2013年7月31日水曜日

TODOリストを短くする

photo credit: juhansonin via photopincc

手帳の「TODO」欄に、やりたいことややる必要があることをリストにして書きだしている人は多いと思う。
私もそうしていて、紙の手帳に書いたり、iPhoneのアプリを使ったりしているのだが、そのリストはほうっておくと日々長くなっていく傾向にある。
皆さんはどうだろうか、私はそうだ。

これが長くないと仕事がなくなるような気がして不安にかられる、という人もまれにいるかもしれない。
カレンダーにびっしり予定が詰まっていないと不安になるのとおなじ心理だろう。
私は逆だ。
TODOリストが長くなってくるとストレスを感じるし、カレンダーはできれば真っ白のほうがいい。
真っ白だと、だれかからなにか誘われたときに(コンサートとか展覧会とか)すぐに「ほいよ」と行けるし、気が向いたときに旅行にだって行ける。
かつてそうなったためしはないが、せめてTODOリストは短くしておきたい。

かつてはTODOリストの各項目に優先順位をつけていた。
台所の流しの掃除をするのと、仕事になるかもしれない企画書を書いてある人に送ることと、どちらが優先順位が上か。
それを決めてから、優先順位の高い(と自分が思いこんだ)順で片づけていった。
なかなかうまくいかなかった。

つぎに、優先順位を決めて書きこむのではなく、共感的コミュニケーションのかんがえかたで「ニーズ」を項目の横に書きこむようにしてみた。
台所の流しの掃除をするのは「清潔のニーズ」があるから、企画書を書いて送るのは「能力発揮、創造性、自立などのニーズ」があるから、という具合だ。
優先順位ではなく、いまこの瞬間、どのニーズを満たしたいのかを自分にたずね、そのことをおこなうことでニーズを満たせる、という喜びでもって行動する。
これはなかなかいい方法だ。
現在もこの方式を取っている。

最近、さらにかんがえを一歩進めようとしている。
自分がリストに書きだしたやりたいこと、やる必要があることは、優先順位が高かろうが低かろうが、あるいはどんなニーズがあろうが、どのみちやることになるのだ、ということだ。
ごちゃごちゃかんがえてないで、やれるものを片っ端から片付けてしまえばいいのではないか。
なにか理由をつけて残しておいたTODOは、そこにあるかぎりずっと私の心に引っかかりつづけているのだ。
そのことが私の行動の質を低下させている可能性はある。

2013年7月30日火曜日

FacebookのTwitter化にひいこら

Facebookのタイムラインがもうまったく追いきれない。
私はFacebookは直接の知り合いを中心に、「つながり」をテーマに利用しているのだが、タイムラインには日々、みなさんのつぶやきや日常スナップ、引用情報が大量に流れていて、とても追いきれるものではない。

私はたあいないつぶやきやブログの元ネタになるような思いつきはツイッターで流していて、気軽さがある。
また、フォローしている知り合いのツイートも気軽に読み流せて、けっこう気にいっている。
ところがFacebookのタイムラインはそれほど気軽な感じではない。
なんだろう、表示方法の問題かな。
みなさん、これだけの知人情報の処理をどうやっておられるのだろう。
よかったら私に教えてください。

というわけで、Facebookでなにか失礼があったとしたら、それは以上のような事情なので、平にご容赦いただきたい。

写真は今日作ったナスのじか煮。
けっこうおいしくできた。
作り方を今度紹介しよう。

「がっかり」ということば

photo credit: {tyn} via photopincc

「がっかりする」あるいは「がっかりされる」ということばがある。
友人や家族など親しい人から「なんだ、がっかりしちゃった」などといわれるととても悲しくなったり、やりきれなくなったり、怒りをおぼえたりすることもある。
どうしてそのような気分になるのだろうか。

私たちはだれかに「期待する」ということがある。
だれかになにか仕事を頼んで、それがうまく成就することを期待する。
しかしそれが期待どおりうまくいかなったとき、がっかりする。
相手にその仕事ができる能力があると期待していたのに、それを裏切られて失望したり、腹が立ったりする。
それを「がっかり」ということばで表現する。

その逆もおなじことだ。
だれかから期待され、それを裏切ってしまったとき、がっかりされる。
「もっとちゃんとやれる人だと思ってたのに、がっかりだわ」
などといわれてしまう。
とても痛くて悲しい。
そしてなんとか相手のがっかりを修復する方法はないだろうか、なにか取り繕うことはできないかとかんがえたり、行動をあせってしまう。
その結果が思わしくないことは、だれもがよく知っていることだろう。

さて、この「がっかり」という言葉にどうやって対処したらいいのだろうか。
がっかりという気持ちが生まれるのは、人に過剰な期待をしていたときだ。
相手の都合はさておき、自分で勝手に相手がこのように行動してくれるとうれしいな、という期待がふくらんでいるとき、それを裏切られてがっかりした気持ちになる。
つまり、相手の行動によって自分の気持ちが左右される、相手に自分の価値を満たすことをあずけてしまっている。
相手の行動に寄りかかっている。
このことを手放さないかぎり、「がっかり」を捨てることはできない。

相手には相手の都合や価値がある。
自分の価値を相手にあずけるのはやめよう。
自分の価値を満たすのは自分にしかできない、としっかりと心得ておこう。

相手から「がっかりした」といわれたときにはどうしたらいいだろうか。
その相手の価値を推測してみよう。
「この人はどんなことを大切にしていたのか。自分が満たせなかったこの人の価値はなんだろう」
と推測してみる。
できればそれを相手に聞いて確かめてみればいい。
「きみはぼくがこの程度の仕事は難なくこなせると思ってぼくを信頼したかったのに、それが裏切られたような気がしてがっかりしているのかな?」

相手はどう答えるだろうか。
相手は自分がなぜがっかりしたのか、自分の心のなかを見てみるだろう。
と同時に、自分の価値に興味を持ってもらえた、あなたがそのことを聴こうという態度を見せていることを、無意識に受け取るだろう。
その2点が、あなたと相手のあいだに、あるつながりの質を作るのだ。
相手のがっかりをどうにかしようとする必要はない。
ただ相手の価値に興味を向け、つながりつづけるだけでよい。

以上のかんがえかたや対人スキルは、共感的コミュニケーションでさらに学ぶことができる。
共感的コミュニケーションは随時勉強会をおこなっているほか、ボイスセラピストの資格取得講座のなかでもしっかりと学び、身につける方法を伝授している。
興味がある方はどうぞ。

8月の1・2級ボイスセラピスト合宿講座
カフェ・オハナで共感的コミュニケーション(三軒茶屋)
8月の共感的コミュニケーション勉強会

2013年7月29日月曜日

山田みぞれがサラヴァ東京「ショーケース」に出演するぞ

もう明日7月30日(火)のことだが、渋谷のライブレストランバー〈サラヴァ東京〉でおこなわれる「ショーケース」というイベントに、げろきょゼミ生の山田みぞれがエントリーした。
私のテキストを読んでくれるというので、ピアノ演奏のサポーターとして私ものこのことついて出ることにした。

ショーケースはサラヴァ東京で月に一回やっているオープンマイクのイベントで、出演しなくてもただ見に来るだけでもいい。
チャージは1000円、ワンドリンク付きと格安。
だれでもふらっと遊びに来れる設定になっているし、場所も文化村の隣というリッチな立地条件。

開演は20時。
どなたも気楽にいらしてくださいませ。
詳細はこちら

2013年7月28日日曜日

疲れ、昼寝、収録実習、GoPro、オンラインテキストゼミ

現代朗読協会の大きなイベントのひとつである「キッズ・イン・ザ・ダーク 〜 夏と私」が昨日終わって、今日はめずらしくすこし疲れが残っている感じがあった。
自分が思っている以上に神経を使ったのかもしれない。
しかし、20分ばかり昼寝したら、それもすっきり解消。
悪くない感じ。
呼吸法、マインドフルネス、共感的コミュニケーション、体認といったことの練習が私の日々をとてもいきいきと生きやすいものにしてくれている。

夕方、オーディオブックリーダー養成講座の個人セッションの方が羽根木の家に来て、収録実習。
収録には MacBook Pro とそれにインストールした Logic というソフトを使うのだが、この Logic が最近 Logic Pro X にバージョンアップした。
それを使っての初めての収録。
インターフェースはそれほど大きく変わっていなくて、前のバージョンからさほど混乱なく移行できてよかった。

収録後、音声をフィードバックしながら、気づいたことを伝える。
かなり微細な技術について、しかしそういった微細な技術がアマチュアとプロとの差異として認識されてしまうことについて伝え、今後どうすればいいのか、アドバイスした。
お役に立てるといいのだが。
今回の方はあまりゼミに出られなかったのが残念だった。
オーディオブックの養成講座は、現代朗読のゼミにたくさん出ることで、大きな成長のきっかけになるはずだからだ。

次回のオーディオブックリーダー養成講座は9月2日の開催。
この日以外の個人セッションも受けつけている。
詳細はこちら

平田くんがわざわざ GoPro の映像データを渡しに来てくれた。
昨日の公演で平田くんに彼自身のGoProというアクティブビデオカメラを装着してもらって、ライブ映像を出演者の目線で記録してもらったのだ。
あらためて見ると、おもしろい。
使える映像満載。
これで今回の公演の映像記録もおもしろいものになるだろう。
平田くん、ありがとう。

自宅にもどり、19時からオンラインテキスト表現ゼミ。
参加者は奥田くんひとりだったが、今日は大切なミッションがあった。
奥田くんは技術については相当いいところに来ていて、そのへんのライトノベル作家と比べてもたぶん数段上のレベル。
そんなものと比べて満足する話ではなく、彼のまぎれもないオリジナルティをどうやって獲得するかについて、私も真剣に向かいあっている。
が、今回はある小説コンテストに応募するための作品書きで、これは広い意味で娯楽小説に属するものなので、娯楽小説に必要な要件について今回の作品に書けている部分をいくつか指摘してみた。
書きなおすといっているので、いい作品になると私もうれしい。

それにしても、楽しくてしかたがない。
私には人を成長させることで自分が幸せになるという強力な傾向があるらしい。

キッズ4「夏と私」終了

2013年7月27日、明大前〈キッド・アイラック・アート・ホール〉にて現代朗読公演「キッズ・イン・ザ・ダーク 〜 夏と私」2公演を開催し、無事に終了した。

午前9時半、羽根木の家に機材運搬組のかっしー、平田くん、菜穂子さんが来てくれる。
「全国タクシー」というアプリを使ってタクシーを呼び(便利だ)、楽器や撮影機材を平田くん、かっしーといっしょに明大前まで運ぶ。

キッド・アイラック・アート・ホールの前には出演者やお手伝いのげろきょの面々がすでに集合していたので、搬入はあっという間に終わる。
会場準備。
といっても、演劇のように装置や大道具はないので、客席を作ったり、楽器や記録用の撮影機材をセッティングするだけ。
ホールにはピアノがないので、私の演奏機材のセッティングが一番手間がかかる仕事だが、これはいつものことだ。

