曲がおもしろい。
いちおうセットリストは用意してくるらしいが、本番のときにもう一度曲をにらみながら、どれを演奏するか変更することも多いとのこと。

というようなことを、ライブ後に下のカフェ〈槐多〉でゆっくりとうかがうことができた。
曲目のこと、演奏のこと、バリトンサックスのこと、そしてぶしつけながら普段どういうことをされているのか、このライブシリーズはどのような経緯をたどってきたのか、昔はどのような人たちと演奏していたのか。
いま入院中の板倉克行さんのことももちろん知っていて、かつてのフリージャズシーンについての話も少しうかがうことができた。

最後に「朗読とやりませんか」と誘ってみたが、いまはソロの自由気ままさを追求しているし、まだまだバリトンサックス一本でやりたいこと、やれることがあるんじゃないか、ということだった。
ちょっと残念。
次回のライブは未定。

自分の口はどこにあるのか(口どこ問題)

photo credit: Pamela Machado via photopincc

「口はどこにある?」とたずねると、ほとんどの人が自分の唇を指さす。
そこは口ではなく、口先。
そんな意識でいると、口先だけの朗読表現になってしまうぞ、と私は冗談半分で警告するわけだが、あながち冗談ばかりではない。

正面から見た顔の絵を描くと、口はたしかに唇の位置にあるし、鏡で顔を見ることが多いのでそのような認識になってしまいがちなのだが、口はもっと奥のほうへとつづいている。
頭を横から見てみると、口は唇、歯、口腔、舌、喉頭、そして気道へとつづいている。
口の上にはさらに鼻腔という大きな空間もあり、これも言葉を発することに深く関係している。

朗読では言葉の輪郭(滑舌ともいう)を明瞭にしたり、逆に不明瞭にしたり、といったコントロールをおこなうが、そのためには口の使い方にたいする意識が必要だ。
言葉が不明瞭だったり、さ行、ら行など特定の音節が苦手だったり、子どもっぽい発音だったり、といった人は、自分の口の使い方の意識を高めると有効だ。
唇はもちろん、口の開き(これはおもに顎の上下の開き)、鼻への音の抜け、舌の動き、口腔内の空間の使い方など、言語表現者なら当然、繊細な意識でそれらをコントロールできるようにしたい。

ところが、上記のようなわけで、自分の口にたいする意識はなんとなく前のほうにかたまっている。
奥まである口の構造全体にたいする正確なイメージを持つことが大切だ。
口という構造物は頭部の下部前方の大きな体積を締め、複雑な構造を持っている、そのことをきちんと意識することが必要なのだ。

物語と自我

イギリスのオックスフォードからやってきたNVC公認トレーナーのブリジットとパートナーのルードが、滞在していた羽根木の家を今日後にして、次の滞在地の長野へと旅立っていった。
彼らとすごした一週間、楽しかったなあ。
そしてたくさんの学びをもらった日々でもあった。

今朝、彼らが発つ前に、また日本に来てね、といったら、きみは来ないのかというので、もちろん行きたいと答えた。
来たらどんなことをしたい、と訊くので、そうだな、イングランドの人たちにピアノを聴いてもらいたいな、と答えた。
すると、音楽が好きで、日本に興味がある者たちを知っているので、集めてコンサートをやろう、とルードがいう。
なんて素敵な話だろう、いますぐにでも行きたい。

彼らを送りだして、入れ違いに石村みかちゃんと扇田拓也くんご夫妻が、生まれて四か月の莉緒ちゃんを連れて遊びに来てくれた。
お祝いを準備しておきたかったのだが、このところドタバタしていて間にあわなかった。
それはあらためて。

昨日の打ち上げのマリコディナーの残りを利用して、野菜グラタンを作ったり、残りをそのまま出したりして、いっしょにランチ。
みかちゃんたちは芝居の稽古にはいるということで、莉緒ちゃんのベビーシッターが必要なのだが、そのために何人かが名乗りをあげてくれている。
そのうちのひとりのみぞれちゃんが来てくれて、莉緒ちゃんと顔合わせ。

扇田くんが演出してみかちゃんも出演するてがみ座のスケジュールの話をしているうち、なんとなく合間に合同でワークショップをやりたいねという話になって、うまいタイミングでやれそうなことが判明。
8月に、演劇と朗読の合同ワークショップを開催することが、とんとんと決まった。
タイトルは「物語と自我」。
演劇と朗読はなにが違うのか、物語性と自我の問題を、それぞれの表現ではどのように扱うのか。
そして最終ライブ発表はキッド・アイラック・アート・ホールでの公演を9月23日に挙行。
おもしろそうだ。

2013年5月27日月曜日

二日間のブリジットNVCワークショップが終わった

昨日はイギリスはオックスフォードから来日したブリジット・ベルグレイブによるNVCのワークショップの二日目だった。
二日目はすでにNVCをいくらか経験している人や、トレーナーの招聘グループのコアメンバーを対象にしたワークショップとして開催された。

二日間を通して、私は大きな学びをもらった。
ブリジットが考案した「NVCダンスフロア」というシステムは、すでに多くの人が体験していて確固たる評判を得ているものだが、私は今回初めて体験した。
NVCの共感のプロセスをまず視覚的に明示し、それを使って身体を動かすことで実感と明確さを作っていくという、入門ツールとしてとてもすぐれたものだ。
これを体験しながら、私もこういった入門ツールをオリジナリティをともなって作りたいとずっと思っていたことを、あらためて確認できた。

実践ワークでは、私は幸いにも、私にNVCを紹介してくれたケンちゃん(今回は通訳サポートとして参加)と組むことができて、彼のプロセスに付き合ったり、私の力不測でブリジットの助けを借りたり、ケンちゃんの正直さ・誠実さに触れたりできたことがありがたかった。このことをだれかにシェアできたらいいのだが。

ワークショップが感動的に終了したあとは、都合のつくみんなで一斉に羽根木の家に移動(一部ののっぴきならない人をのぞいてコアメンバーの多くが来てくれた)。
今日は詩吟の会に行って尺八演奏の学びのニーズを満たしていたルードも合流。
NVCの会の打ち上げにいつも料理を作ってくれるマリコの、オーガニックでヘルシーなディナーを堪能しつつ、打ち上げ。
ヘルシーとは対極にあるかもしれない賢さんのスパイスてんこ盛りの麻婆豆腐もいただく。

ここでもまた、ワークショップ以上にいろいろと感動的なできごとがあった。
とてもここに書ききれない。
とにかく今日は、豊かで濃密で、あたたかなつながりと共感に満ちた一日だった。
こういう大切な日々を、一日一日かさねていきたいと思う。

2013年5月26日日曜日

ブリジットのNVCワークショップ初日

昨日は午前中の現代朗読基礎講座が終了後、東武練馬の大東文化会館まで行って、ブリジットのNVCワークショップの後半に参加した。
ちょっとだけだったが、NVCを教えるブリジットの美しい立ち姿からたくさんの学びを得た。
NVCのトレーナーからはその教える内容よりも教える姿勢から学ぶことが多い。
とくにブリジットはアレクサンダー・テクニークの教師でもあるので、物理的な立ち姿そのものが美しいということもあるし、教える態度そのものから教えられることが多い。

終わってからスタッフをまじえて10人くらいで近所の中華料理店にはいって、軽く打ち上げ。
軽くといいながらも、大盛り上がり。
これまでゆっくり話す機会がすくなかった浅川先生と楽しい話がたくさんできて、うれしかった。
賢さんが階段から落ちて怪我したということで、満身創痍の姿だったのがちょっと心配。
幸い、大事にはいたらなかったようで、一日も早い完治を祈る。

解散して、帰路につく。
ブリジットと隣り合わせに座って、いろいろな話ができた。
とくに音楽の話でビートルズやキース・ジャレットのこと、植物のスケッチのことなど、共通の興味があって楽しかった。

ブリジットを羽根木の家まで送りとどけ、8時半すぎに帰宅。
今日も朝からワークショップなので、帰宅後は『ストリーム』をまず書く。
今日はこれから9時半に昨日とおなじく大東文化会館に集合。
今日のワークショップは日本のNVCのコアメンバーのためのもので、人に伝えるための濃密な内容になる予定。
楽しみながら、ちょっと緊張している。

2013年5月23日木曜日

「槐多朗読」第七弾、終了

明大前のブックカフェ〈槐多〉(キッド・アイラック・アート・ホールの地下)で断続的におこなっている沈黙の朗読シリーズ「槐多朗読」の第七弾が、昨夜終了した。
カフェは席数が20。そのうち私が演奏のために2席をつぶしてしまうので、18席しかない。
お客さんを呼びすぎると窮屈になってしまうし、少ないと寂しい。
さじ加減が難しいのだ。
しかし今回はその「寂しい」パターンになってしまった。
それでも席の半分は埋まったし、お客さんが少ないためなのかそうでないのかはよくわからないが、とても充実したパフォーマンスになった。

羽根木の家から明大前まで、これまでほとんどだれかに機材運びを手伝ってもらっていたのだが、今回は上記のようなわけで手伝ってくれる人もいなく、私ひとりでえっちらおっちら運んだ。
運ぶものは、midiコントローラーを兼ねたシンセサイザー1台、MacBook、BOSSのアンプ付きモバイルスピーカー、ミニミキサー、そしてACアダプターやケーブル類だ。
総重量15キロから20キロ程度と推測される。
これを基本的に非力で、しかも演奏前に指や腕に不可を与えたくないピアノ弾きが自力で運搬しなければならないというのは、かなり厳しい。

大汗をかいて〈槐多〉にたどりつくと、カウンターのなかには多恵子ちゃんがいた。
元気そうだ。
コーヒーを飲みながら、機材のセッティング。
これもまた孤独な作業。
嫌いではないけれど、だれかが手伝ってくれるとうれしい気持ちになるプロセスではある。
そういえば、先月の「キッズ・イン・ザ・ダーク ~ 春の宴」では、菜穂子さんが私の補助についてくれてありがたかった。
いつも恵まれているわけではない。

