2013年8月16日金曜日

たとえばリップノイズの解決法についてもひとりひとり違う

昨日も音声表現スキルアップの個人セッションだった。
最近とくに、リップノイズ、表現のオリジナリティ、スキルの差別化、伸び悩み、そういった養成所のレッスンだけでは解決できない問題を感じている切実な人たちが、まるで駆け込み寺のように私のもとへやってくるようになった。

私は自分自身、声優でもナレーターでも朗読者でもないのだが、だからこそ伝えられることがあるのだと思っている。
今日は終わってからとくにその点について気づいたことがあった。

私のもとへやってくる声優たちは、みんな、声優(あるいはナレーターやアナウンサー)から指導を受けている。
今日の人はほかにもボイストレーニングを受けているといっていたが、それも歌手から指導を受けている。
つまり、実演者から指導されている。

実演者が指導する場合、「自分はこうやったらうまくできた」ということを伝えようとするだろう。
私だったらそうする。
それは一種の成功体験だし、生徒にも成功体験をさせてやりたいと思うのが指導者の本能だ。
しかし、そのことが生徒を不幸にする場合もある。

たとえば昨日のケースでは、リップノイズの悩みを持っている生徒に、「こうすればリップノイズはなくなる」という自分の方法を伝えたとして、その方法が彼女にも適用できるかどうかはわからない。
なぜなら、人の身体(口のなかも含めて)の構造はひとりひとり違うものだし、言葉を作る方法も違っている。
だれかがうまくいった方法がそのまま別のだれかに適用できるとはかぎらない。

実演者が生徒たちを指導するとき、自分のやりかたを伝えようとするだろう。
しかし、私の場合、自分のやりかたというのは存在しない。
そのかわり、どうすればこの人はうまくいくだろうか、という何百人、あるいはおそらく千人を越える人たちとひとりひとり真剣に対峙してきた経験がある。
そのことが私の指導スキルを保証しているのではないか。
ということに、昨日、気づいた。

声優学校や養成所の先生も何千人という生徒を指導した経験があるかもしれないが、それは自分の経験を一方的に伝えた経験にすぎないのかもしれない(そうでない人ももちろんいるだろう)。
そういう指導者の指導をうのみにして、いつまでも芽が出ない人がいたとしたら、それは不幸なことだ。
まじめな人であればあるほど、指導者のいうことを忠実に守ろうとするだろうし、げんに昨日の人も発音時における舌の位置について絶対的な「正しい指針」があるのではないかと信じていて、そのとおりに自分もやればいい表現ができると思っていたようだ。

そんなものはない。
あるのはひとりひとり異なっている身体構造であり、身体の使い方であり、しゃべりかただ。
いかにそのクオリティをあげるかについては、ひとりひとり違っていて当然のことなのだ。
私がこれまでつちかってきた経験は、たぶんそのことについて若干のお手伝いができるということなのだろう。