予定どおり、11時から場当たりをかねたリハーサル。
これも順調に進み、12時半には終わってしまう。
その間、ホールの早川くんが照明や音響の調整をひとりで黙々とやってくれていた。
キッド・アイラック・アート・ホールはちょっと小さくて、現代朗読としてはもうすこし広いスペースでやりたいと思うことがあるのだが、早川くんに対する信頼感が大きいためにこのホールを使う安心がある。
なにもいわず黙々とサポートしてくれるが、ほんとうにありがたい。

昼食を近くの〈なか卯〉で。
もどってきて、13時半、開場。
むし暑いなか、お客さんが来てくれる。
今回も例によって集客には苦労したけれど、出演者の知り合いやいつも来てくれる顔なじみの方たちに来てもらえた。
げろきょの知名度がもう少しあれば楽なのかもしれないと思うけれど、我々がやっていることの意味を知ってもらうのは簡単なことではないのかもしれない。
とにかく情報発信しつづけるしかない。

14時、定刻に開演。
演目は中原中也の「夏と私」という短い詩と、私の同名の「夏と私」という音韻を中也の詩にぴったり合わせた詩の2編のみ。
これを手を変え品を変え、繰り返し朗読していく。
それぞれの「ギグ」といっているがひと区切りごとにタイトルがついていて、それをみぞれちゃんがコールして進んでいく方式。

オープニング・ギグにはタイトルはついていないが、「無声音詰め寄り朗読」と呼んでいるもの。
その後「夏と私と中也と水城」「ワルツとチャチャチャ」「水平線と入道雲」「コーチ、水飲んでいいですか?」「オクトパス」「蛍狩り」「椅子取り合戦夏の陣」「夏の夕べのカエルたち」「ナイアガラ」「さざ波」「洞くつ探検」「線香花火」、そしてエンディングという順番でギグが進んでいった。
最後は朗読というより音楽や踊りに近い大盛り上がりで、全員汗だくになって終了。
いつものことだが、初めて見る現代朗読にとまどう人もいるし、またおもしろがってくれる人もいて、いろいろな反応だ。

15時すぎ、1回めが終了。
中休み。
16時半、2回めの開場。
17時、定刻に2回め、開演。
18時すぎ、2回め、終了。
19時には撤収がほぼ終わった。
大変スムーズに進行して助かった。

ふたたびタクシーをアプリで呼んで、機材を羽根木の家に運ぶ。
ほかのみんなは歩いたり、電車の乗ったりして、羽根木の家に移動。
何人かは所要で帰ったが、出演者・スタッフほか20人近くが羽根木の家に来て、打ち上げ。
みんなお腹がすいていたらしく、野々宮が用意していたおかずの皿はすごい勢いで空になっていった。
そしてここでも大盛り上がり。
じつに楽しい、しかもマインドフルな一日で、ずっと幸せを感じていた。

この公演の模様は、近日中に抜粋映像でお送りする予定。
参加できなかった方もお楽しみに。
最後に、来場いただいた方の感想を、アンケート回答から抜粋して紹介します。


◎最初はビックリしたが、一緒に足をふみたくなった。

◎普通の朗読会と思ったら大間違い。見ていて、聴いていて熱くなる。いつの間にか自分も参加しているような会でした。

◎ステージを見るのは初めてだったのですが、とてもスリリングでエキサイティングな時間を過ごすことができました。最初の少し(正直なところ)混乱しましたが、そのからまった糸がだんだんほぐれたり、からまったり、流れが速まったり、遅くなったり、リズムにどんどんひきこまれました。最後に私の心の中に残ったのは「Destiny」でした。人生って最後どうなるかはわからない。「絶頂で終わる」って運命みたいで、「美」を感じました。

◎同じ詩が表現方法によって様々にきこえ、おもしろかったです。「さざなみ」が印象的でした。母の楽しそうな姿が見れて、充実感が伝わってきました。

◎客席ではなく、舞台の床の上に座って、出演者にまみれながらきいてみたくなりました。声に酔う、椅子取りゲームに巻き込まれて怪我を負う、などただではすまなそうですが。声でまだまだ遊べそうな予感がしますね。アイデア出し楽しそうですね。

◎私たちは関西から転居したばかりです。朗読に小さい時から興味があった孫が、最近、このサークルに入れて頂き、初めて見せて頂きました。私共も朗読が好きで、ラジオ等でよく聞いております。本日の公演が非常に新しい試みでびっくり、興味を持ちました。出演者の躍動感を感じました。今後の発展を祈っております。

◎出演している方が、やっていて楽しそうに見えました。

◎皆さんイキイキされていて、ほんと楽しそうでしたね。仲間に入りたい(笑)。言葉というものがモノを伝える手段を超えて、自分のエネルギーを確かめるひとつのリトマス試験紙になっている。なかなかいいパフォーマンスを見せていただきました。

◎何より出演者(朗読されている)の皆さんが、楽しく充実している様子が伝わってきた事が良かったです。

◎ひとつのテキストがかくも各イメージを持って楽しめるものにもなることを知りました。

◎ひとつの詩からいろいろな可能性が引き出され、とても興味深かったです。

◎とても現代風にアレンジされている朗読だったので、とても新鮮さを感じました。みなさんとても生き生きと表現されていて、楽しそうで、こちらも思わず笑顔になりました。今後もご活躍をお祈りしています。

◎とても楽しく参加させていただきました。2篇の詩が、このように、色々な表情をもって表現される事、又、群読・輪読、の色々なバリエーション。ナイアガラ、さざ波……。そのうち水琴窟のような余韻を楽しむようなものもお願いします。

◎ようやく公演を見ることができてよかったです。ワークショップでやったことを本当にそのままやっているんだ、と改めて感銘を受けました。音というか文字が宙に浮いて迫って来る幹事がしました。また見たいです。

◎初めて見る形の朗読で、皆さんがとても生き生きと楽しそうにやってるので、こちらまで楽しかったです。

◎個性的な一人一人が楽しそうに力強く動いているのを観て、私もたくさんエネルザーをもらいました。どうもありがとうございました。

◎素晴らしかったです。人の声がこんなにも人の心に訴えるものがあるとい事、感じました。どれも皆おもしろく楽しかったです。一番好きだったのは「ワルツとチャチャチャ」です。迫力がありました。心を動かされるものがありました。

2013年7月27日土曜日

著作者、表現者、芸術家はどのようにして生活の糧を得るのか

著作権の話のつづき。
著作者が著作権を手放し、自分の作品を社会的共有資産として開放するとき、著作者の製作や生活のための経費はどのようにまかなったらいいのか、という話。

共有資産を生産しつづけている人をその社会が必要とするとき、著作者はそこに生活の場がある。
著作物を対価に変えるのではなく、著作物を生産するその過程そのものを社会に伝えていくという仕事がある。
著作物は共有資産として無償でシェアし、だれもが文化的・芸術的恩恵を受けられるようにする。
一方で、そのような著作者が増え、文化芸術活動が進展していく社会でなければ、その社会は貧しく縮小していくばかりだ。
日本を含む世界の多くの地域が、現在、経済発展をしている一方で文化的貧困に見舞われているように。

貧しくなる、というのは、もちろん物質的な意味ではない。
物質的豊かさで人のしあわせが保証されるものでないことは、いまやだれもが知っている。
そうではなく、人と人のつながりがあり、思いやりや共感があり、子どもやお年寄りや弱者がつらい思いをすることなく生活できて、笑顔の絶えない社会。
だれもが希望を持ち、幸福を実感できる社会。
そういう社会が人間的な意味での豊かな社会ではないだろうか。
それをささえる重要な要素のひとつが文化芸術の豊かさであり、深い想像力と知性を持てる人々の存在だ。

こういう社会のために、どうしても文化芸術の担い手がたくさん必要になる。
それは特別な才能がなくても、だれもがなることができる(この点についてはまた項をあらためなければならない)。
そのために、いま活動している著作者は、社会に自分の活動を開き、思想と表現の方法を伝える場を持ちたい。
その場を必要とする人々で彼を支えればいいのだ。
そのことで著作者は生活ができ、また製作を継続できる。
著作者も「孤高の芸術家」を気取るのではなく、人々と交流し、現在と次世代の担い手へと自分の文化資産を伝えていく努力をしていく。

社会に自分の製作の現場を開放し、表現の場を人々に支えてもらうことによって、著作者は知的生産物をすべての人に無償でシェアする。
著作権という利権は不要だ。
著作物にたいして敬意が払われることは必要だが、それを利用することについて対価は必要ない。
だれもがひとしく自由に利用・閲覧できる。

すべての人がひとしく、無償で、文化芸術資産を共有できることで、その社会はさらに豊かになっていくし、次世代の文化芸術の担い手が育っていく。

これが私のかんがえる理想だ。
「理想」といっているけれど、夢物語とは思わない。
これはいまの厳しい資本主義経済、効率至上主義社会、グローバリゼーションのなかでも実現可能なことだと思っている。
そこからすこしだけ脇にそれる必要はあるけれど。

2013年7月26日金曜日

水色文庫新作「見えますか、私?」

ネタバレ注意!
水色文庫に新作「見えますか、私?」を掲載しました。
これは明後日7月28日(日)に、げろきょ朗読者の山田みぞれが「すなななフェス」に出演する際に朗読するテキストとして水城が書きおろした作品です。
「こわい話」ということで書いたものです。

「すなななフェス」に行かれる方は読まないで、まず聴いたほうがおもしろいと思います。
そういうふうに書いてあるので。
また、これからは怪談シーズンですね。
こわい話の朗読ネタを探している、という方は、どうぞ自由にお読みください。

「すなななフェス」の詳細はこちら

文化芸術作品は社会の共有文化財産にしよう(著作権の話)

以下に書くことはちょっと極端なかんがえかもしれないので、あくまでひとりの著作者の私見として読んでいただきたい。
著作権もしくは著作使用権の話。

TPPの交渉において著作権の期間延長の話が出ている。
詳しいことはネットや新聞記事などに出ているのでここでは書かないが、ようするに法律によって保護される著作権の期間を、原著作権者(作者)の死後50年から70年以上へとのばすように、という外圧の話だ。
外圧だけではない、日本国内でもそれに賛成する向きがある。

私は反対だ。
そもそも、著作権というものの存在そのものに、あまり力点を置きたくないと思っている。
私は小説や音楽の著作者であり、法律によって保護されている著作権がもたらすのは、著作使用権による収益だ。
なのにそれを軽視するとはなにごとか、とみなさんはかんがえるかもしれない。
私のかんがえはつぎのとおりだ。

著作権というのは著作者が自分の著作物に発生する権利によって生活できたり、製作をつづけていけるようにする、という意味合いがある。
が、物流とマスメディアが発達したことで、ひとつの著作物が莫大な利益を得ることがしばしば起こる。
ときにそれは、著作物を製作した労力をはるかに超えて、一著作者の生活をまかなう利潤をはるかに超えて、莫大な利益を生むことがある。
そのことによって、著作物はその存在自体が一種の「利権」となるのだ。