午後7時半になるとお客さんが順次やってきた。
といっても、皆知り合いばかりで、とくに一昨日から羽根木の家に滞在しているブリジットとルードが来てくれたのはうれしかった。
ブリジットはNVCの公認トレーナーであり、またアレクサンダーテクニークの教師でもある。
ゼミ生のKAT、バンガードさん、珪子さんや、川橋さん、千絵ちゃん、アトゥールさんも来てくれた。

8時すぎ、全員に飲み物が行き渡るのを待って、開演。
テキストは私が書いた『子どものころの七つの話』と槐多の詩をひとつ。
出だしは軽くいこうかね、と打ち合わせしていたのだが、電子楽器が思うように鳴らず、なんとなく重々しい感じで出てしまった。
いつものことながら、生ピアノとちがって電子楽器と格闘しながら、しかしすぐにそれを楽しめるようになってきた。
野々宮はというと、いつになく集中して自在に読んでいる。
それに引っ張られるようにして、私もサウンドメークに集中できたように思う。

60分から70分くらいで終わる予定だったのに、終わったら9時45分。
たっぷり100分近くやっていたことになる。
途中から皆さんつらくないだろうかと心配したのだが、休憩もなしに最後まで集中して聴いてくれてうれしかった。

終わってすぐにブリジットが感想を聞かせてくれた。
もちろん日本語はひとことも理解できないが、テキストの内容とは別に自分のなかに独自のストーリーが浮かんできたそうだ。
たとえば、だれかが川の堤防のようなところをずっと歩いていって、途中の橋から飛びこむ、といったストーリー。
『子どものころの七つの話』のなかに、私の妹が川に落ちて流される話があったり、河にまつわる話が多かったので、ちょっとびっくりする。
野々宮の朗読については、大きなエネルギーとパワーを感じ、それを受け取ったといってくれた。

私の演奏については、ブリジットからもルードからも「beautiful music」といってもらえてうれしかった。
英語なので聴き取れない部分もあったけれど、とにかくブリジットたちが共感的に聴いてくれ、共感的に受け入れてくれ、共感的に感想を伝えてくれたのがよくわかって、とても豊かな気持ちになれた。
私も共感的コミュニケーションのことを人に伝える立場であるけれど、自分自身がもっと実践できるようになれるといいなと思ったひとときだった。

終わってから、都合で早く帰った人以外、残ってくれた人たちと話ができた。
長すぎたのではないかと恐縮していた私にたいして、何人かが「全然長く感じなかった」といってくれたのはうれしかった。

「槐多朗読」の次回開催は未定だが、その前に「沈黙の朗読」を上のホール(キッド・アイラック・アート・ホール)でやることが決まっている。
9月23日に名古屋から榊原忠美を招聘し、「記憶が光速を超えるとき」と「特殊相対性の女」の2本立てでやろうと思っている。
まだ先のことだが、そしてどういう形でやるのかはまだ決まっていないが、興味がある方はその日の予定をぜひともあけておいてほしい。

2013年5月21日火曜日

老人ホームでピアノを弾く

昨日の午後は富士見台の老人ホーム〈メディカルホームまどか〉に行って、いきいき音読ケアをおこなってきた。
KAT(1級ボイスセラピスト)と野々宮(音読療法士)のふたりが進行をしてくれたので、私はサポート。
ここではオープンフロアにグランドピアノが置いてあって、いつも私は最後に季節の唱歌を何曲か演奏させてもらうのが常だ。
あまり状態のいいピアノではないのだが、それでもグランドピアノなので演奏が始まるとお年寄りの方たちはよく反応してくれる。
歌は直接的に人の記憶を刺激するので、反応もはっきりしている。

昨日は初夏の曲を何曲か弾いた。
「茶摘」「夏は来ぬ」「ふじの山」「われは海の子」そして思いがけずアンコールをいただいたので「故郷」を。

その前の音読ケアでは、毎回来てくれる方も初めての方もたくさんの方がとても熱心に参加してくれたので、私たちもやりがいがあった。
なぜか今回はとくにみなさんとのつながりを強く感じられて、ちょっと感動的ですらあった。
音読療法の可能性をあらためて確信できた時間となった。


先日は蕨市のほうで、ボイスセラピストの玻瑠さんが体験教室を開催したという報告をもらった。
参加の方や市の職員に興味を持ってもらったということだった。
音読療法はとてもすぐれた健康法であり、心身の病の予防法であり、また介護予防にも効果を発揮するので、もっと多くの人に知ってもらい、利用してもらいたい。
より多くの人が利用するようになれば、ボイスセラピストも職業として自立していけるので、いまはとにかく認知度をたかめ、普及をはかっていくことに力を入れたい。

いま、音読療法についてのプレゼン資料を作っている。
また『音読療法の基礎』という教科書的な本ももうすぐ書きあがる予定だ。
東京周辺のみならず、地方や、海外在住の方も受講に来るし、受講後はネットのビデオミーティングを利用したフォローもできるので、遠方でも興味のある方はまずはコンタクトしてほしい。
もちろん近所の方も歓迎だ。
私か音読療法協会に直接コンタクトしてほしい。

ドイツからの受講生

日曜日の2級ボイスセラピスト講座には、ドイツのフライブルクからの方が参加された。
実家は仙台で、今日は講座のためにわざわざ東京に宿を取って来られたとのことだった。

ドイツの国内事情をいろいろと聞かせてもらって興味深かった。
ドイツは地方分権がかなり進んでいて、地方のそれぞれの地域が元気であること。
教育はかなり自由で、締め付けも競争もあまりなく、子どもたちは「これでいいの?」というくらいのびのびとしている。
エネルギーの問題や、農薬、オーガニックなど食糧問題にたいする関心も高いらしい。

私はドイツには行ったことがないが、ぜひ一度行ってみたい国ではある。
ドイツに行って、ピアノを弾いたり、現代朗読のライブをやってみたいと思っている。
なぜならドイツは音楽がとても愛されているし、朗読もかなり盛んで日常のなかにとけこんでいると、ドイツの朗読文化を研究している東京外大の先生から聞いたからだ。


さて、日曜日の講座では、いつものように音読療法の基本的考え方と呼吸、発声、音読ワークについて学んでいただいたあと、音読療法の重要な要素のひとつである共感的コミュニケーションについてもレクチャーと練習をしてもらった。
音読療法士の野々宮がサポートしてくれたほか、2級ボイスセラピストが2名来たので、グループで練習ができた。
音読療法そのものは、その実践においてはとてもシンプルでわかりやすい(しかし効果的)ものだが、共感的コミュニケーションは習ってすぐに使えるようになるというものではない。
日々の繰り返し練習と心がけが必要なのだが、講座ではその方法を伝える。

ドイツから来た方も興味を持ってくれて、どういう場面で使えるか、練習できるか、いろいろと想定しておられるようだった。
1級にも興味を持っているとのことだったが、ドイツ在住なので受講のタイミングをどうするかが問題だ。
次回の2級ボイスセラピスト講座は6月23日(日)に開催する。

2013年5月20日月曜日

自分用バリバリメモ

私の活動的な季節になったので、いろいろなことをバリバリ進めていきたいと思う。
自分用のメモもかねて、これからの予定を。

今週水曜日、5月22日夜は明大前ブックカフェ〈槐多〉で「槐多朗読」。
来週火曜日、5月28日の昼はオーディオブックリーダー養成講座、夜は共感的コミュニケーションの勉強会。
翌水曜日の5月29日の昼はプライベートなバーベキューパーティーと、そのままつづいて共感的コミュニケーションの勉強会。
翌木曜日の5月30日午前中はママカフェ、夜はげろきょネットライブ。

月が変わって6月1日(土)は朗読体験講座。
翌日曜日の6月2日は1級ボイスセラピスト講座。
その週の金曜日、6月7日夜は中野〈Sweet Rain〉にて朗読と即興音楽の「ののみずライブ」。
6月14日と15日は足立区の都市農業公園でのイベント「木とハーブ祭」に現代朗読協会も出店、朗読パフォーマンスをあちこちで繰り広げる予定。
その翌日、6月16日(日)は徳島に飛び、現代朗読ワークショップとライブ、そして楽しみな徳島観光をたるとさんのお世話になって。

電書および紙本として出版したいものもたまっている。
「音読療法の基礎」はもうすぐ脱稿、これは音読療法の教科書として書いているもの。
「音読日めくり」春夏秋冬は、連載終了した原稿をあらためて編集しなおして、季節ごとの4分冊にまとめる予定。
「祈る人」1~4は、既刊の『祈る人』以後「水色文庫」に書きたした作品を収容して、あらためて4分冊として出す予定。
「桟橋」はケータイ小説サイトに連載した長編小説。
「ジャズの聴き方」は現在もブックマン社から販売されている書籍だが、版元から電書にしてもらっていいという許可をもらったので。
「現代朗読入門」はこれまで書きためた膨大な量の現代朗読にかんする私の書簡をまとめるもの。
「共感的コミュニケーション〔応用編〕」もすでに文章はほとんど書きあがっているので、そろそろ本にまとめたいと思っている。

これらを5月、6月中に片付けてしまえたらなあカッコ希望。

2013年5月19日日曜日

やっかいな承認欲求というもの

photo credit: striatic via photopincc

人から承認されたい、あるいは自分自身を承認したい、という欲求はだれにでもあって、しかしこれがいろいろやっかいなことをもたらす。

「承認された/みとめられたい」という欲求は自分自身を無意識に「依存する側」に置いてしまう。
たとえば仕事において上司に認められたいと思ってがんばっているとする。
上司とあなたは「認める側」と「認められる側」という、一種の上下関係であり、依存/被依存の関係である。
認められなければその関係は苦しいものになるし、認められれば甘い関係となる。
いずれにしても関係性は対等ではない。