利権によってうるおうのは作者ばかりではない。
その利権を利用して利益を得ようという者が出てくる。
たとえばディズニーを見てみよう(ディズニーに個人的な恨みはないが、あくまで一例として)。
彼が作りだしたアニメやそのキャラクターは、彼が死んだあとの現在も莫大な利益を生みつづけている。
もちろんそのことによって多くの人が娯楽という利益を享受できていることも確かだ。
しかし、この利権構造を文化芸術の分野において強固に主張するのは、作者としていかがなものか、と私は思うのだ。

文化芸術作品は公共物であり、社会の共有文化財産としてひろくだれにでも利用できるようになっていることが望ましい、と私はかんがえている。
たとえば私が朗読公演で井伏鱒二の「山椒魚」を使いたいと思っても、これは著者の死後50年を経過していないので、使用許諾を得なければならない。
井伏鱒二の著作権の管理はだれがおこなっているのだろう。
それを調べなければならないし、まだ出版されている本なので出版社にも許諾を求めなければならない。
出版社には著作隣接権(編集や出版についての権利)というものがあるのだ。
ようするにお金を払わなければならない。
私の朗読公演は有料ではあるが(無料公演やボランティアの場合は無償での使用許諾がおりることがまれにある)、収益はまったく多くないので、著作使用料金を払うことなどできない。
つまり、私は井伏鱒二の作品を公演で使えない、ということになるわけだ。

ある文化的な作品が、金銭的な理由で利用できない、という事態があるのは、その社会にとって大変不利益なことではないか、と私はかんがえる。
井伏鱒二も自分の作品がより多くの人に届くことを、あの世から願っているのではないか。

もうひとつ例を出す。
これは著作権とは別の話だ。
絵の勉強をしている中学生なり高校生が、有名な画家の展覧会に行って、絵を見て勉強したいと思ったとする。
しかし、この国では大きな絵の展覧会はたいてい、かなり高額な入場料が設定されている。
そのために彼は展覧会を見ることができない。
これって、社会の損失じゃね?
展覧会の収益は開催者や作者を潤わせるかもしれないが、文化をもっとも享受すべき人たち、すなわちこれから自分たちが文化芸術を発信していく側になろうとしている人たちを阻むものとなる。

私が発信している情報は、すぐれた先人や才能ある人々と比すべきもない稚拙なものだが、それでもいくばくかの社会資産となりうるかもしれない、何人かの役に立つかもしれない、次世代に伝えるべきいくらかのこともふくまれているかもしれない、と思っている。
だから、私の著作物に関しては、すべて、基本的に、自由に使ってもらいたいと思っている。

私が書いたテキストをだれかが朗読してくれる。
それを聴いた人がいくらかでも楽しんでくれたり、心が軽くなったり、なにかをかんがえるきっかけになったり、世界の見え方がほんのちょっぴり変わったりしたら、こんなにうれしいことはない。
力がなくて多くの人に伝えることができていないが、それでも著作使用権を開放していることで少しでも多くの人が私の作品を読んでくれたり、利用してくれればうれしいのだ。

すべての表現者が自分の作品、著作物を社会にむかって開いてくれればいいと思っている。
では、著作者はどうやって生活していけばいい? という問いがかならず立てられるだろう。
それについては私はひとつの明確な答えを持っている。
著作者、表現者、芸術家はどのようにして生活の糧を得ればいいのか。
これについては、項をあらためて書くことにする。
(つづく)

2013年7月25日木曜日

今日のママカフェと共感的コミュニケーション勉強会

今日は午前中から羽根木の家でママカフェこと「お母さんのための音読カフェ」だった。
1歳2か月の男の子を連れたお母さんが参加してくれたが、玄関に並んでいたちっちゃな靴がかわいいこと。
ボイスセラピストのKATがお茶タイムに出すスイーツを作ってきてくれた。
私が作った杏ジャムを使ったスイーツで、さっぱりとおいしかった。

午後は共感的コミュニケーションの勉強会。
初めての方とリピーターの方が数名ずつ混じっていて、進め方をどうしようかと思ったが、基本原理を違った角度から表現を変えてお伝えすることで、両方のニーズを満たしてみることにした。
後半は自己共感のプラクティスと、それを使った相手との共感的コミュニケーションへの応用のワーク。

自分自身を大切にすること。
身近な人を尊重し、コミュニケーションを大切にすること。
自分が属するコミュニティのコミュニケーションと運営を円滑にすること。
プレゼンテーションで説得力を持つこと。
紛争を解決すること。
今日の方々のさまざまなニーズにたいして、基本的なスキルをお伝えすることである程度お応えできたのではないかと思うのだが。


今日は一日、湿度が高く不快だったが、気温は比較的低く、羽根木の家はすごしやすかった。
エアコンなどの人工的空調はないが、自然な空気を感じられる場所で共感的コミュニケーションの勉強ができるのは、とても幸せなことだ。
来月の共感的コミュニケーションの勉強会は8月29日(木)です。
詳細はこちら

また、来月は三軒茶屋〈カフェ・オハナ〉でのワークショップも、8月20日(火)夜にあります。
詳細はこちら

よりよく活動するために骨盤を立てる

photo credit: bluelephant via photopincc

いま、これを読んでいるあなたは、どんな姿勢を取っているだろうか。
椅子に腰をかけている?
だとしたら、骨盤はどうなっている?
骨盤が寝ていて、背中は椅子の背もたれにもたれかかっている?
あるいは骨盤が立っていて、背中は背もたれから離れている?

以上のチェックは、実は日々のアクティビティについて非常に重要な事柄なのだ。
そのことについて簡単に説明を試みてみる。

姿勢が健康にとって重要なのは、それによって「呼吸の質」が左右されるからだ。
脊椎が前のめりに曲がっている状態、いわゆる猫背の状態のとき、腹部はどうなっているだろうか。
みぞおちからおへそのあたりにかけて圧迫され、つぶれている状態になっていることを確認してみてほしい。
そのとき、呼吸にとってもっとも重要な器官である横隔膜は、内蔵によって下から押し上げられている。

横隔膜が動きにくくなっているとき、呼吸は肋骨を上下させることで保たれる。
外肋間筋が収縮して肋骨全体が上行することで、胸郭がふくらみ、空気がはいってくる。
内肋間筋が収縮して肋骨全体が下行することで、胸郭がすぼまり、空気が出ていく。
横隔膜が動きにくくなっているので、どうしても胸の上部だけの浅い呼吸になってしまう。
当然、呼吸数も増える。

浅くて速い呼吸は交感神経の亢進を誘う。
交感神経は活動・消耗の神経なので、体温が上昇したり、血管が収縮して血圧が上昇したりする。
また、興奮物質であるドーパミン、ノルアドレナリン、アドレナリンなどが分泌される。
じっと座っているのに、身体は活動状態になり、脳内にも興奮物質が分泌されている。
意味もなく落ち着かなかったり、感情の起伏が大きくなったり、いらいらしたり、怒りっぽくなる。

落ち着いた状態でいるためには、これを避け、呼吸を深くゆっくりとしたいのだ。
深くてゆっくりした呼吸は、休息・回復の神経である副交感神経を亢進させる。
そういった呼吸を姿勢によって保証しておきたい。

脊椎が前のめりでもなく、後ろにそりかえってもおらず、ただまっすぐに立っている状態。
これが横隔膜の自由な動きを保証し、深い呼吸をもたらす。
脊椎をまったぐ立てるためには、骨盤の角度を意識するのがよい。
座骨が椅子の座面にあたり、そこから骨盤がまっすぐに立っている状態を意識すれば、脊椎は自然に上にまっすぐ伸びることになる。
この姿勢を保持するのは、姿勢筋(深層筋)が弱っている人にとってはなかなか大変だ。
しかし、これによって落ち着いた心身をたもつのだから、日ごろから姿勢筋を鍛えることを心がけておくといいだろう。

こういった呼吸、姿勢と心身の状態との関係性について、音読療法(ボイスセラピー)でもくわしく学ぶことができる。
今月の2級ボイスセラピスト講座は7月29日(月)の開催です。
詳細とお申し込みはこちら

2013年7月24日水曜日

これ以上おもしろいことはもうできないんじゃないか

いよいよキッズ4こと「キッズ・イン・ザ・ダーク ~ 夏と私」の公演日が近づいてきた。
昨日も稽古だった。
今日も稽古だ。
げろきょは人からおどろかれてしまうほど稽古が少ないのだが、それでもある程度はやる。

今回は朗読台本がA4の紙一枚のみで、中原中也の短い詩「夏と私」と私の短い詩「夏と私」の2編を使うだけ。
この2編をくりかえし、さまざまな形で朗読することで、約75分間の公演をおこなう。
と、こう書くと、いったいどういうふうにやるんだろう、と思いませんか?
思いませんか?
観に行きたくなりませんか?

キッズ公演はこれが4回めになるけれど、毎回、こんなおもしろい朗読パフォーマンスはないと自分でも思っている。
朗読という常識を打ち破り、しかし私がかんがえる「本当は朗読はここまでやれるんじゃないか」という基礎概念を作り、身体表現としてのことば使いを育ててきた結果としての公演になっている。
毎回おもしろくて、終わったあとは「これ以上おもしろいことはもうできないんじゃないか」と思うのだが、不思議にその次はさらにおもしろくなっている。

私のアイディアもそうだが、ここには自分に正直で誠実に表現する共感的な表現者が結集していて、そのみんなのアイディアも力になっている。
前回4月におこなった春公演も、これ以上おもしろいものはできないだろう、と思うくらいおもしろくやれたのに、今回のキッズ4はまちがいなくさらにおもしろくなっている。
とんでもないアイディアとパフォーマンスが結実するはずだ。

さまざまな読み方を次々と繰り広げていくわけで、その段取りはたくさんあるのだが、しかし私が一貫してみんなに確認してもらっているのは、「いまここの自分自身の身体」を感じているかどうか、自分の全体性のなかから声や言葉が出てきているかどうか、ということだ。
それができたとき、そこには有機的なひとつの生き物としての群読の迫力と魅力が生まれるだろう。
そして今回の公演ではそれがまちがいなく目撃できるだろうと確信している。

私は朗読者ではないが、音楽家としてみんなとおなじステージに立てる幸せを予感している。
本当に楽しみだ。
興味がある方はぜひお越しください。
詳細とご予約はこちら

2013年7月23日火曜日

限られた時間をどう生きるか

まわりくどいもののいいかたや、行動は、もうやめよう。
やりたいことをためらうのは、もうやめよう。
攻撃されることをおそれて正直にものをいうのをためのうのも、もうやめよう。

やりたいことがたくさんある。
片付けてしまいたいことがいくつかある。
伝えておきたいことが山のようにある。

人はだれもが、天からあたえられた時間を生きている。
時間の使い方はそれぞれだが、それが有限な資源であることはわかっている。
自分が死んでも、あるいは生まれる前から、世界はつづいていて、そこにも私の存在はふくまれていた(いる)ことは確かだけれど、私がプライベートに使うことができる時間は限られている。
その時間があとどのくらい残されているのか、私には知るすべはない。
明日の朝、目をさまさないかもしれないし、あと30年生きるかもしれない。
それはかんがえてもしかたのないことで、知ることができない残り時間を最良に生きる方法は、いまこの瞬間を全身全霊で生きることだ。