あなたは自分の行動を「上司に認められるため」に規定してしまう。
それは「上司の価値基準にそって」自分自身の行動を規定することである。
自分の価値を大切にして自分自身がどうしたいのか、というようにふるまえないあなたは、自分自身をないがしろにしている。
それはあなたにとってとても苦しいことだろう。
たとえ上司に認められたとしても、苦しい関係はつづく。
なぜなら、一度認められても、またつぎも認められなければならないと、承認欲求は永遠につづくからだ。

こういう他者にたいする承認欲求は、親子関係や友人関係、夫婦関係にも存在するが、自分自身にたいする承認欲求も同様にやっかいだ。
「自分自身を承認する」というマインドは、無意識に自分のなかにもうひとりの自分を置いている。
そのふたりの自分に依存/被依存関係を作り、上下関係を作っている。
自分のなかにあるこの「ふたりの自分」の関係矛盾が、あなたに苦しさをもたらす。
たとえ自分自身を承認できたとしても、「ふたりの自分」の関係性は消えることはないので、前記の上司との関係性のように苦しさはその先へとずっとつづいていくことになる。

ではどうすればいいのか。
「承認する」というマインドではなく「共感する」マインドをそこに置けばうまくいく。
これについてはまたあらためて書くことにする。

2013年5月18日土曜日

私のかんがえる朗読演出とは

現代朗読の体験講座や基礎講座、ライブワークショップなどで初めてやってきた人は、私が「朗読はやらない」というとびっくりする。
そのかわり「演出する」というと、ちょっと安心した顔になる。
しかし、「演出といってもこちらからなにか指示することはあまりしない」というと、また怪訝な顔をする。

一般に演劇にしてもなにかイベントを作るにしても、演出家がいれば出演者はその演出家の指示にしたがって動き、演出家のかんがえたイメージにそったステージを体現しようとする。
出演者は演出家の意図をくみとり、できるだけ忠実にイメージ実現に貢献しようとする。
演劇の場合、演出家の指示は絶対的である、というような劇団もある。

現代朗読では——すくなくとも私は——自分のイメージを出演者に押しつけることはない。
私がかんがえる演出とは、自分のイメージやアイディアを出演者に指示したり押しつけるのではなく、出演者ひとりひとりが持っている無限の表現性を引きだすお手伝いをすることだ。

朗読者はそれが初心者であれ熟練者であれ、自分でも気づいていない表現の可能性を無限に持っている。
自分がなぜ自身の可能性に気づけないかについては別の話なので、あらためて書きたいと思うが、とにかくそういうことなので、だれかがアドバイスしたり、ある仕掛けのなかで自分で気づいていってもらうことが有効だ。

自分がどれだけ自由であり、どれほどユニークな存在であるか、それに気づいてもらうのが朗読における演出家の仕事だと思っている。
それに気づくことができたら、あとはステージの上でなにが起こるのかを楽しみに待つだけでよい。
実際、現代朗読のステージでは、いつも、奇跡のようなすばらしいことが次々と起こる。
それはたしかに、私と朗読者たちの共同作業の結果産みだされた奇跡なのだ。

2013年5月17日金曜日

暖かい季節になってほっとしている

人は自分の生まれた季節が一番好きになるというが、私にかんしてはそれは本当だ。
いまの季節が一番好きだ。
好きというより、実際に体調がよくなり、気力も充実する。
寒いのが極端に苦手なので、この季節になるとほっとする。

北陸生まれなのに寒いのが苦手なのは変だ、といわれることが多いが、雪国生まれでも苦手なものは苦手だ。
たぶん、父親も寒いのが苦手な男で、子どものころから家の暖房にはうるさかったのと、子ども(つまり私)にもしこたま厚着をさせていたので、私も寒さに弱くなったのだろう。

東京でも北陸でも、この季節には植物がぐいぐい育ちはじめて、楽しい。
実家の軒先には毎年、ツバメが巣を作るのだが、今年も作っている。
ほとんど完成していて、もうすぐ卵を産んで暖めはじめることだろう。
だれに教わったわけでもないのに、泥と藁を運んできて、器用に巣を作っているのを見るのは、不思議でもあり楽しくもある。


そろそろ小説のほうでまとまった仕事をしたい、という気持ちが強まってきている。
私は短編小説も好きだが、デビューは長編小説であり、長い物語を書くのも嫌いではない。
かなりの根気と持続的な集中力を要する仕事だが、自分ではわりあい得意なほうだと思っている。
かつては年に何本も書いていたこともあったが、数年に一本、集中して自分でも納得できるものを書きたいという欲求がある。

いま書きたいと思いはじめているのは、自分の少年期の話だ。
先日、現代朗読公演のために「子どものころの七つの話」という短編連作を書いたが、あの延長線上で長編にしてはどうかと思う。
いまの時代が失ってしまって、しかしまだ少しは取りもどせるとても大切なことが、私の子どものころにはたくさんあったような気がする。
それを伝えていくことは無意味ではないかもしれない。

「音読日めくり」みたいに一年連載で、季節に連動した話を書いてみようかな。

2013年5月15日水曜日

読みにくい作品を選び、読みたいように読む

よく、
「朗読の練習にはどんな作品を選べばいいんですか?」
と訊かれる。
朗読の作品選びに苦労される方はどうやら多いようなのだ。
私の答えは明快だ。
「読みにくい作品を選びましょう」

作品選びにこまるとつい自分の好きな作品を読もうとしてしまう。
すくなくともそれはあまり「練習」にはならない。
好きな作品や思いいれのある作品は、作品にたいするイメージがすでにできてしまっているので、「このように読もう」という道すじが作られやすい。
現代朗読でいうところの「テキストに読み方を指示される」ことになりやすい。

読み方の自由を確保する練習のためには、なるべく自分では読みにくい作品とか、ほうっておけば自分では決して読もうと選ばない作品を選ぶといい(無責任な他人に選んでもらうのもよい)。
読みにくい作品はあらかじめどう読もうという道すじができていないので、「さて、どう読めばいい?」というところからスタートしやすい。
また、自分がふだん使いなれていない言い回しや文体を自分の表現として使おうというのだから、しっかりと読みこんで練習しなければうまく読めない。
練習で苦労する分、力がつく。

理想は、読みにくい作品をしっかりと読みこんで、どのようにでも読めるように練習し、さらに読みたいように読む、ということだ。

「だれそれさんの朗読ライブを聴きたい」という人を何人出せるか

26歳くらいのことだったと思うが、バンドマンをやっていた京都で食いつぶし、生まれ故郷の福井で大人向け(子どももいたけれど)のピアノ教室をほそぼそとやっていたとき、FM福井というラジオ局が開局した。
ちょっとした縁があってそこでラジオ番組の制作に関わるようになった。
いま調べたら、FM福井の開局は1984年2月で、たしかに私は26歳だった。

情報番組の構成やら選曲の手伝いをしていたのだが、その番組のパーソナリティが局アナの女性と、もうひとりは名古屋のタレント会社から派遣されてきた榊原忠美氏だった。
榊原氏は名古屋の劇団クセックの俳優でもあり、どちらかというとラジオのパーソナリティやCMナレーションの仕事は食うための副業のようにかんがえているらしかった。
じつに多くのマニアックな映画や小説を読んでおり、ちょうどそのころ私もはまっていたラテンアメリカ文学の話でたまたま意気投合した。

いっしょになにかやろう、という話になり、彼が朗読、私が即興ピアノを弾く形で、ライブをおこなうことになった。
それがいまにいたる30年近くにわたってつづく、私と榊原氏の朗読パフォーマンスの付き合いのはじまりであり、ひいてはいま私が主宰している現代朗読協会の起点であったといえる。

榊原氏とは福井、名古屋、岐阜、豊橋、金沢など、さまざまなところでさまざまな朗読イベントをやった。
その後、私は2000年に仕事場を福井から東京にうつし、やはりラジオ番組やオーディオブック制作をはじめた。
失礼なものいいだが「名古屋ですら」榊原氏のようなすごい朗読者がいるのだから、「さぞや東京には」すごい人がゴロゴロいるのだろうと期待していたのだが、私の期待はすぐに裏切られることになった。
榊原氏をこえるようなすぐれた朗読者にはついぞ出会うことがなかった。

榊原氏のすごさは、その即興性と音楽性にある。
即興演奏家のように反応し、ダンサーのように身体を駆使する。
東京に出て間もなく、榊原氏のような朗読者は非常にまれな存在なのだと認識することになった。
それからしばらくして、榊原氏のような朗読者はどのようにして生まれるのだろうか、とかんがえはじめた。
私的な塾として朗読研究会を立ちあげたのは、そういう理由からだった。

その後、現代朗読協会を設立し、即興性、身体性、音楽性に的を絞った朗読者の育成方法を試行していった。

協会設立とほぼ同時期に、朗読などまったくやったことのない、いわばずぶの素人である野々宮卯妙に現代朗読の育成方法を試しはじめた。
いわば人体実験である。
それまでは声優やナレーター、アナウンサーといった、声の仕事にたずさわっている者が多く私のもとに来ていたのだが、まったくの素人に私の方法がどのくらい通用するのか、試してみたかったのだ。

結果はみなさんがご存知のとおりだ。
野々宮卯妙はいまや、どこに出しても恥ずかしくない、堂々たる現代朗読のパフォーマーである。
「朗読業界」から評価されることはあまりないが、ミュージシャンや身体表現のパフォーマーたちと共演すれば、たちまち皆驚愕し、おもしろがってくれる。
そして再演の機会を作ってくれる。
たとえば下北沢の老舗ライブバー〈レディ・ジェーン〉や、中野のジャズ・ダイニング・バー〈Sweet Rain〉などからは、名指しでライブの依頼が来たりするようになった。