他人のふるまいや評価を気にしたり、びくびくしている暇はない。
いまこの瞬間の自分のことをなすことに忙しい。
自分の全体がきちんと機能して、なにかをやれているかどうか。
本当に自分のやりたいことにこの瞬間ちゃんとつながれているかどうか。
それを体認していようとすると、自分の外側にあることにとらわれている余裕はない。

たぶん私は、これまで、本当の意味で力をつくしてなにかをなす、ということの意味を知らなかったのだろう。
そのつもりでなにかをやっていたつもりでも、半分も力をつくしていなかったような気がする。
残り半分はなにをしていたかというと、さぼっていたのだ。
半分以上かもしれない。
しかし、いまそのことを悔やんでもしかたがない。
すぎてしまった時間はもうここではない。
つまり、無である。
私の人生は過去にでもなく、未来にでもなく、いまここ、この瞬間がすべてである。
この瞬間瞬間を力をつくして生き、その時が来たらただ受けいれて宇宙に帰っていこう。

2013年7月22日月曜日

有権者が選んだこと、私ができること

(以下の記事はあくまで私見であり、私が自分自身の考えをまとめるために書いたメモのようなものです。暖かな目で読んでいただければ幸いです)

参議院選挙が終わった。
さまざまな感想や意見が飛びかっている。
私の周りではやはり失望の声が多い。

与党が圧勝したことで、国会のねじれ現象が解消されたわけだが、それは「ねじれ解消」ではなく「抑止のたががなくなっただけ」という指摘がある。
そのとおりだわな。

自民党の改憲論に危惧をおぼえている人も多い。
自民党はこのところ、強気な改憲姿勢を押しだしている。
そのために世界でも類を見ない平和憲法の改悪によって自衛隊の国軍化、徴兵制の復活、それらによるアジア周辺諸国との緊張の高まり、そして戦争突入、といったシナリオを想定して慄然としている人も多い。
私もそのひとりだ。
戦争をしたいやつは、自分たち同士でやってくれ。

自民党の改憲案は、戦争放棄を削除するだけではない。
そもそも憲法は国民が守るべきものではなく、国民が国を治める者(政治家、政府、官僚など)に守らせるためのものだ。
ここに国民主権が保証されている。
その基本的な権利を変えてしまおうというのだ。
つまり主権は国民にはない、とする改憲案を出している。
国民は国家の利益のために存在し、それに反する者は国賊として排除される、という第日本帝国憲法の世界に逆もどりしようとしている。

また、表現の自由も著しく制限される改訂案が打ち出されている。
これは私も困る、嫌だ、徹底的に抵抗したい。
このようなブログすら自由に書けなくなる世界がやってくるかもしれない。

自民党が勝ったことで、憲法の改訂がおこなわれ、原発が次々と再稼働され(重大事故が起こる可能性がまた生まれる)、TPPで国ごと売りにだされ、国民皆健康保険制度がくずれ、年金制度もなくなり、経済効率優先主義がさらに進み、格差がますます広がり、教育は荒廃する。
結果的に国全体が疲弊し、希望をうしなった者はこころの病にかかり、あるいは優秀な人材は次々と国外に出ていくことだろう。

しかし、これらのことは全部、私たち有権者が選択したことなのだ。
だれか悪いやつがいて、あるいはバカな者がいて、そいつらのせいでこんな事態におちいったのではない。
私たち全員がこんにちのこの事態を選択したのだ。

選挙制度に不正がある、投票結果を操作されている、情報操作されている、という者がいる。
実際にそのようなことがおこなわれているかいないかは別にして、現制度のもとで私たちは勝たなければならなかったのだ。
しかし、そうはならなかった。


日本国民の大多数がその日の暮らしになんの不自由もない。
漠然とした不安は抱いていながらも、とにかく毎月決まった給料ははいってくるし、食うに困らないし、住む家もある。
蛇口をひねれば清潔な水が流れるし、スイッチひとつでお湯がわく。
なんのかんのいって電力は足りているから、エアコンもかけられるし、涼しい部屋でテレビを見ながらビールを飲めば天国だ。
なんとなく危機感があるような気がするけれど、それは現時点でまだ起こってはいないし、また大地震が来るとかいってるけどそんなのいつなのかわかんない。
いまでないことだけはたしかだ(たしかではないのだけれどね)。

そういうとき、人間は「現状維持バイアス」というものに行動を支配される。
つまり、なにも変えたくない、変わりたくない、行動を起こしたくない、という無意識に支配されるのだ。
本当は現状は少しずつ、少しずつ悪化しているのに、いますぐは行動したくない、なんでわざわざおれが動かなきゃならないの、切迫した危機感を持っているやつが勝手にやればいいじゃないの、そういえば山本なんとかとか三宅なんとかとか、若いやつが元気にやってるみたいだね。
あいつらががんばってるんだから、多少はましになるんじゃないの、おれが動かなくても。
といって、選挙に行かない、あるいは頼まれた人に票をいれる、会社からいわれたとおり自民党にいれる。
自民党にいれておくと、なんだかわかんないけどアベノミクスでお金がもうかって、給料があがるらしいぜ。


私たちは個性と想像力を奪われる教育を受けつづけてきた。
学校教育だけではない、就職したり仕事をはじめたりしたときにも、無意識の社会教育のなかで、そのようにされてきた。
余計なことをかんがえるな、計算しろ、問題を解け、丸暗記しろ、すばやく走れ、団体行動を乱すな、ふるさとを思え、家族を大事にしろ、ローンを組んでいい家に住め、長時間かけて通勤しろ。
こうやって、想像力の欠如した、自分の頭ではなにもかんがえられない、決断できない、現状維持バイアスに支配された人が大量生産された。
これが今回の選挙結果であろう。

では私はこれからいったいどうすればいいのか。
日本から脱出する?
革命を起こす?
あるいは「賢くふるまって」アベノミクスの波に乗って大儲けする?

違う。
いまこそ個性と想像力を駆使して、現システムから途中下車するのだ。
政治や行政に期待するのはもうやめよう。
なにか必要なことがあれば、自分でなんとかしよう。
そのようなかんがえ方の人とつながって、おたがいに助けあおう。
信頼できる方法で農業をやっている人とつながろう。
自分たちで電力会社を作ろうとしている人を応援しよう。
非暴力の学校を作ろうとしている人に協力しよう。
私だって学校をはじめたり、コミュニティを作ったり、想像力でつながるための場を提供できるかもしれない。
効果的な健康法を教えてくれる人から学ぼう。
すばらしい思想を持っている人を迎えよう。
自分を強くする方法を身につけよう。
弱い者を受け入れられる場所をみんなで作ろう。
子どもたちはみんなで育てよう。

これからのキーワードはコミュニティであり、トランジション(移行)、持続可能性、共感、文化・芸術のシェアだ。
ここには経済効率とか、所有とか競争といった言葉はない。
いまはインターネットという便利なものがある。
これを使ってそういった人々を点々とつないでいき、大きなコミュニティにしていくことも可能かもしれない。
経済や、従来のしがらみとは別のところで成立している、私の生きる場所があればいい。
もちろんそういう場所を、私が自分で作ればいいのだ。

いや、実はすでにある。
現代朗読協会/音読療法協会というコミュニティは、すでに私の生きる場所となっている。
ここを守り、育てることが、今回の選挙結果に対抗しうる私の手段のひとつだ。

自分以上の何者かになるのではなく自分を活かしきる

なにかやりたいことができて、それに取り組もうとするとき、人は自分の成長を望み、イメージする。
私もこれまで、ピアノ、小説、朗読演出など、さまざまなことに取りくんできた。
仕事のような大きなことでなくても、趣味レベルのことでもいろいろなことに手を出した。
お絵描き、パソコン、料理、武術、水泳、その他いろいろ。

なにか上手になりたいと思ったとき、人はがんばってそのことを練習する。
音楽や朗読でも、がんばっていろいろなことを練習して、自分のできないことをできるようになろうとする。
そのように自分の成長をめざすとき、方法がふたつあるように思う。

ひとつは、自分の目標を自分の外側に設定する方法。
だれか自分よりうまくやれる人を見つけ、その人を目標として、その人に近づけるようにがんばる方法。
たいていの人はこれをやっている。
あこがれが先行している場合もある。

この場合、自分以外の何者かになろうとしてしまうことで、後で問題が出てくることが多い。
自分の外側に成長の基準を作ってしまうと、そこに達したとき、またあらたな基準を作らなければならない。
そうやって次々と先生をかえたり、学校を渡り歩いてしまう人がいる。
外形的に成長しているように見えても、本人の内容は成長していなかったりする。

私が最近実感しているのは、自分の外側に基準を置かなくても、自分の内側にはまだまだ未知のポテンシャルが残されているということ。
たとえばピアノ演奏ひとつ取ってみても、超絶技巧のだれかのように指が奇人的にすばやく正確に動かなくても、私のなかにまだまだ自分でも未開拓の音があり、それは広大な風景を持っているという実感がある。
自分の内側にある未知の領域にまだほとんどアクセスすらしておらず、その風景も見えていない。
その広大な風景のなかにはいっていくにはどうすればいいか。
外形的基準を手放し、ただひたすらに自分と向かい合っていくしかないだろう。

そのための方法として、マインドフルネスや共感的コミュニケーションという強力なツールを私はすでに手にしていて、非常に大きな希望を持つことができている。
また最近では、「内実の体認」を非常に重要視する武術である韓氏意拳にも出会うことができた。
ピアノ演奏のような自分の身体を使う表現行為にとって、これもまた強力な方法のひとつだろうと思う。

だれかをめざすのではなく、自分のなかにある未知の領域にアクセスしていく。
そのことで人は死ぬまで成長しつづけることができるのではないかと思う。

2013年7月19日金曜日

舞台表現と共感的コミュニケーション

現代朗読協会ではNPO法人としての運営を共感的コミュニケーションというコンセプトと方法でおこなっているのだが、表現そのものも共感的コミュニケーションであることが望ましいとかんがえている。

19世紀までの芸術表現や、現代社会における経済活動の枠組みのなかでおこなわれている商業的表現は、表現者がオーディエンスよりいかにすぐれた人間か、いかにすぐれた技能を持っているか、いかに特別な存在であり特別な行為ができるか、というものを誇示するものだ。
そのために表現者はみずからの技能を厳しく磨きあげ、表現行為のクオリティをあげていく。
この場合の「クオリティをあげる」とは、一般人にはできないようなことができるようになる、というその行為のクオリティである。
歌ったり踊ったり読んだり演じたりすることについて、人よりすぐれた技能を身につけること、特別な行為者となること、これが表現者のめざすものだった。

現代朗読ではそれはめざしていない。
20世紀以降のコンテンポラリーな芸術表現のすべてがそうであるように、他人より技能的にすぐれた存在になるのではなく、ひとりひとりがユニークで貴重な存在なのだということを共感的に示そうとする。
この場合の「クオリティをあげる」とは、共感のための感受性のクオリティをあげる、ということだ。
一瞬一瞬、自分の内側を感じ、自分自身につながりつづけ、そしてオーディエンスに自分自身を誇示することなくただ提示しつづける。
お互いにユニークで貴重な存在であることを尊重しあい、表現行為において共感しあうことをめざす。

そもそも「表現する」という行為は、だれかと「つながる」ためのものであったはずだ。
自分が優位に立つためではなく、相手とつながるために歌ったり踊ったり話したり読んだりするものだろう。
根源的な人の欲求としてそういう表現衝動がある。
自分が優位に立つためにおこなう行為は表現ではなく、経済活動である。

現代朗読において公演やライブをおこなうのは、オーディエンスのみなさんと共感的コミュニケーションでつながりの質を作るためなのだ、といえる。
もちろん出演者同士のあいだでも。

現代朗読公演「キッズ・イン・ザ・ダーク ~ 夏の陣」の詳細はこちら

2013年7月18日木曜日

マインドフルは疲れるという先入観?

現代朗読では、とにかく「いまここ」にいる自分自身の身体や感覚につながり、その意識でもって朗読したりいろいろなことをする「マインドフル」や「体認」の練習をする。
それに関して、比較的最近ゼミ生になった者から聞いた話。

プライベートな時間では時々マインドフルを意識して練習してみるのだが、職場ではなかなかそれを思いだすことができない。
しかも仕事中にそれをやろうとするととても疲れてしまう気がする、というのだ。

これは彼女にかぎらずよく聞く話なのだ。
マインドフルの練習をはじめたばかりの人は、「いまここ」という自分と自分がやっていること、自分のまわりのことに「気づき続けていく状態」を、とても疲れる、と感じることがある。
無理もないところもあって、私たちはふだん、そんなふうには生きていないので、ちがうやりかたで生きようとすると、最初はひどくむずかしく、疲れてしまうことがある。
また、疲れてしまう理由は別のところにもある。

気づき続ける状態は本当はとてもリラックスしていて、自分自身の内側の情報や外側からやってくる情報をただ「受け入れ続ける」「感じ続ける」だけなのでとても楽で気持ちがいいはずなのだ。
ところがまだしっかりとマインドフルネスができていないときは、ついついその情報を「取りに行こう」としてしまう。
「気づこう」という積極的な行動に「出かけて」しまうのだ。

出かける必要はなく、ただそこにいるだけでいい。
かんがえることをやめ、ただ感じることの練習をする。
自分の呼吸の観察からはじめ、鼻腔や気道を空気が出入りする様子、それが暖められたり湿度が変化したりする様子、胸やお腹が呼吸とともに動く様子、ただそれらを感じるだけ。
かんがえることをせず感じるだけができるようになると、あとはさまざまな情報が自然に自分のなかに流れこんでくる。
流れは流れつづけ、とどまることはない。
そのような感じかたができるようになれば、とても楽になるし、気持ちもよくなる。
きちんと練習すれば、マインドフルネスで疲れることはなくなる。

2013年7月17日水曜日

BLOG、Facebook、Twitterの使い分け

私はこのBLOGのほかに、TwitterとFacebookも利用している。
当BLOGは毎日何百人という方に読んでいただいていて、ありがたい。
直接は顔が見えないけれど、これを読んでくれている方のことを思いながら毎日書きつづけることができている。

Facebookは文字通り、顔を知っている人とのつながりで使っている。
いつも顔を合わせている人、げろきょの仲間、たまに合う人、ライブやコンサートなどで一度でも会ったことがある人、濃い・薄いにかかわらず、基本的に知り合いとつながっている。
とてもすべては無理だけど、知り合いがいまなにをしているのか、どんな情報を発信しているのか、ざっくりとながめている。

Twitterは知り合いともつながっているが、読み出し専用のアカウントを作ってあって、それで気になる人をフォローしている。
そこからはいってくる情報は、Facebookからのものとは質が違う。
まさに「私が気になる人」というバイアスがかかった情報だ。
その点は注意したいところだが、自分がどんなことに関心を持ち、どのような傾向を持っているのかがはっきりする。

Twitterで知り合いをフォローするのは100人までと決めている。
それ以上になるととても把握しきれない。
100人でもめいっぱいだ。
逆に、私をフォローしてくれている人は500人以上いる。
私のツイートを読んでいる人が500人いるのかとあらためて思うとちょっと緊張するが、Twitterは気軽にアンフォローできるので、気にいらなければフォローをはずしてもらえばいいと思えば、こちらも気軽になれる。

Twitterで「なう」を気軽につぶやいたり、かんがえていることを連続ツイートしたりする。
まとまったものはBLOGに転載することもある。
BLOGはある程度まとまった分量のかんがえを表現する場だ。
ここから最終的に電子書籍にまとめることもある。
Facebookは知り合いとのコミュニケーションや、イベントなどの情報交換のために使っている。

さらにTwitterでは、私が気になったり、気にいったツイートをリツイートすることがある。
まさに私の関心傾向のリアルタイムな表現だ。
ちなみに、今朝私がツイートしたものは、こんな感じ。
時系列でならべてみた。

-------------
品切れ続出! ジブリ 宮崎駿監督が語った憲法改正 http://t.co/VBPCiLcJAx

岩上安身 @iwakamiyasumi
続き。この話をした時、小沢一郎氏は、「米国のネオコンは日本の阿倍さんや石原さんら、右翼政治家やその取り巻きのことをわかってない」とバッサリ。「米国は日本が忠犬ハチ公であればいいと思っている。しかし安倍さんらが考えているのは日本の核武装独立。原発にしがみつくのもそのため」

続き。政権樹立後、原発の維持再稼働どころか、10数カ国を駆け回り、原発のセールスマンとして各国に原発の売り込みに忙しい安倍総理。山田正彦元農水相は、「平岡秀夫氏から聞いたのだが、この輸出の際、使用済み核燃料は日本が引き取ることになっている」と語った。日本が核のゴミ捨て場になる⁉

相田和弘 @KazuhiroSoda
石破「『これは国家の独立の為だ、出動せよ』と言われた時に、いや行くと死ぬかも知れないし、行きたくないという人がいないという保証はどこにもない。だから国防軍になったらそれに従えと。それに従わなければその国にある最高刑がある国なら死刑」

tsussy @tsussee
石破自民党幹事長「戦争に行かないと死刑」 http://t.co/fxZE5QSzvB どうみても完全に気が狂っている. こんな政治家の手から俺らの子供たちの命を守るために憲法9条は存在しているんだよ.

watanabe @penewax
宮崎駿「戦争はいつも平和の中で用意されていくのです。人間の社会は、愚かさとずるさ、だまし合いと憎み合いにみちています。同時に優しさや献身、助け合いや同情にもみちています。その人間の社会の中に、戦争は準備されていくのです」http://t.co/mSEZIbjZVe

アルルの男・ヒロシ@日本あーあ党の総裁 @bilderberg54
拡散速報▷やはり、プラカード没収事件の初報道は大手メディアでは東京新聞。続報として、没収されたプラカードが警察にも教えていない 勤務先に返送されて来たとある。マフィアの恫喝まがいを平然とやる、福島の #自民党。 http://t.co/mWosl64Y07

2013年7月16日火曜日

ストリームの毎日配信ちょっと中断……と書きかけて

昨日、今日と、比較的気温が低く、また湿度も低いようで、すごしやすかった。
昨日はおとといのレディ・ジェーンでのライブの興奮さめやらなかったが、毎日原稿用紙にして3枚以上を連続配信している『ストリーム』執筆に弱気が出てしまった。
ブログタイトルに「ストリームの毎日配信ちょっと中断」と書きかけて、思いとどまった。

昨日の午後は27日の「キッズ・イン・ザ・ダーク」公演の稽古が羽根木の家であった。
酷暑ではなかったので楽だった。
みんなで演出プランを確認しながら、あたらしいギグを追加したり、順番や名前をかんがえたり。
昨日でほぼ今回の公演の全貌がかたまった。
あと二週間を切ってるじゃないか、という突っこみはしないように。
げろきょはいつもだいたいこんなものである。

リハーサルは極力しない。
やればやるほど、うまくいった手順をなぞろうとして、本番でマインドフルになれないからだ。
その場そのときの体認と偶有性を大切にしている。
私たちは生のパフォーマンスを生身でやるのだ。
それにしても、今回もおもしろくなりそうだ。
いや、さらにおもしろくなりそうだ。

今回の特徴は、朗読台本がA4のペラ一枚のみ。
それを全15のギグで読む。
つまり15通りの読み方をする。
つぎからつぎへと、見たことも聴いたこともない朗読パフォーマンスが立ちあらわれてくる、という仕組みだ。

稽古のおかげで夜はちょっと元気になったので、『ストリーム』の翌日配信分を書きあげた。
そして今日になって、やはり長編配信はなるべく中断したくないと思った。
なんとしても毎日書きつづけたい。
ほかにもたくさんやりたいことはあるが、全部手を抜くことなく力をつくしてやりきろう。

今日は朝からさらに涼しく、すごしやすい。
雑用の片付け。
昼食に、残りご飯を使って手抜きオムライスを作る。
今夜はこれから、ゼミ生の植森さんに誘われた御神楽ライブに行ってくる。
どんなものなのか、まったく予備知識なし。

2013年7月15日月曜日

全身を朗読するという行為に参加させる

大脳皮質を発達させてしまったヒトという動物は、その「思考」にじゃまをされて腕一本動かすにも、声ひとつ出すにも、ぎくしゃくと非効率的になることがある。

「右手をあげてください」
というと、たいていの人はぎくしゃくと手をあげる。
頭で「手を上にあげる」とかんがえ、そのイメージを脳内に思いうかべてから動こうとするからだ。
しかし、自分の上のほうになにかぶらさがっていて、それをなにもかんがえずに自然に取ろうとしたとき、動きはのびやかになる。
頭でかんがえないときに、ものを取ろうとして上にあげる手の動きに全身が参加し、無理のない自然な動きになる。

言語活動はその「ぎくしゃく」の最たるもので、なにをしゃべろう、とか、こう読もう、とか、まずは頭でかんがえてからそれを口にする。
言語コミュニケーションにつきまとうぎこちなさはそこに原因がある。
しかし、頭でかんがえることなく、声や言葉が自然に出てくるとき、それはとてものびやかで豊かな表現となる。

なにかにふと感動したとき思わず出てくる声。
知り合いに出会ったときになにもかんがえずに口をつく「こんにちは」のことば。
だれはばかることなくひとりで好きな詩の一節を口ずさむときの開放感。

現代朗読ではテキストの意味ではなく、この文字記号から導きだされうる自分の声=音声を、のびやかに表現することをめざす。
そのためには、声を発する「運動」に自分の全身が参加していることが必要だ。
しかもそれは頭でかんがえておこなうものではなく、ごく自然に全身が「発声」という運動をささえ、身体全体にのびやかさがあるなかで表出してくるものであることがのぞましい。