榊原氏や野々宮の朗読パフォーマンスを観た人は、彼らがじつに自由に、気ままに、軽々とやっているように思えて、いますぐにも自分でもそのようにできるように勘違いすることがある。
やってみればわかることだが、とんでもない。
彼らのようにやるためには、すぐれた音楽的感性と身体反応力、瞬発力、自由度、そして高度な知性が必要だ。
朗読においてそれらをみがいていく方法を持っているのは、現時点で現代朗読協会以外には存在しない。

現在、現代朗読協会には、野々宮卯妙につづくようなすぐれた朗読パフォーマーの卵がひしめいている。
私の仕事は、あと何人、名指しでライブ依頼されるような朗読者をここから出すことができるか、だ。
同時にもちろん、私自身も、日本でただひとりの朗読ピアニスト(?)として彼らに負けないように腕をみがきあげていくことも大切だと思っている。

私と野々宮卯妙によるライブは、来週5月22日(水)夜の「沈黙の朗読——槐多朗読」が、6月7日(金)夜の「ののみずライブ@中野スウィートレイン」が予定されている。
よろしければ目撃しにきてください。

朗読するときは基本的に受け入れてもらえると信じて読む

朗読にかぎらず、なにかを表現するとき、いや、表現にかぎらずなにか行動するとき、人はかならず他人の批判の目にさらされることになる。
そのことを恐れるあまり、表現することをやめてしまったり、自分の行動に抑制をかけてしまうことがある。
それはとてもつまらないことではないだろうか。

先日、初日を迎えた現代朗読基礎講座で、私が、
「朗読とは伝達ではありませんよ、表現ですよ。自分自身を正直に誠実に相手に伝える手段のひとつですよ」
と、いつものように現代朗読のかんがえかたを示したら、
「それって自分をさらけだすことですよね。怖い」
という人がいた。
たしかに自分をさらけだしたとき、思いがけない非難や攻撃を受けることがある。
「怖い」と思うのは自分の安全がおびやかされるのではないかという怖れからやってくる。

たしかに物理的な危険がある場合はそこから退避したり、自分を守る必要があるが、表現の場においては物理的な危険はそうそうない(まれにあるから、そういう場合はただちに身を守ってください)。
あるのは心理的な危険だ。
心理的な危険にたいしては、心理的な防御や退避が必要だし、有効だ。
このあたりのスキルについては、ここではくどくど述べない。
興味がある方は拙著『共感的コミュニケーション〔入門編〕』をご覧ください。

自分の表現クオリティを最高にあげる方法のひとつは、オーディエンスを完全に信頼すること。
聴衆が自分のことをすべて受け入れてくれると信じてパフォーマンスをすること。
批判や攻撃を受けることを事前に想定しないこと。
そうすれば、みずからの表現のリミッターがなくなり、のびのびイキイキと表現できる。
自分とオーディエンスを信頼して思いきり表現できることこそ、表現することの喜びであり、目的でもあろう。

2013年5月14日火曜日

朗読と即興音楽の「ののみずライブ」@中野〈Sweet Rain〉のお知らせ


中野のジャズライブバー〈Sweet Rain〉で現代朗読パフォーマー野々宮卯妙の朗読と水城のピアノ演奏のライブをおこないます。

◎日時 2013年6月7日(金)20:00スタート(2ステージ)
◎場所 中野〈Sweet Rain〉
◎料金 投げ銭(飲食代は別)

 予約先:Sweet Rain(03-6454-0817)

前回3月6日につづいて2回めとなります。
即興性の高い現代朗読と、まったくの即興ピアノによるスリリングなセッションをおこないます。
演目は夏目漱石などの文学作品と、朗読のために書きおろした水城オリジナルのテキストです。
飲み食いしながら、気楽な音楽ライブのように楽しんでいただければと思っています。

2013年5月13日月曜日

まとまった仕事をする

photo credit: gbohne via photopincc

今年はもうすぐ宮崎駿の新作アニメ映画が公開になるという。
タイトルは「風立ちぬ」。
「崖の上のポニョ」が2008年公開だから、5年ぶりということになる。
その間も「借りぐらしのアリエッティ」や「コクリコ坂から」にも関わってはいるが、監督はしていない。

いずれにしても、宮崎駿は数年単位のスパンで大きな仕事を発表していく、というリズムで晩年の旺盛な製作をおこなっている。
うらやましい、と思う。
自分に引きくらべてみると(他人との比較は不幸のはじまりだが(笑))、毎日ちょこまかとブログを書き、表現欲求を小出しにして、まとまった仕事は何年もできていない。

まとまった仕事をしたいという欲求はある。
いや、まったくなかったわけではないな。
去年の2月13日から今年の2月12日まで、毎日欠かさずブログ連載した『音読日めくり』は、結果的に分量的にも力技的にもまとまったものとなった。
これは誇れることかもしれない。

ジブリという会社に理想的な仕事環境を持ち、周辺のノイズから守られて数年単位で集中して仕事をしていくのは宮崎駿のスタイルだが、私はそうではないし、そのようなスタイルを望むべくもない。
毎日こつこつと取りくみ、結果的に数ヶ月、数年単位でまとまった仕事として完成するような、そういうスタイルをこれからも取ればいいのか、と思う。
そう思ったとき、いま、明日からでも取りかかりたい仕事はなんだろう。
あるある、たくさんある。
あれもこれもではなく、順番に、『音読日めくり』のときのように、毎日の生活スタイルの一部のような継続的な仕事として、手をつけていこう。

明日死ぬかもしれないけれど、まだ何年も生きるかもしれない。
ガンジーの言葉を思いだす。
「明日死ぬと思って生きなさい。永遠に生きると思って学びなさい」

自分の本当の年齢で読む

朗読するとき、多くの人がこういうことをやってしまう。
その文章を書いた作家のイメージを無意識かつ反射的に思い浮かべ、みずからをそういう身体性に近づけようとしながら読んでしまう。

先日のゼミではチエちゃん(20代なかば・女性)が夏目漱石を読んだのだが、その読み自体は非常にしっかりしていて、伝達技術的にはクオリティの高いものだった。
が、彼女もまた無意識に「夏目漱石になろう」としていて、つまり自分の本来の声より低く落ち着いた音程、かつ、年齢も上にイメージされるような声になっていた。
それは身体がそうなっているからなのだが、自分でそういう身体つきになってしまっていることを多くの人は自覚していない。

私はチエちゃんに何歳なのかを尋ね、その年齢で読んでみて、とまずお願いした。
それからつぎにかんがえてもらったのは、チエちゃんの実際の年齢は25歳かもしれないが、その身体のなかにいる自分自身の意識としての年齢は何歳なのか、ということだ。

私もそうだが、私たちはしばしば、自分の実年齢より若い年齢を精神的に生きている。
なにをやるかによってもそれは変化するが、なにか表現しようとするとき、たとえば私の場合、14歳くらいの少年にかえってしまうことがある。
あるいは20歳くらいの青年とか。
実際には56歳なのであるが(これはいわなくてもいいか)。

チエちゃんの場合、19歳くらいの自分でやりたいということになり、それで読んでもらった。
読みがまったく変わり、イキイキとした若い女性の姿、つまりチエちゃんが真に生きている姿がそこに立ちあらわれてきた。
とくに驚くことではない。
なぜなら、チエちゃんは自分の真年齢を思いだすことで、身体性を変化させたのであって、その結果出てくる声や表現も変わっただけのことだからだ。

筆者になろうとするだけでなく、小説の登場人物になろうとしたり、あるいは作品全体のイメージがかもしだす古色蒼然とした身体性になってしまったり、朗読者はいろいろなことをしてしまう。
自分がなにをしてしまっているのか、この身体性の変化がどこからもたらされたものなのか、注意深く観察し気づいていけることがのぞましい。

2013年5月12日日曜日

基礎講座、養成講座、演出ゼミ、テキスト表現ゼミ

昨日から現代朗読基礎講座が始まった。
毎週土曜日に開催され、全6回で完結。
今回はゼミ生もふくめてたくさん参加者がいて、かなりにぎやか。
おおぜいでの群読エチュードができるので、おもしろくなりそうだ。

昨日の初日は、現代朗読とはなにか、表現とはなにか、といった基礎の基本のところから解きおこしてレクチャーしたあと、呼吸法やストレッチ、そしてエチュードをやってみた。
みなさん熱心に食いついてくれて、私もやりがいがあった。

午後はオーディオブックリーダー養成講座を受講していた人の最終収録実習。
残念ながら忙しくてまったくゼミに参加できなかったとのことで、初日しか参加していない。
そのせいで、読みもマイク収録技術も進歩がなく、私も残念だったが、ご本人も残念だったことだろう。
養成講座は初日のレクチャーだけでなく、その後の1か月間をどれだけトレーニングを積めるかにかかっている。

午後4時から演出ゼミ。
表現と思想の歴史、自我、意識、オリジナリティの問題を現代朗読ではどのように扱うかという、どっぷりとディープなレクチャーをたっぷりさせてもらった。

夜はテキスト表現ゼミ。
少人数だったので、こまかいところをじっくりとやってみた。
ストーリーを過去形で語ることと現在形で語ることの違い、とか。
それにしても、奥田くんは表現力が安定してきてたのもしい。
昔から「うまい」人ではあったが、それだけではなくオリジナリティもしっかりと出せるようになってきた。

アボカドと豆腐と豚バラ肉の丼

残り物料理。
ちょうど熟したアボカドと、賞味期限のある豆腐、中途半端に残ってしまった豚バラ肉、昨日炊いたご飯の残りがあったので、適当にアレンジして丼ものにしてみたら、これが意外にいけたので紹介したい。

【材料】二人分
・アボカド……1個
・豆腐……1パック
・豚バラ肉……100グラムくらい(適当)
・ご飯
・レモン……半分
・サラダ油、塩、胡椒、醤油、みりん

アボカドは半分に割って種を取り、果肉をスプーンで一口大にくり抜く。
豆腐は指で一口大にちぎっておく。
フライパンを中火にかけ、サラダ油(大さじ1)を熱し、食べやすい大きさに切った豚バラ肉を軽く塩と胡椒をふって炒める。
みりん(大さじ1)、醤油(大さじ3)を加え、バラ肉に味をつけながらついでにタレも作る。
肉に火がとおり、みりんと醤油が煮切れたら、アボカドと豆腐をそこに投入し、ざっくりと混ぜ合わせてすぐに火を止める。

暖めたご飯を器に入れ、フライパンの具を上に盛る。
くし形にカットしたレモンを添えて完成。
そのまま食べてもいいし、レモンをしぼるとさっぱりした感じになって箸がすすむ。

2013年5月11日土曜日

「槐多朗読」が近づいてきた

今月22日に明大前のブックカフェ〈槐多〉でおこなう「槐多朗読」も、今回で「Vol.7」となった。
本当は「Vol.7」を2月22日におこなった「沈黙の朗読――初恋」としてもよかったのだが、こちらは〈槐多〉の上の〈キッド・アイラック・アート・ホール〉が会場だったので、おなじ「沈黙の朗読」のシリーズではあるが、別のものとして勘定することにした。
ま、あまりこだわる必要もないことだが。

「槐多朗読」のは2011年11月が初回だった。
その後2012年2月、4月、6月、9月、11月と、日数の短い月におこなってきた。
今年は「初恋」があったので、すこし間をあけて5月にやることになった。

ブックカフェ〈槐多〉の槐多とは、夭折の画家・村山槐多のことで、最後は悲劇的に死を迎え生前にむくわれることのなかった人だが、画業も文筆業績も荒削りながら天才の輝きがあり、魅力的な作家である。
キッド・アイラック・アート・ホールのオーナーである作家の窪島誠一郎氏が槐多を愛しておられるらしく、このブックカフェを作られたのだと思う。

「槐多朗読」は私の演奏と現代朗読の野々宮卯妙のコンビでずっとやってきた。
槐多にはピアノがないので、楽器は持ちこみだ。
Macとシンセとミキサー、アンプスピーカーを持ちこんで演奏する。

22日のテキストは私の「子どものころの七つの話」と槐多の詩を使う予定だ。
「子どものころの……」は先月おこなった現代朗読公演「キッズ・イン・ザ・ダーク ~ 春の宴」のために書きおろしたものだが、今回は野々宮ひとりに朗読してもらう。
実体験をベースにした変な話ばかり詰めこんだ作品で、ご好評をいただいている。

狭い店なので定員にかぎりがあるため、興味がある方はどうぞ早めにご予約ください。
詳細はこちら

2013年5月10日金曜日

カルチャー分野は女性が元気

昔からげろきょ、こと現代朗読協会にやってくるのはだんぜん女性が多い。
「昔」というと漠然としているが、げろきょのNPO法人認可は2006年だし、その前からすでに活動は始まっていた。
げろきょの母体である朗読研究会は2000年ごろから活動していたので、かれこれ13年くらいの印象ということになる。
ずっと一貫して、女性の参加者が多かった。

男性がいないのか、というとそういうわけではない。
いるが、割合でいうとかなり少ない。
現在も1割以上2割未満というところか。
ずっとこんな具合だった。

げろきょの特徴として、年齢層がまちまちというのは、昔もいまも変わらない。
10代(いまはたまたまいない)から70代後半まで、さまざまだ。
いずれも女性が元気だ。

朗読という表現活動特有の現象かとも思ったが、そうでもないようだ。
演劇にしても音楽にしても、さまざまないわゆる文化的な活動においては、どこも圧倒的に女性のほうが多いようだ。
男性はなにをしているのか。

仕事一辺倒、あるいは仕事が終わったら家に遅く帰りついて、文化活動どころではないという人も多いだろう。
単身生活者の場合はゲーセンに行ったり、引きこもってパソコンに向かってたり、せいぜい仲間と飲みに行ったり。
文化活動に積極的な男性を見ることはとても少ない。

それでもいないことはない。
げんにげろきょにも何人か、ゼミ生として継続的に参加している人がいる。
この男性たちを見ていると気づくことがある。
それは、私もふくめて、いわゆる「おばさんっぽい」ことだ。

誤解を招く表現かもしれないが、私が思う「おばさんっぽい」とは、たとえば人と交わったり、会話をしたり、いっしょに食事したり、といったことが好き。
あまりものごとにこだわりを持っていなくて、自分の意見を押しつけたり押しとおすことがない。
人の話もよく聞くし、興味のあることにはなんでも遠慮なく首をつっこむ。
自分のやりかたより人に教えてもらったやりかたのほうがいいと思ったら、ためらわずそっちに乗りかえて柔軟に楽しむ。

げろきょに来る男性でも、思考がカタくて柔軟性がない人は、長続きしない。
いや、これは女性にもいえることかもしれない。
男性的な思考法を持っている女性もたまにいて、そういう人はたしかに長続きしない。
ただし、そういう女性は割合として少ない。
では「男性的な思考法」とはどういうものなのか、といわれるとひとことで厳密に規定するのはなかなかむずかしいし、書きはじめると本が一冊書けるくらいだろうと思うのでここでは割愛するが、ニュアンスは理解してもらえるかもしれない。

ともかく、いまの世の中、やたらと女性が元気で、それはとてもいいことだと私は思っていて、政治システムにしても経済システムにしても社会システムにしても男性中心に動いているものがどんどん悪くなっていくなかで、唯一希望が持てる側面のような気がする。
女性にはもっともっと元気になってもらいたい。
ついでにいえば、男性ももっともっとおばさん化して柔軟になればいいのだ。

2013年5月9日木曜日

げろきょゼミとミズキランチの一日

今日はミズキランチを昼に提供するため、朝から仕込み。
圧力鍋を使った簡単煮豚を作るために、家で仕込んでから、羽根木の家に行く。

午前中は朝ゼミ。
初参加がふたり。
ひとりは新ゼミ生、もうひとりはオーディオブックリーダー養成講座の受講生。
なんだかひさしぶりの通常ゼミで、ひとり読みと、後半は朗読エチュードを新ゼミ生のリクエストでおこなった。

昼はワンコイン・ミズキランチを提供。
今日の献立はキャベツの千切りとミニトマトをそえた煮豚、ジャガイモとワカメの味噌汁、玄米入りご飯。
お膳でいただく。

午後は昼ゼミ。
途中で『世田谷ライフ』というムック本の取材がやってくる。
現代朗読について説明したあと、記者の女性に加わってもらって朗読エチュードをやる。
『吾輩は猫である』を使ったお経朗読。
ゼミ生にも、最近参加したばかりでお経朗読をやったことがないという人がいたので、ちょうどよかった。
お経朗読のエチュードは現代朗読にとってはかなり重要な位置づけとなっている。

唐ちゃんから誕生祝いのかわいい花束をいただいた。
うれしい。

夜ゼミ。
読みたいものをひとりずつ読んでもらう。
ひさしぶりにゆっくりとひとり読みを聴かせてもらったような気がする。

あさって土曜日からは基礎講座6回シリーズがスタートする。
今回は参加者がかなり多い。

2013年5月8日水曜日

だれかに会うとき私が見ているもの

photo credit: erin leigh mcconnell via photopincc

よく、
「だれかに会う(話す)ときはきちんと相手の眼を見なさい」
といわれる。
共感的コミュニケーションでは相手の眼「だけ」を見て話すことは推奨していない。

私の場合、だれかと会ったり話したりするときは、相手の眼も見るけれど、それ以外の部分もまんべんなく見る。
相手全体を見るといってもいいだろう。
相手の姿勢、呼吸、筋肉の緊張や弛緩の様子、声の調子、目線の動き、表情、そういったものをまんべんなく見る。
眼をこらして見るというより、遠方をながめるような視線でなんとなく全体をとらえるように見る。

肩が緊張していたりいなかったり、首がすくんでいたりいなかったり、呼吸が浅かったり深かったり、目線がキョロキョロしていたり落ち着いていたり、表情が明るかったり暗かったりよく動いたり動かなかったり、骨盤が立っていたり寝ていたり、背中がそっていたり丸まっていたり。
それらがたえず変化していたりいなかったり。
話しているあいだにも、変化が起こる。
初対面でも相手の身体全体からそうとうたくさんの情報は伝わってくるし、時間経過のなかでさらに膨大な情報がこちらにはいってくる。
もちろんその逆のことも起こっている。

共感的コミュニケーションをこころがけて話していると、緊張していた相手がしだいにリラックスし、やがては自分の大切にしていることについて話してくれることがある。
そういうとき、相手の身体の筋肉の緊張がとれ、呼吸が深くなるのがわかる。
相手がそうなったとき、はじめて、私も自分のことを相手に伝えることができる。

いくら話しても自分のことを伝えてくれない人もいる。
こちらのスキル不足ももちろんあるが、極端に怖れていたり、依存体質であったり、あるいは病気の領域までこころを病んでいる人はむずかしい。
そういう人には、もし可能なら継続的に音読療法を受けてもらいたいと思うが、病院に行ってくださいというしかない人もなかにはいる。

しかし、たいていの人は、こちらがその人の大切にしているもののことを聞こうという興味をもって接するとき、つまり相手の全体を見ながらそのなかにある価値を見ようとするとき、やがてこちらにこころを開いていってくれる。
相手が「なにを」いうか、よりも、相手が「どのように」いうか、を見るのだ。
相手が伝えようとしている「内容/情報」より、その伝え方を見るほうが、相手とのつながりを作るのに役立つ。