などと書くと非常に抽象的なことのように思えるかもしれないが、実際にはさまざまなエチュードをとおしてその感覚を体認していってもらうのが、現代朗読の方法なのだ。
私はそのエチュードを発明する専門家として現代朗読に参加しているといっても過言ではない。
この方法と体系はまだ始まったばかりだ。
ゼミ生やワークショップ参加者もまだ全員が体認できているわけではないだろう。
しかし、この方向性を持った表現集団がわっとひとつになって動くとき、そこにどのようなものが立ち現れるのか、楽しみではないだろうか。
私はとても楽しみだ。

現代朗読協会の総力戦といっていい公演「キッズ・イン・ザ・ダーク ~ 夏の陣」は7月27日(土)に開催される。
詳細はこちら

下北沢〈レディ・ジェーン〉ののみずしゅんライブが終わった

2013年7月14日夜、下北沢〈レディ・ジェーン〉での「ののみずしゅんライブ」が終了。
現代朗読の野々宮卯妙、ヴォーカルの酒井俊、そして私の即興ピアノ演奏の三人のライブ。
残念ながらお客さんはすくなかったが、私としては最高にスリリングなライブだった。

二部構成で、前半はまず私のソロピアノから。
じつはこの前の時間、出演者の三人は食事に出ていて、あまりに楽しくおしゃべりしながら食べていたので、うっかり開演時間の19時半をすぎてしまったのだ。
そこであわてて私ひとりが先にレディ・ジェーンにもどり、ピアノを弾きはじめたというわけだ。
即興演奏から、夏の曲「われは海の子」の6拍子バージョンへ。

演奏を終えたら、野々宮と酒井さんがもどっていたので、三人ライブのスタート。
今回は私が書いた「記憶が高速を超えるとき」の全編朗読。
前半と後半に分けて、途中、休憩をはさんでおこなった。

酒井俊さんとは私も野々宮も初の共演。
いうまでもなく凄腕のボーカリストで、数々の歌もののヒットも知られているが、今回はあえてすべて即興での「ボイス」でやるとのこと。
事前にすこしだけ打ち合わせはしたが、これをこうやるといったような決めごとは一切なし。
完全即興、「いまここ」にあることだけ、一瞬先はなにが起こるかわからないスリリングなライブだった。

私と野々宮はこれまで何度もやっていて、おたがいの手の内はある程度わかっているのだが、俊さんとは初めてなので予測はまったくつかない。
とんでもない声やフレーズやタイミングで仕掛けてこられるので、いやいやこれが楽しいのなんのって。
私も野々宮も、俊さんといういわば「異物」がはいりこんだことで触発され、自分でも思いがけない反応が引きだされていく。

これまで多くのライブをやってきたが、昨日ほど完全に言語的思考を手放せてマインドフルに演奏できたことはなかったかもしれない。
これも野々宮と俊さんを信頼でき、また私自身をも信頼して思考を手放し身体に任せきれたおかげだと思う。
とても気持ちよかったと同時に、大きな自信を得ることもできた。
俊さん、野々宮、そしておいでいただいたお客さん、来てくれたゼミ生のてんちゃん・植森さんに感謝したい。

映像記録があるのだが、未編集なので、ほんの一部を抜粋で掲載しておく。

2013年7月14日日曜日

キッズ4夏の陣の稽古が佳境に

昨日は猛暑のなか、朝からライブワークショップ。
暑さにはめっぽう強いという自信があったのに、数年前、つづけて何度か熱中症をやって以来、暑さで著しく消耗するようになった。
ま、年齢もあるからしかたのないことかもしれない。

ライブワークショップは残り2回のなかで、ライブ公演のための仕上げをしていく。
今日はライブ公演のプログラム順を確認しながら、それぞれのギグ(Gig)の手順を練習。
現代朗読の公演は、ギグと呼ばれるひとまとまりのパフォーマンスのかたまりの連続で構成される。
とくに今回はたった2種類の短いテキストを、手を替え品を替え、いろいろな方式で朗読していく形式になっている。

今回のギグは全部で13種類ある。
それらが連続して次々とあらわれ、全体を構成する。
今日の稽古の感触では、全13ギグで70〜80分くらいになると思われる。
が、それも本番ではいくらか前後することになるだろう。

今回のギグはすべて群読で構成される。
朗読者は進行内容をこなしながら、しかしもっとも重要なのは自身の身体性(内実)に気づきつづけ(体認)、共演者および観客とコミュニケートしながら「いまここ」につながりつづけることを要求されている。

こうやって書いてみたら、なんだかちょっと大変なことをみんなに要求しているような気がしてきた。
リズムや音感を要求される複雑なギグの段取り、音程についての感受性、テキストの読みこみ、身体性へのセンス、共演者や観客とのコミュニケーション、音楽に反応すること、マインドフルにありつづけること。
どれをとっても大変なことかもしれないが、たぶんみんなできるだろう。
そのことを私は信頼している。
なぜなら、これまでいっしょに練習してきたなかで、そのことを私の無意識が確信しているから。
私は私の無意識が発している信号を全面的に信頼している。

私たちはなにか特別なことをやれているのではないか、という確信がある。
表現の世界に革新的ななにかをもたらしているかもしれない。
革新的なことが嫌いな人はご遠慮いただきたいが、そういうことに好奇心を持っている人は、ぜひともご覧いただきたいものだ。

現代朗読公演「キッズ・イン・ザ・ダーク ~ 夏の陣」の詳細はこちら

2013年7月13日土曜日

扇田拓也氏との合同ワークショップの予告

自らも役者であり、演出家である扇田拓也氏と、合同で演劇と朗読のワークショップを開催することになった。
演劇と朗読の違い、あるいは共通性について興味のある方、そしてこれらの現状や先端的な表現に興味がある方は、スケジュールを一日あけておいてほしい。
8月24日(土)に目黒の三田フレンズ地下1階、田道住区センター三田分室第2音楽室でワークショップを開催することになった。

扇田くんは非常に緻密で繊細な構成が得意な演出家で、私とは対極といっていいセンスを持っておられる(だからこそ尊敬している)。
いまこれを書くために調べてみたら、私より20歳近い若さではないか。
まさにうらやましいような輝かしい若さであり、これからの活躍を期待できる人だ。
さまざまな才能を見抜いてきた(そして実際に何人も第一線に出ていった)目利きとしての私が、扇田くんも必ず日本の演劇界をしょっていくような大きな存在になることを保証する、といいきれる。

そんな扇田くんと、縁あって、いっしょにワークショップを開催できることになった。
扇田くんは演劇畑から、私は現代朗読というあたらしいジャンルから、それぞれまったく違ったアプローチの演出方法を取るふたりが、ともに表現についてかんがえ、参加者たちといっしょに検証してみようという、刺激的なワークショップだ。

私見だが、演劇はストーリーや世界観を表現するものであり、朗読は個人の存在や身体性を表現するものであるとかんがえている。
一見、逆ではないかと思う人もいるかもしれない。
そこのところが実際はどうなのか、検証してみたいとも思っている。
また、扇田くんの最近の仕事に示されているような緻密な演出法と、演劇という表現手法についてのレクチャーを受けられることも大きな魅力だ。

そういうことを受けて、ワークショップのタイトルは仮に「物語と自我――演劇と朗読についてのワークショップ」としておく。
ワークショップの詳細はこちら

そうそう、そういえば、役者としての扇田くんが、最近、テレビコマーシャルに出ている。
キリンビールのコマーシャルで、こちらに映像がある。

これもそうだが、Googleの画像検索で「男前」の扇田くんがたくさん出てくる。
ちょっと嫉妬してしまう(笑)。
羽根木の家の朗読宴会で私のテキスト「とぼとぼと」を読んでくれたときの映像もある。
こちら

朗読者は聴衆になにを伝えるのか

現代朗読の体験講座や基礎講座にやってきた人、あるいはゼミ生になったばかりの人の多くが、
「聴衆にどのように受け取られるのか気になる」
とか、
「私のような未熟な者がひと前で表現していいんだろうか」
とか、
「評価(攻撃)されるのが怖い」
といった言葉を口にする。
私たちは教育や社会生活のなかで、「他人から評価されること」を価値基準にすることを身につけてきてしまっているので、それもしかたのないことだろう。
しかし、いつまでも他人軸の評価に依存していては幸せになれないし、自分自身ののびやかな表現はとうていできない。

そもそも「他人」は複数/大勢いて、そのひとりひとりがちがった価値・評価基準を持っている。
私がよいと思っておこなった表現も、Aさんにとっては「気にいらない」かもしれないし、Bさんにとっては「とってもすばらしい」と取られるかもしれない。
とくに現代朗読のように斬新な、これまであまりやられていない表現をひと前にさらすとき、その評価はまちまちでさまざまなものとなる。
大変おもしろがってくれる人もいれば、極端な拒絶感を示したり、怒りだしたりする人もいる。
本当にそういうことがあって、私たちは多く経験している。

怒りだした人はいったいどういう価値を大切にしているのだろう。
朗読というのは自分自身をさらけ出すのではなく、つつましく本に寄りそい、作者の思いを聴衆にきれいな日本語で届ける、ということを大切にしているのかもしれない。
それ以外のものは朗読とは認めることができず、だから怒りだしてしまったのかもしれない。
その人がそういうふうに反応するかどうかというのは、実際にこちらが表現してみるまでわからない。

こちらが表現したとき、さまざまな反応が起こる。
それらの反応についてすべて正確に予測することはできないし、おおざっぱに「だいたいこんな反応が多いだろう」とつかんで予測しても、それは正解ではないだろう。
唯一の解は、あらかじめ予測ができない反応についてはかんがえない、ということしかない。
そのとき私たちができるのは、「いまこの瞬間の自分自身」に誠実であることだ。

他人の価値ではなく、自分自身の価値につながりつづけること。
しかもその価値は刻一刻と変化しつづけている。
瞬間瞬間、自分自身につながりつづけること。
それしか誠実な表現はありえない。
その結果相手のなかに生まれた反応・評価については、その人の価値を認めることで受け入れ、相手にも自分自身にも共感することで大切な表現の場と機会を守るのだ。

現代朗読協会の総力戦「キッズ・イン・ザ・ダーク」公演は、7月27日、明大前〈キッド・アイラック・アート・ホール〉にて開催。
詳細はこちらです。

現代朗読&即興演奏ライブ「記憶が光速を超えるとき」前半

2013年6月7日、中野のジャズダイニングバー〈スウィート・レイン〉にておこなわれたライブ「記憶が光速を超えるとき」の前半部分を、未編集ですがお送りします。

出演
 野々宮卯妙(現代朗読)
 水城ゆう(即興ピアノ演奏)

作品「記憶が光速を超えるとき」水城ゆう作

同作品を7月14日(日)19:30より、下北沢〈レディ・ジェーン〉でボーカルの酒井俊さんを迎えてふたたび上演します。
スリリングな現代朗読と即興演奏のライブにどうぞお越しください。
詳細はこちら


2013年7月11日木曜日

福井県立病院ピアノコンサート「茶摘み(真夏バージョン)」

2013年7月8日、福井県立病院のエントランスホールにて水城ゆうがおこなったピアノコンサートの模様から、抜粋してお届けします。

曲目
・茶摘み

これは4月にもおこなった同コンサートで「春バージョン」として演奏しましたが、今回は「夏バージョン」としてお送りします。
次回、秋のピアノコンサートは10月7日(月)13:30からの予定です。

水城ゆうの最新アルバムが以下のサイトから全曲試聴できます。
ダウンロードしてお買い求めいただくこともできます。


2013年7月10日水曜日

「ののみずしゅん」ライブは下北沢レディ・ジェーン

現代朗読の野々宮卯妙、即興ピアノの水城ゆう、ボーカルの酒井俊の三人が下北沢の老舗ライブバー〈レディ・ジェーン〉からお送りするのは、次の日曜日の夜!