2013年5月7日火曜日

ドキュメンタリー映画「原発の町を追われて——避難民・双葉町の記録」

世田谷区内で連続上映会をやっていて、しかしなかなかタイミングが合わず観れてなかったのだが、今夜、三軒茶屋の〈カフェ・オハナ〉で上映するというのでようやく観れた。

製作者の堀切さとみさんは埼玉在住の給食調理の仕事をされている方で、映画製作のプロではない。
ホームビデオを持って双葉町から避難してきた町民のなかにはいりこみ、家族のようにコミュニケーションを取りながらこの映画を作った。
いわば内部の視線だ。
騒がしい避難所で町民の声をとるためか、異様に肉迫した画角があったりして、それがリアリティを増している。
きれいで整えられた画面では伝えられないことが伝わってくる。

映画のなかでは習字の先生の言葉が印象的だった。
「避難所で書いているなんて思って書いている人はひとりもいませんよ。みんな、懸命に書いている。先生にほめられたくて一生懸命前を向いて書いているんですよ」
ご自分の役割について確信しておられる力強い言葉だ。
それを聞きながら、堀切さんもまたなにかを確信しながらこの映画を撮りつづけてきたのだろう、と思った。

その堀切さとみさんが、遠方からわざわざ駆けつけてきてくれた。
製作者から直接話を聞けたのはうれしかった。
とくに、私も身におぼえがあることだが、なにかを作り発信する者にたいするさまざまな風当たりについて、実際に作ったものにしかわからない話を聞けたのが刺激的だった。
そして福島とおなじ原発立地の福井県出身者として、そして原発事故を扱った長編小説『原発破壊』を書いた者として、あらためてかんがえさせられることが多かった。
人間とはなにか、日本人とはなにか、生活者とはなにか。
さまざまな矛盾のなかで、これから私たちはどう生き、どう発言し、どのようにものを作っていけばいいのか。

原発事故が引きおこした様相は単純なものではない。
そのことを多くの人に知ってもらいたい、この映画をひとりでも多くの人に観てもらいたい、と思った。
このような現状がなおつづいているいま、再稼働だの、諸外国に原発を輸出するだの、とてもまともな神経ではありえないという実感を持つのだが、この映画を観た方々はどうなのだろう。

げろきょはかつて「怪しい」と思われていた(らしい)

数年前まで、人によってはごく最近まで、現代朗読協会は「怪しい」と思われていたらしい。
「怪しい」の意味にもいろいろあるだろうが、もっとも多いのは「怪しい宗教団体ではないか」というものだった。
ほかにも「怪しげな内輪受けのコミュニティではないか」「怪しげな理論を振りかざしている根拠のない集団ではないか」「怪しいスピリチュアルなグループではないか」「お金もうけ目当ての怪しいグループではないか」といったものがあったようだ。

実際に体験講座に来たり、ゼミ生になった人から直接聞いたので、まちがいない。
またゼミ生のなかには家族や友人から「あんな怪しいところにまだ行ってるの」といわれていた人も、最近までいた。
こういう印象を払拭したいがために私がこれまで努力をしつづけてきたのは、とにかく「情報開示する」「情報発信する」ということだった。

ご存知のように、しつこいくらい私は現代朗読についてブログやSNSで書きつづけ、かんがえていること、ゼミや講座の内容を公開してきた。
また、可能なかぎり音声や映像でもライブや公演の模様を配信してきた。
検索してもらえればわかると思うが、膨大な量のテキスト、音声、映像が公開されているはずだ。
また、ネットライブも積極的におこなってきたし、ゼミはいつでも見学歓迎だし、遠方の方にはネット経由で参加できるようにもしている。

おかげで最近ではげろきょを怪しい団体だと思う人は少なくなり、逆にいろいろな方から注目されるようになってきている。
ありがたいかぎりだ。
5月5日の名古屋のワークショップでも、まったくげろきょのことを知らない人がネット検索で情報にたどりつき、ためらうことなく申し込んで参加してくれた。

これまで私は、げろきょについて書くとき、ついつい「こんなことを書いたら怪しいと思われないだろうか」という意識がかすかにあったかもしれないが、今後はそういうバイアスは払拭したい。
堂々と自分が信じるところを書き、自分たちがやっていることをまっすぐに開示していきたい。

2013年5月6日月曜日

げろきょの公演は時間どおりに開演する

現代朗読の公演はいつも定刻に開演する。
19時半開場、20時開演と告知してあれば、20時になったらきっちりとスタートする。
予約者が何人かまだ来ていない、という理由で開演を遅らせるようなことはめったにない。
それぞれ都合をつけて時間どおり、開演に間に合うように来てくれた方々を尊重したいからだ。

人の公演やライブで、
「予約の方がまだ○人来られてませんので、開演を15分遅らせていただきます」
などとアナウンスされることがある。
そんなとき、私はなんとなく自分が大切にされていないように感じてちょっと残念な気持ちになる。
そういうときは、主催者側にもなにか大切にしているものがあって私とはちがうかんがえなんだろうな、と推測してみる。

私の個人的な価値観だが、時間をとても大切にしたい気持ちがある。
待ち合わせの約束が20時というなら、たとえば電車で行く場合、遅延で2、3本遅れてもいいように、その分余裕を見て出発する。
なに、30分早く着いてもちっとも損ではない。
30分の時間を有意義にすごすための用意はいつもある。
本を読んだり、マインドフルネスの練習をしたり、なにか書いたり。
家にいるときの30分より、そうやって人を待つ30分のほうがよほど有意義にすごせたり、思いがけないアイディアが出てきて、かえって得をすることもある。

もちろん人間なのだから、遅刻してくる人もいるし、私も100パーセント遅れないわけではない。
それについてはだれも責めるつもりはない。
しかし、自分たちの公演の開演時間はなるべく守りたい。

5月22日の沈黙の朗読「槐多朗読」第七弾は、20時開演です。
詳細はこちら

サラサラつるつると読んでしまう

現代朗読の体験講座や基礎講座にやってくる人は、朗読にかんして悩みを持っていることがある。
内容はさまざまで、滑舌がよくない、なまりが取れない、声がとおらない、本番でアガってしまう、などといったものだ。
なかに「サラサラつるつると読んでしまう」という悩みの人がいた。
ゆっくりじっくり、落ち着いた感じで読もうとするのに、ついついサラサラと軽く早口になってしまって、伝わらない読みになってしまう、というのだ。

これらのいずれの悩みも、現代朗読では「身体性」を意識することですべて解決の糸口を示すことができる。
これらは身体の使い方の問題だからだ。
「サラサラと読んでしまう」というのも、そういう「癖」をその人が持っているからだ。
「癖」とは「自分がそのようにしているということを自覚していないふるまい」のことで、自覚できればそれはいつでもやめることができる。
まずは客観的に自分自身を観察し、癖を自覚することが肝要だ。


私たちは文章をみると、それをついつい「効率的」に消費しようという癖がある。

幼いころから本は「速く読む」のがよい、知識をすばやく身につけるのがよい、効率よく情報を伝達するのがよい、という教育観のなかですべての人が育ってきている。
「速読術」がもてはやされているのはその代表例だろう。

文章を見ると、それを効率よく読み、声に出して読むときもすばやく読もうとする。
そのとき、働いている意識は、文章の内容や意味をすばやく理解し、伝達しようというものだ。
しかし、朗読表現という行為は、文章の内容や意味をすばやく理解し伝達するためのものではない。
朗読表現とは、ある文章を読むことによって自分自身を伝える行為である。
聴き手にはその文章の内容を伝えるのではなく、その文章をどのように読んでいるのかその読み手自身の感触を伝えるのだ。

文章を読んでいる自分自身を伝えるためには、文章を読んでいる自分自身の「いまここ」の身体性をしっかりと意識しておきたい。
いまここの、自分自身の、座っている足の裏の感触、膝の曲がり具合、股関節のゆるみ具合、座骨が椅子の座面にあたっている感触、体重、骨盤の角度、脊椎が立っている様子、頭が脊椎のてっぺんに乗っている様子、そして呼吸、そういったことを意識する。
それだけで読みは変化していく。

文章を意味だけで読むのではなく、音として自分の身体を通して相手に伝える。
自分の身体から出てくる音を意識できたとき、サラサラつるつると読んでしまうという「癖」は自然に消えているだろう。

劇団クセックの公演と名古屋現代朗読ワークショップ

一昨日の5月4日、東京から名古屋に移動。
午後に楽日を迎える劇団クセックの連休公演「オルメドの騎士」を観に、愛知芸術劇場に行った。
毎年の恒例となっていて、例年だとげろきょの仲間何人かといっしょに丸さんの車で日帰り(強行)ツアーをやるのだが、今年はメンバーがうまくそろわなくて単身での名古屋行きとなった。

いつもの芸術劇場小ホールでおこなわれた公演は、やはりクセックそのものであり、とくに今回はコロスに濃縮された「絵画」の連続だった。
クセックはよく「動く絵画」と評されることがあるけれど、今回も眼を楽しませてもらえるものだった。
ひとこまひとこまが「絵」であり、本質な意味で演劇そのものであった。
まるでギリシャ古典劇を思わせるところもあった。

夜は劇団員や関係者たちの打ち上げに参加させてもらった。


昨日は午前中から栄のナディアパーク・ビジネスタワーの19階の、クセックが稽古場にしていた事務所の空きスペースを借りて、現代朗読のワークショップをおこなった。
クセックの創立者のひとりの宮川さんの会社が借りていたスペースで、移転したのをきっかけにクセックの稽古場としてしばらく提供していたのだが、ちょうどそこがまだあいていたので借りることができたのだ。
名古屋のどまんなかの高層ビルの19階は、眺めもすばらしく、広々としていて、ワークショップ会場としては充分すぎるほどだ。