酒井俊さんの歌を初めて聴いたのは、カルメン・マキさんに連れられて行った吉祥寺の〈MANDA-LA2〉だったと思う。
いやいや、ものすごいボーカリストがいるな、と思った。
ジャズでも歌謡曲でもポップスでもオリジナルでも、即興ボイスでも、なんでもありの凄腕ボーカリスト。
その後、やっぱりマキさんとレディ・ジェーンでも聴いたりした。
まさかその酒井俊さんと自分がいっしょにやることになるなんて、想像もしていなかった。

きっかけはなんだっけな、野々宮卯妙がマキさんと共演することになって、そのときにわざわざ中野〈スウィート・レイン〉まで聴きに来てくれたのだったと思う。
そのあと、いっしょにやりましょう、ということになり、今回レディ・ジェーンでやることになった。
もちろん私より、現代朗読の野々宮卯妙との共演がメイン。

先日、軽く打ち合わせとリハーサルをやらせていただいた。
俊さんのご希望で、今回、ボーカルは完全即興で、ということになっている。
つまり、歌ものはなし。
現代朗読と即興ボーカルと即興ピアノによる、一瞬先にどう展開するかだれもわからないという、スリリングなライブになることまちがいなし。
というより、リハーサルですでにそんな感じだった。

ただし、テキストは決まっている。
スウィート・レインでも一度やって大好評をいただいた水城ゆう作「記憶が光速を超えるとき」。
これに俊さんがどうからんでくれるのか。
みなさん、来てね~。
ライブの詳細はこちら

2013年7月9日火曜日

キッズ4公演の稽古がはじまった

昨年8月に初回公演がおこなわれ、その後12月、今年の4月と、4か月おきに開催されてきた「キッズ・イン・ザ・ダーク」。
その4回めとなる「夏の陣」が今月27日に開催される。
場所はこれまでとおなじ明大前の〈キッド・アイラック・アート・ホール〉。
その稽古がはじまっている。

この「キッズ・イン・ザ・ダーク(略してキッズ公演)」は、ライブワークショップの最終発表ライブにゼミ生たちも参加してふくらませた公演として、最初はスタートした。
そのスタイルがなかなかおもしろかったのと、現代朗読というスタイルを表現するのにとてもいい形式だったので、以後これを踏襲することになった。
4回めの今回も、ライブワークショップの最終ライブをふくむ、ゼミ生も参加しての現代朗読公演となる。

今回の特徴としては、すべてのギグ(Gig/各パート)が群読で構成されるということだ。
群読といっても朗読劇とかドラマリーディングとはちがう。
これはもう「現代朗読」としかいいようのないもので、げろきょ以外のどの劇団や朗読集団でもやっていないオリジナルな方法だ。
とくに朗読者の身体性を重要視している。
朗読はことばの表現であると同時に、音声表現でもある。
そして音声は身体から発せられる。
身体の状態がどのようなのか、またどのような身体操作をしているかによって、音声のクオリティもまったく変わってくるのだ。
現代朗読ではそこのところを重要視している。

今回の公演でも、朗読者たちの群読による身体運動と音声表現がメインテーマだ。
そしてもうひとつの特徴として、使うテキストはたった2種類(見ようによっては1種類ともいえる)。
A4サイズの紙一枚に収まる短いテキストが公演のためのシナリオだ。
朗読者たちはその紙一枚だけで80分前後の公演を読みきる。
もちろんいろいろな読み方をするのだ。
みなさんが聴いたこともないように、見たこともないような朗読パフォーマンスが次から次へと繰り出されてくることだろう。

コンテンポラリーな表現としてまちがいなく、いまもっとも先端的なことをやっているという自負がある。
しかもそれは小難しいコンテンポラリーではなく、おもしろく楽しい刺激的なものだ。
ぜひおいでいただいて、実際に目撃してもらいたいものだ。
「キッズ・イン・ザ・ダーク ~ 夏の陣」の詳細はこちら

2013年7月8日月曜日

福井県立病院での夏のピアノコンサートを終えて

今日の午後は福井県立病院のエントランスホールでピアノコンサートをおこなってきた。
ここでのコンサートは、去年の秋、今年の春につづいて、今日で3回めとなる。
今日は日本の童謡や唱歌から夏のメロディを中心に演奏してみた。
いつものようにアレンジも含めて気のおもむくままの即興演奏。

始まる前に看護師さんに介添えしてもらって車椅子でやってきた女性が、最前列の椅子に陣取られたので、声をかけて話をしてみた。
なんでも胆嚢を除去するとてもつらい手術を終えたばかりとのことで、リハビリをしている最中らしい。
子どものころに少しピアノを習っていて、ピアノの先生があまりに厳しくてつらくて中学校になるときにやめてしまったのだが、最近また弾きたくなって練習しているのだという。
ご主人も音楽をやっていて、近いうちにいっしょにやれたらいいと思って練習中なのだそうだ。
6歳になるお子さんがいて、ピアノを少し習わせてみたが、無理強いはしたくないとのことで、いまは習ってないとのこと。
最前列に座ったのは、ピアノを弾く指の動きを見たくて、ということだ。

その後ろに座れた年配の女性は敦賀から数ヶ月おきに通院されているという方。
お嬢さんは国立音大の音楽教育課程を出ておられる音楽一家のご様子。
質問があるというので、どうぞと答えたら、7歳の孫がいつもとても楽しく歌を歌うのだが、それがかなり音痴でどうしたらいいだろうか、という話。
いやいや、それは絶対に矯正しないでくださいね、とお願いした。
音楽は楽しくやってこそ能力が伸びるのであって、大人の勝手な判断で無理じいしたり、矯正したりするのは絶対だめ、とにかく楽しんで歌っているそのこと自体を全部受け取ってあげてください、そうすれば音程など自然になおりますから、とお願いしておいた。
それを聞いていた胆嚢手術の女性から「いいお話が聞けました」といっていただいた。

小一時間の演奏を終えて(練習が思うようにできていなかったので内容はけっこうボロボロだったが(笑))、お礼をいうと、すぐに何人かの方が近づいて来られて、話をしてくれた。
演奏中から涙ぐんでおられた方も何人かいたのだが、とくに車椅子に乗ってご主人らしき人に介助してもらっているお腹の大きな女性から、たくさん涙が出た、優しい音楽を聴かせてもらってお腹の赤ちゃんもきっと喜んでいる、というようなことをいってもらって、私もうれしかった。
終始、目をきらきら輝かせて聴いていた年配の男性とか、多くの方にけっこうな長時間、最後までお付き合いいただけた。

終わってから同級生の辰巳医師とお茶。
私の大好きな豆本のプレゼントをもらった。
私のほうは、彼に杏ジャムを用意していたのに、実家に置き忘れてきてしまって、がっくり。

次回のここでのピアノコンサートは10月7日(月)に決まった。
今度はまた秋の曲だね。

身体に任せて「内実」を整える


最近の現代朗読ゼミでは非常に刺激的な気づきがたくさんある。
とくに朗読表現と身体使いの関係について、一気に明確な手法が整理されてきた感がある。

現代朗読はNPO法人として組織された2006年より前から、連続的にその手法と考え方が変化しつづけてきたが、去年のなかごろから急速に明確なコンセプトが見えてきたように思う。
ちょうど「キッズ・イン・ザ・ダーク」の第一回めの準備がスタートしたあたりから急加速が始まったように感じる。

いちおうはつながりを持っていたが、それでもまだちょっと別々に存在していたいくつかのパズルが、カチっ、カチっと音を立ててはまりあい、ひとつになってきたような印象だ。
コンテンポラリーアート、朗読表現、身体表現、アレクサンダー・テクニーク、マインドフルネス、構造主義、共感的コミュニケーションといったキーワードが、現代朗読という表現行為を通してひとつの有機的なまとまりを作りはじめている。

そのきっかけのひとつが「韓氏意拳」という武術に出会ったことだ。
ここでは驚くほど緻密に自分の身体内部を見ていく。
「体認」というのだが、自分の身体の「内実」があるかどうか、静止しているとき、動くときに、何兆もの細胞が連動して人の身体を支えるその「自然」を見る。
私はほかにもいくつかの武術を経験しているが、これほど緻密に身体を扱うものをほかに知らない。
武術に限らない。
表現にしてもスポーツにしても、これほど精緻に身体操作を学ぶための方法を、私はこれまで聞いたことがない。

韓氏意拳はまだ始めたばかりだが、その身体操作についてのアプローチは朗読表現や音楽演奏にも大きなヒントとなる。
そして、身体とこころのつながり、マインドフルネス、共感的コミュニケーション、アレクサンダー・テクニークといったものの理解をさらに深めることに役立つのだ。

先日のゼミでは、身体にちょっとした準備をさせてやるだけで、声と表現が大きく変わることを確認した。
準備をするといっても、力んだりするのではない。
身体に必要最小限の準備「内実」を整えることを意識するだけで、出てくる声の質がまったく変わるのだ。
少しでも「力をいれる」ということをかんがえてしまったらうまくいかない。
ただ身体を信頼して、身体に任せて「内実」を整える。

表現のクオリティを格段に向上させるための方法が、まちがいなくこちらの方向にあると確信している。
金鉱を掘り当てた実感がある。
げろきょはこれから恐ろしい表現集団になっていくだろう。

2013年7月6日土曜日

ライブワークショップ、体験講座、参加者の声

今日の午前中は「朗読はライブだ!」ワークショップの今期3回め。
公演本番のテキストが完成したので、渡して読み合わせ。
今回の公演台本はA4のペラ一枚のみ。
ひとつ(ふたつ)のテキストを手を変え品を変え、現代朗読のパフォーマンスとしてさまざまな表現で読むことに挑戦する。

午後は体験講座。
今回の参加者は4名で、それにゼミ生が3人参加してくれた。
最近はいつもそうだが、漠然と「朗読とはこんな感じ」というイメージを抱いてやってきた人にとってはかなりショッキングな内容だったかもしれない。
講座の合間や、終わってからも、なんとなく呆然としている感じがあって、「やりすぎたかな」と一瞬危惧してしまうのだが、しかし現代朗読のエッセンスが明確になってきているので、それをお伝えせずにはいられない。
ひょっとして長らく参加しているゼミ生ですら、このところの凝縮された現代朗読の考え方をあらためて聞くとびっくりするかもしれない。


今日の参加者の声を紹介しておく。

■表現する事とはどういう事なのか、少しわかった気がします。自分の内面をまず見ていくというのが、新しい考え方で、とても為になりました。3時間の間に、すでにいろんな気付きがあって、有意義でした。ありがとうございました。

■自由にする、ということが、いかにむずかしいかを実感しました。かっこつけようとする、作法?を気にする、色々なことが気になって表現のみに集中するのが難しかったです。一方で、「何でもどうぞ」といわれても何も浮かんでこなくて困りました。ああいろ、こういろ、と言われる方がある意味で楽なのかな?とも思いました。でも、矛盾するようですが、「そのままでいいよ」と言われた時の安心感ときたら、胸にこみあげてくるものがありました。とても良い時間を有難うございました。

■今日はありがとうございました。人の朗読をたくさん聞く機会もそんなにないので、今回はじっくり聞くことができたことも楽しかったです。ライブパフォーマンスもぜひ聞きに行ってみたいです。読む方も、ちょっとなかなか使わない気を使って読んで、不思議な感覚でした。ゼミ生の方々の、ぶっ飛んだ朗読を聞いてみたいなと思います!