当日になって参加予定のおふたりが体調不良でキャンセルされたが、位里ちゃんが臨時に参加してくれたり、ナオスケさんやコギソさんが手伝ってくれたりと、10人近いメンバーになった。
午前中は現代朗読についてのレクチャーから始まって、基本的な呼吸・姿勢などの朗読身体の考え方、トレーニング法などを伝え、現代朗読のエチュードへと徐々にはいっていった。

昼は近くの松坂屋の地下に行って弁当を買ってきて、会場でみんなといっしょに食べる。

午後はエチュードをやりこんでいって、みなさんの言語・身体処理能力と感受性をどんどん高めていってもらった。

午後3時半、終了。
そのままほぼ全員で近くの居酒屋に行って飲み会。
名古屋のワークショップを継続してほしいと参加者からいわれたのはうれしかったが、経費的に継続は現時点で難しいと判断せざるをえないのが残念だ。

昨日はそのまま名古屋泊。
今日は昼ごろに名古屋を出て、午後東京にもどる予定。

2013年5月4日土曜日

私はなぜ自由に楽しくピアノを弾けるのか

私がピアノをピアノ教師について習っていたのは、小学三年から六年までの四年間だ。
もともと器用な人間なので、楽器の習得は早く、また母親が熱心にくっついて練習の面倒を見てくれたので、六年生の頃にはソナタ全集を弾くくらいにはなっていた。
が、そこで嫌になってしまったのだ。
上達するためにはつまらない反復練習や練習曲を毎日、一定時間やらなければならない、というのが当時のピアノ教育だったので(いまでもそうかもしれない)、だれだっていやになる。
とくに私の子どものころは、ピアノを習っている男の子はとても少なく、六年生くらいになると自分が女の子に混じって、しかもそこそこ弾けるので発表会などでもけっこう目立つ位置にいることが、逆に気恥ずかしくなってしまった。

私は両親とかけあって、なんとか中学校にはいる前にピアノの稽古をやめさせてもらった。
もう明日からピアノの練習をしなくてすむ、となったときの開放感は、いまでもはっきりとおぼえている。
で、そのままピアノをやめてしまわなかったのはどういうわけだろう、とかんがえている。

幼いころピアノを習っていて、でも途中でやめてしまって、それっきりいまだに弾いていないし、まったく弾けなくなってしまった、という人の話をたくさん聞く。
なかには私よりはるかに長期間習っていたとか、高校生くらいまで習っていたといった人もいて、そういう人がいままったく弾けなくなってしまっているというのは、ちょっとびっくりする。
そういう人と、いま自由に即興演奏を楽しんでいる私とのちがいはなんだろう。

中学生になって私はピアノを習うのをやめたけれど、音楽を嫌いになったわけではない。
むしろだんだんいろいろな音楽を聴くようになって、音楽のおもしろさがわかるようになっていった。
最初はクラシック音楽、それから当時盛んになっていたフォークソング、ポップス、ロック。
ロックやフォークは上級生で詳しい者がいて、レコードを貸してもらったりしたが、ほとんどの情報源はNHKのFMラジオだった。
田舎なので民放ラジオの電波がほとんどはいらなかったのも幸い(?)したのかもしれない。
テープレコーダーが普及しはじめていて、ラジオ番組を録音して繰り返し聴いたりした。
それを当時は「エアチェック」などと呼んでいた。

いまは亡き小泉文雄さんの「世界の民族音楽」という番組もおもしろかったし、週に1回しかなかったジャズ番組にも夢中になった。
聴いたことのない音楽が新鮮で、飛びつき、繰り返し聴いた。
それがいまの私の音楽的糧になっていることはまちがいない。
とくにジャズ番組には刺激を受けた。

私が中学生から高校生くらいというと、1970年代なかばで、ウェザー・リポート、リターン・トゥ・フォエバー、ヘッド・ハンターズといったフュージョンバンド(当時はクロスオーバーと呼んでいた)が台頭しはじめたころだ。
日本でもネイティブ・サンといったグループや、ナベサダもフュージョンをやったり、いまもカルメン・マキさんと共演したりして活躍している板橋文雄さんがまだ20歳前後でエレクトリックピアノとワウワウイフェクターを駆使して演奏したりしていた。
それは後に、日本のたくさんのフュージョングループ、たとえばカシオペアとかスクエアにつながっていく。
そういった演奏を、私は勝手にまねして、ピアノでひとり遊んでいた。
さかのぼってバップジャズやスイングあたりのまねも楽しんでいた。

この「遊んでいた」というところにポイントがあるような気がする。
だれからも強制されることなく、まただれかと競争することなく、ただ自分が楽しくて、おもしろくて真似したり勝手に曲を作ったりして遊んでいた。
毎日ピアノを弾いていたような気がする。

その後、自主的にジャズについて本格的に勉強したり、音楽全般についての知識を広めるようになるのだが、あくまでもそれは楽しいからだった。
それはいまでもつづいている。
いまはジャズとかクラシックといったジャンルの区別もなく、ただ好きなように弾き、その音を使ってミュージシャンはもちろん、朗読やダンス、美術の人たちとも会話を楽しんでいるのだ。
遊びでしか人は真に成長しない。

2013年5月3日金曜日

映画「裏切りのサーカス」

原作はジョン・ル・カレの小説『ティンカー、テイラー、ソルジャー、スパイ』。
ル・カレはいまでは大好きな小説家だが、最初に読んだときには本当にてこずった。
文体やらストーリーやら人物描写が、非常に緻密であるにもかかわらずわかりにくい。
ル・カレの「もののいいかた」があって、それにどっぷりひたって慣れないとそのおもしろさがわからないようなところがある。

この映画もそうだ。
原作を読んだことのない人がいきなり観ると、なにがなんだかさっぱりわからないのではないだろうか。
私は原作を読んだことがあるのに、わからないシーンがたくさんあった。
で、観終わってから頭にもどってもう一度見直したら、伏線やら意味のあるシーンやら、やたらと緻密に作られていて、コテコテの映像なのだ。

最近映画を観る人は、「伏線」というものがもうわからない、という話を聞いたことがある。
15分前のことはもう記憶にないのだという。
ストーリーをただ瞬間瞬間追っていくだけで、映画の作り手もそのように作らざるをえなくなっている、というようなことをいっている人がいた。
そういうことの真逆の映画で、観客に注意力、観察力、知性を要求される。

ともあれ「わかる/わからない」という次元を捨てて、映画という表現の手触りそのものを楽しむことができる作品だろう。
緻密に作られた画面は、それをなめるように楽しむときに快楽がある。

主人公スマイリー役のゲイリー・オールドマンもよかったが、私としてはコントロール役のジョン・ハートの老いぼれた演技もよかった。
音楽のアルベルト・イグレシアスもいい仕事をしていると思う。


ピアノと朗読

体験講座など、初めて現代朗読を学びにやってきた人に、講師の私が、
「私は朗読をやりません」
というと、たいていとまどった顔になる。
前回の体験講座でもそうだった。
びっくりしたような、一体どういうことなのととまどいに満ちた表情を浮かべる。

これについては、私は朗読家としてお手本を示すのではなく(朗読家じゃないし)、演出という立場からひとりひとりのオリジナリティを引き出し、よりクオリティの高い表現ができるようになるお手伝いをするんですよ、ということをいつもいうし、これについてはすでに書いたこともある。
なのであらためてくどくどと書くことはしない。

たしかに私は朗読はやらないが、げろきょのみんなといっしょにステージには立つ。
立つというより、正確にはピアノを弾くんだから座るといったほうがいいかもしれない。
みんながステージで朗読をするとき、私はたいていおなじステージ上でピアノを弾いている。
まあこれがげろきょのパフォーマンスのスタイルとして定着している観がある(それにこだわっているわけではないよ)。

ライブが終わってから、ピアノ演奏は即興ですよ、とお客さんに教えると、これまたびっくりされることが多い。
しかし本当なのだ。
演目によってはだいたいの曲の雰囲気やきっかけが決まっていることもあれば、まったくなにも決まっていないこともある。
私は朗読者の声、言葉、リズム、身体の動き、感情表現、作品のイメージ、観客の反応、そういったものをすべて受け取り、それに「反応していく」という形で即興的にピアノを弾く。

じつをいうと、これはあまり大きな声でいったことはないのだが、もうひとつ別のこともやっている。
それは「音でしかける」ということだ。
ピアノ演奏で雰囲気を作り、盛り上げたり、あるいはステージ全体を鎮静させたり、つまり演出的なしかけを演奏でおこなっているのだ。
げろきょのステージは演出家がおなじステージにいて、リアルタイムに演出指示を出しているようなものといえないことはない。

とはいえ、朗読者をコマのように扱っているわけではない。
共演者としておたがいに尊重しあい、刺激しあい、おもしろがりあいながら、イキイキとその瞬間を表現している。

音楽演奏には「舞台装置」としての側面もある。
いったん音楽が流れると、そこにはある種の空気感が生まれる。
ときには風景が見えたりもする。
風が吹いたり、鳥がさえずったり、夜が来たり、雨が降ったり、街になったり、山に行ったりできる。
こういった「生きた音楽装置」のなかで朗読してもらうというのも、げろきょの特徴のひとつかもしれない。

私のような朗読演奏家がほかにも出てくるといいと思うのに、なかなかそういうものを「教えてくれ」といってくる人がいないのは、ちょっとさびしい気もする。

2013年5月2日木曜日

生き悩んでいる人に音読療法を

私も過去には経験があるのだが、自分がいまこのような不遇をかこっているのは世間のせいだ、人間関係がうまくいかないのはまわりが悪いからだ、これからどうやって生きていけばいいのかわからない、など、いつもイライラしたり不機嫌になりがちの人がいる。
自分の経験に照らしあわせて、これらはいずれも、なにか気にいらないことの原因を人のせいにしたり、自分の過去の失敗をいつまでも引きずっていたり、まだ起こってもいないことをくよくよと思い悩んだり、といった、いわゆる「マインドレス」の状態のときに起こる。

私は現在もさまざまな問題を抱えていて、けっして順風満帆というわけではないが、それでも日々機嫌よくさまざまな問題を「楽しみながら」こなせるようになったのは、ほんのここ数年のことだ。
私の幸福のキーワードは「マインドフルネス」「呼吸法」「表現」「共感的コミュニケーション」「音読療法」だろう。

さまざまなことが複合的に進んでいたのだが、それらを一気に統合する導火線になったのは、ティク・ナット・ハンの著書との出会いだった。
そこで初めて「マインドフルネス」という概念に出会った。
それを核にして、私がやってきた朗読や音楽、テキストなど「表現」についての統一的見解がまとまりはじめ、ヨガや武道の知識も取りいれながら、表現行為の身体性について深くかんがえるようになった。
それに加えて、NVCとの出会いという大きなできごともあった。

そんななか、2011年3月に東日本大震災が起こった。
私の知識と経験をフル稼働して、自分にできることをかんがえ、実行に移していった。
その過程で音読療法というすぐれた体系をまとめることができた。
なにより私自身が楽になった。

いまの日本、世界、社会はさまざまに困難な局面に満ちているが、そんななかで自分自身をイキイキと保ち、自分自身の人生を生きていく。
音読療法はそのようなことのお手伝いができると確信している。
宣伝ベタでなかなか広めることができないのだが、なんとか音読療法を多くの人に知ってもらい、イキイキとした毎日を送ることに役立てていただきたいと思う。

次回の2級ボイスセラピスト講座は5月19日(日)開催。
詳細はこちら

あいぶんこ朗読ポッド、始まります

若いころからラジオが好きで、制作サイドにも20代なかばからずっと身を置いてきた。
いま「ラジオ局」という企業体・組織体には関わっていないが、だれでもラジオ番組を作って配信できる時代になっているのでそのことはまったく気にならない。

「RadioU」というネットラジオを不定期に配信していたが、このところしばらくさぼっていた。
それはそれとして、また定期的に番組配信をスタートする準備をすすめている。
「RadioU」ではなく「あいぶんこ朗読ポッド」という番組だ。
平日毎日の無料配信。

内容はあいぶんこオーディオブック(ハイクオリティな朗読作品)の連続配信と、私やその他ゲストによるトーク。
トーク内容は朗読にまつわることもあれば、日々私が思うところを伝えることもあるかもしれない。
たぶんそれも「表現」にかんする内容になるだろう。
また、私が関わっているアイ文庫、現代朗読協会、音読療法についてのイベントや講座についての情報や案内なども、この番組に集約したいと思っている。
ツイッターラジオというか、ブログラジオというか、そういうものですね。

ボイスブログ配信サービスの「ケロログ」を利用しての毎日配信なので、直接こちらにアクセスして聴いてもらってもかまわないが、RSSをiTunesなどに登録しておくと自動的に受信できるので便利だ。
iTunesを立ちあげ、ファイルメニューから「Podcastを登録」を選ぶ。
現れる入力窓に「http://www.voiceblog.jp/ibunko/rss2.0.xml」をペーストするだけ。
あとは毎日、iTunesを立ちあげれば自動的に更新された番組がダウンロードされる。
iPodやiPhone、iPadなどと同期設定をしておけば、自動的に転送されて、持ち歩いたり、通勤途中や出先でも聴けるようになる。
ほかにもRSSを利用する方法はあると思うので、検索してみてほしい。

間もなく配信スタートなので、ラジオ番組や朗読を聴くのが好きな方は登録してみてください。

2013年5月1日水曜日

意味をなぞる朗読はなぜ伝わらないのか

現代朗読では「読み手がその読み方をテキストに指示される/縛られる」ということを注意深く排除している。
その理由について、以下にのべたい。

テキストだけでなく、「作者」やある特定の「作品」に「読まされる」「縛られる」こともある。
これを現代朗読ではややユーモラスに「羅生門の呪縛」と呼んでいる。
どんな人でも芥川龍之介の『羅生門』という小説を朗読しようとするとき、その脳裏には雨がじとじと降りしきる陰鬱で荒廃した印象の羅生門のイメージが浮かび、そのイメージにとらわれたまま陰鬱な調子で読もうとする。
これはほとんど朗読経験のない人ですらそうなる。
ましてや、朗読経験が豊富な人はまったくその呪縛のなかにあることがほとんどといっていい。

ここでちょっとかんがえてみたいのだが、いったいあなたはだれから「そのように読まねばならない」と命じられているのだろうか。
『羅生門』だろうが『桃太郎』だろうが『ごんぎつね』だろうが、あるいは『金太の冒険』であろうが、読み手はあなたなのだから、あなたの好きなように読めばいいのだ。
それがなぜか、「このように読まねばならない」という呪縛にだれしもがおちいってしまう。
この呪縛はだれあろう、あなた自身がそうしているのだ。
つまり、自分で自分にそのように読まねばならないと命じてしまっている結果、無限に自由な世界に背をむけてしまっている。

「大きな木が丘の上に立っています」という文章を読むとき、あなたの脳裏にはその風景が反射的に浮かび、そのイメージをなぞって読もうとしてしまう。
「おお~きな木が……」と、まるでその木の大きさを手で示すときのように、声でなぞって示そうとする。
そのとき聴き手に伝わるのは、大きな木のイメージであるどころか、大きな木をなぞって表現しようとしている「イメージの説明に縛られたあなたの(声の)動作」である。
現代朗読でもっとも伝えたいこと、つまりあなた自身の身体性や存在はその背後に隠れ、伝わることが阻害される。

意味やイメージをなぞることをやめてみるとどうなるか。
「大きな木」という意味は当然相手に伝わるのだから、相手のなかには相手なりの「大きな木」のイメージは形づくられるだろう。
そのイメージをこちらからわざわざなぞって指示する必要はない。
大切なのは、あなたがその言葉をどう発音しているか、どのような身体性でもって伝えようとしているのか、ということだ。
それはテキストの持つ意味情報とは別の次元で存在する。
聴き手は言語思考の部分では意味を受け取ってはいないかもしれないが、読み手がどのような人なのか、読み手がテキスト情報以外にどのようなことを伝えようとしているのか、無意識の部分でその膨大なメタ情報を受け取っている。
その次元での情報伝達の精度をあげることが、真の朗読表現者が取り組むにあたいすることではないか、と私はかんがえている。

現代朗読を基礎からじっくりまなべる全6回シリーズのワークショップが来週土曜日から始まる。
興味がある方はこちらをどうぞ。

音声表現のクオリティ

昨日の午前中はオーディオブックリーダーの個人セッション、そして午後はオーディオブックリーダー・矢澤亜希子による収録をおこなった。
このふたつの経験をつうじて感じたことを書きのこしておく。

矢澤亜希子には数年前から新美南吉のあまり知られていない短編をいくつか読んでもらっていて、今回もメジャーな作品ではないけれど私の好きな「一年生たちとひよめ」とか「ゲタニバケル」「ウサギ」などを収録した。
収録前には個別演出をさせてもらったが、それはあくまで私のイメージや解釈を押しつけるものではなく、いっしょに「この作品、どう読んだらおもしろいんだろうね」と探る作業だった。
その作業を経ることで結果的に矢澤亜希子がどのような読みをしてくれるかについては、私は基本的にすべて受け入れることにしている。
だってそれは結果的にかならずおもしろいものになるからだ。
その点にかんしては絶対的な自信がある。
矢澤亜希子にたいする信頼であると同時に、私の間接的ではあるが演出力についての自信でもある。
そしてもちろん、昨日もそうなった。

午前中の個人セッションの方も、10年くらい朗読の活動をしてこられて、読みは悪くないのだが、それはあくまで「意味を伝える読み」であって、アイ文庫オーディオブックがめざす「音声表現作品」としてのクオリティとしては及第点をあたえることができないものだった。
そのことを丁寧に説明し、朗読テキストはストーリーとしての意味、センテンスとしての意味、そして文節としての意味がある以前に、音節という「音声単位」の連続で成立していくことの意識を持ってもらいたい、ということを伝えた。
それについてとてもしっかりと受け止めていただき、理解してもらえたと思う。

で、午後、矢澤亜希子の収録をおこなった。
収録はスタジオで彼女が読む声を、マイクとこちら側にあるモニタースピーカーを通してこまかくチェックしながら、おこなっていく。
読み間違いは当然のこと、ノイズや音声のクオリティを厳しくチェックしながらおこなう。
その際気づいたのだが、矢澤亜希子の読みは音節・音素レベルですみずみまで意識が行き届いており、クオリティが高い。
これは経験のある者にしかわからないことだが、たとえばワイン通がクオリティの高いワインを一口飲んですぐそれとわかるように、音声表現も私にはクオリティが高いものはそれが一発でわかる。
彼女の音声表現のクオリティの高さについて、今日、あらためて認識したわけだが、これまでそのことをきちんと受け止めていたのかどうかについては、ちょっと自信がない。

いずれにしても、すばらしい音をプレゼントしてもらった以上、あとは私がそれを大切にして、最高のオーディオブック音源として世に出していく責任があると思っている。
矢澤亜希子にかぎらず、唐ひづる、玻瑠あつこ、KAT、てんトコロ、そして野々宮卯妙といったすばらしい音声表現者の音源を預かっているし、またこれからも収録していきたい。

厳しい世界だが、我々の仲間になりたいという人はいつでも歓迎である。
次回オーディオブックリーダー養成講座は5月28日に開催予定。
詳細はこちら

こちらに参加できない方は個人セッションでも対応します。