■制約をはずすと混乱する、という感覚が新鮮に思えた。その先におそらく気持ち良さや共感が待っていそうな気がする。いろいろはずして自由にして、表現して、それで、私に共感してくれる人、聞いてくれる人は表れるのか、という不安はかなりまだある(お客さん相手の仕事をしていた経験からのクセかもしれない)。


次回の朗読体験講座は8月3日(土)、午前10時から開催の予定。

2013年7月5日金曜日

感覚をより働かせるためのトレーニング法


昨日は朝ゼミ、昼ゼミ、夜ゼミと、げろきょデー。
朝ゼミではマインドフルについてのあかりさんとてんちゃんの気づきをまず聞かせてもらった。
そのなかで、「触覚にフォーカスするとマインドフルになりやすいかもしれない」という話があったのだが、私からのアドバイスとしては「特定の感覚を取りに行かないほうがいい」ことを伝えた。

人は感覚器官(神経)が全身に張りめぐらされていて、まさにセンサーのかたまりといってもいい。
その点が、昨今だいぶ進化してきたように見えるロボットとの最大の違いだ。
この感覚器官をより働かせるためのトレーニング法にはふたとおりある。
ふたつは真逆の方法だ。

ひとつめ。
ある感覚を遮断することによって別の感覚を鋭くさせる方法。
たとえば、視覚を遮断することによって、それ以外の感覚——聴覚や触覚など——を鋭敏にさせることができる。
これによって普段は意識しないような微細な感覚にフォーカスする。

ふたつめ。
特定の感覚を取りに行かない方法。
自分の感覚と身体をひらき、マインドフルネスの状態のなかで周辺からはいってくる情報をシャットアウトすることなく受け入れ、身体と無意識がそれらを処理するに任せる。
いったん「聴覚に集中」とか考えてしまうと、それは言語思考のレベルにもどってしまうので、ただはいってくるものを受けいれ、感じるに任せる。
一種の瞑想であろう。
これは私たちが普段やっていないプロセスであり、難しいのである程度のトレーニングを要する。

そんなことを朝ゼミで話したり、練習してみた。
それ以外では、今月27日に近づいてきたげろきょ公演「キッズ・イン・ザ・ダーク 〜 夏の陣」の稽古および構想をいっしょに練ること。
とくに昼ゼミでは「ギグ」といっているが公演内のパートごとの内容がどんどん決まっていって、ようやく全貌が見えてきた感じ。

げろきょ公演「キッズ・イン・ザ・ダーク 〜 夏の陣」の詳細はこちら。
会場が狭いので定員に限りがあります。
予約はお早めに。
詳細はこちら

国際ブックフェア2013、映画「パワー・トゥ・ザ・ピープル」

今日は午前中からビッグサイトまで出かけて、国際ブックフェアを見てくる。
毎年恒例のイベント。
毎年行っていると、その変化に気づいておもしろい。

近年の傾向。
紙の出版社のブースがどんどん縮小されていって、電子出版の割合がどんどん多くなっている。
今年は電子出版だけで1フロアを占めていた。
紙の出版社はクリエイターのブースやライセンス関係、プロダクションのブースと分け合っていて、つまり1フロアの4分の1。
この傾向は今後さらに進むだろう。
紙の本は一部愛好家のものになっていくのかもしれない。

とはいえ、私が行くのは、まずは紙の出版社のコーナー。
私が職業作家デビューをした出版社である徳間書店は、児童書のコーナーの一角に棚を持っているのみで、しかもほとんど宮崎駿コーナーと化していた。
ほかには輸入もののCD・本のバーゲンコーナー。
ここではいつも何点か買う。
今日は楽譜と『赤毛のアン』のソフトカバー。
じつは『赤毛のアン』は未読なのであった。

電子出版はにぎわっていた。
去年はお題目ばかり先行して実体がまだない印象を受けたのだが、今年はそこそこ実体が出てきた感じがある。
書籍マーケットは今後さらに、急速にこちらにシフトしていくと思われる。

そういえば、徳島県がIT関連企業の誘致のためにブースを大々的に出していたのにはびっくりした。
この話は、徳島ゼミ生のたるとさんから確かに聞いていた。


渋谷で昼を食べてから、いったん羽根木にもどって、仕事。
7月27日「キッズ・イン・ザ・ダーク 〜 夏の陣」のシナリオの仕上げと、「ストリーム」の原稿。

夜は北沢タウンホールでGQパワーとトランジション世田谷の共催による映画「パワー・トゥ・ザ・ピープル」の上映会&ミーティングへ。
エネルギーシフトや脱グローバリズムに関するとても希望の持てる、元気の出る映画だったが、それらを実現するためにはまずは人々のつながりが生まれることが必要だろうと思う。
共感的コミュニケーションはこのような社会活動において非常に有効なスキルだと、あらためて確信した。

2013年7月4日木曜日

中野〈Sweet Rain〉で板倉克行さん支援ライブだった

昨夜は中野〈スウィート・レイン〉で、入院中のフリージャズピアニスト・板倉克行を応援するためのライブをおこなわせてもらった。

2ステージだったのだが、ファーストステージは私と現代朗読の野々宮卯妙と、それからシークレットゲストの某歌手の方。
仕事とは別にプライベートに参加協力してくれたので、お名前は伏せておく。
セカンドステージは駆けつけてくれたげろきょのゼミ生が何人か、多彩な朗読を聴かせてくれ、非常に楽しく充実したライブとなった。

板倉克行さんは何年か前からげろきょの、とくに野々宮卯妙や照井数男、そして私をかわいがってくれて、なにかとライブのチャンスをくれた方で、そのことで私たちも非常にたくさんの学びと気づきをいただいた恩人のひとりだ。
事故で入院され、少しずつ回復されているということだが、まだまだ退院できる見込みはない。
せめて私たちのできることを、ということで、応援ライブをやって、その収益を全額義援金にさせてもらうことにした。
協力していただいたスウィート・レインさんには感謝。

板倉さんのことを思いながらも、ライブはライブで非常に楽しく盛り上がった。
前半は夏目漱石の「夢十夜」を3話つづけてやったのだが、まるで朗読歌謡ショーといってもいいような流れになって、盛り上がった。
後半はゼミ生たちが入れ替わり立ち替わり、文学作品や私の書いたテキストを読んでくれて、こちらはいつものようになんでもありのフリーセッション。
このようなライブハウスで自由にやらせてもらえることの幸せをかみしめた。

投げ銭制だったのだが、たくさんの義援金が集まって本当に感謝。
最後にだれの発案だったのか(教えてね)、色紙が出てきて、板倉さんへのそれぞれの思いのこもったメッセージを書きのこして、お開きとなった。
このライブの幸せな余韻は、いまだに私のなかに色濃く残っている。

来月8月1日(木)は板倉さんの誕生日だ。
その日にもまた、応援ライブをスウィート・レインでおこなうことになっている。
ぜひ皆さん、いらしてください。

からだでピアノを弾く

これはなにもピアノ演奏に限ったことではないのだろうが、今日はピアノを演奏する、という行為について書く。

私は10歳のころからピアノを弾きつづけてきて、現在(56歳)にいたる。
46年間、ピアノ演奏をつづけてきたわけだが、その間の40年くらいはまったく自分の演奏ができていなかったということを、いま振り返って思う。
ピアノは弾けていた。
ある曲を楽譜どおりに弾いたり、コード進行にのっとってアドリブ演奏したり、といったことは「技術的に」できていた。
ところが、それが自分の演奏であったかというと、まったくそうではなかったと感じる。

自分の演奏とはなにか。
自分にしか弾けない音をだれかにとどけることだ。
楽譜どおりに弾いても、ただそれをなぞって弾くのと、自分のオリジナリティをもって弾くのとでは、相手にとどくものがまったく違う。
それは音楽が好きでいろいろなプレーヤーの演奏を聴いている人なら実感していることだろう。

ひるがえって、プレーヤーの側から見たら、そういう演奏はどのようにすればできるのか。

七年くらい前にアレクサンダー・テクニークというものに出会った。
そのときに自分の身体がおこなっていること/おこなってしまっていることに気づく技術を手にいれた。
もっとも大きな気づきは、自分はピアノの演奏を頭と手でしかおこなっていなかったのだな、ということだ。

身体全体の一部として頭も手もある。
体全体と連動してその質が一定以上にたもたれているとき、自分の音が変わる。
そのことをアレクサンダー・テクニークが教えてくれた(教えてくれた安納献先生、ありがとう)。

そのあと、板倉克行というピアニストに出会った。
彼はフリージャズの大家で、どのようにピアノを弾けばいいのかを、私にあらためて気づかせてくれた。
弾きたいように弾けばいいのだ、ということをご自分の身体でもって教えてくれたのだ。
私はさらに自由になれた。

最近、韓氏意拳という武術に出会った。
ここではさらに精緻に、驚くほどの緻密さをもって、自分の身体の声を聞く。
これはまだ始めたばかりで、まだまったくできないし理解もしていないが、この方向性に自分のオリジナリティを発揮するための有力な手がかりがあることを確信している。
先日来、ピアノを弾くたびに、身体の声を懸命に聞こうとしている。
まだかすかにしか聞こえてこないが、たしかに私の身体は私の浅はかな知識や技術を超えてなにかを私に伝えようとしている。

板倉さんは現在、事故で入院中で、リハビリをされている。
一日も早い退院と復帰を願って、昨日は中野〈Sweet Rain〉で応援ライブをおこなった。

私がピアノを弾くライブの次の機会は、7月14日(日)夜の下北沢〈レディ・ジェーン〉での「ののみずしゅんライブ」となる。
詳細はこちら