2015年5月12日火曜日

「瞑想」についての大きな勘違い

このところ瞑想に注目が集まっていて、いささか「ブーム」のような様相を呈している観もなきにしもあらずだが、そのようなときには注意が必要だ。
なにかが世間に知られ、広がっていくとき、ときに勝手な解釈ややり方がひとり歩きして、楽な方向やわかりやすい方向へと進んでいってしまうことがある。
瞑想についてもそのようなことが起こっているのではないかという危惧を、私は感じている。

まず押さえておきたいのは、瞑想は身体への注目がなければうまくいかない、ということだ。
瞑想はイメージトレーニングやリラクゼーションとはちがい、リアルな自分の身体のありよう、とくに感覚体としての実存在を浮き彫りにする行為である。
また、リラックスする、という方向性もちがう。

ある瞑想会で「目を閉じて、全身の力を抜いて、リラックスしてくださいね。眠ってしまってもいいですよ」といっているのを聞いて驚いたことがある。
もしリラックスしすぎて眠ってしまったとしたら、それは瞑想に失敗したということだ。

瞑想ではたしかに、言語思考を手放してなにもかんがえないようにするけれど、脳が眠ってしまうわけではない。
思考脳は休むが、逆に体感覚とそこからやってくる情報処理の部位は、むしろいそがしくなる。
身体条件は沈静化しているかもしれないが、感覚は研ぎすまされてくっきりとしていく。
眠るどころか、逆に生命力が活性化し、瞑想後は活力がみなぎっているはずだ。
全身が冴えわたって、自分のニーズが生きいきし、なにかをやりたくてしかたがなくなるだろう。

瞑想にはいるとき、すべての人(人間)にとってもっとも困難なのは「言語思考を手放す」という部分だ。
人はなにもしていなくても、あれこれごちゃごちゃとかんがえている。
自分がかんがえているということすら意識せずにかんがえている。
思考を完全に手放すのは、至難の技だ。
なので、さまざまな瞑想法があり、それぞれ言語思考を手放すための方法を提案している。

なかでもティク・ナット・ハン禅師の提唱している方法は簡便で、とにかく自分の呼吸に注目するというものだ。
これは釈迦がおこなっていたと伝えられるヴィパッサナー瞑想から来ているもので(と私は解釈している)、より緻密におこなうこともできるが、まずはおおまかにざっくりし呼吸を観察するだけでも一定の効果がある。

呼吸のほかに身体に注目する方法もある。
誘導瞑想では各人が身体に注目しやすいように、誘導者が身体の部位をとなえながら注目を誘導する方法が用いられることが多い。
これも有効な方法だが、そもそも言語を用いるためにそこから完全に離れるのはむずかしい。

私は音楽瞑想を15年くらい前からおこなってきた。
最初は瞑想とはいわず、ディープ・リスニングと呼んでいた。
しかしこれはもともとソニック・メディテーションという方法のひとつだった。
実際におこなってみると、明らかに瞑想効果があることがわかってきた。

音楽を瞑想に用いるとき、ひとつの罠がある。
これも人間の性というか、癖によるものなのだが、人には記憶力があり、それにともなう連想もある。
なにか音列やメロディを聴いたとき、自分の記憶のなかにある特定の曲にむすびつけたり、その曲を聴いた状況を思い返したりしてしまうことがある。
これが瞑想にはいるのを邪魔するのだ。
なので、私の場合、衆知のメロディは使わず、即興演奏を用いる。

演奏者自身も展開が予想できない即興演奏なので、比較的容易に思考を手放した純聴感覚に集中できる。
この音の流れに誘導されて、リスナーは楽に瞑想へとはいっていける、というのがこれまでの私の経験によるエビデンスだ。

瞑想には現代社会で大きなストレスを受けながら生きている人間にとって、たしかに有効な面があるといえる。
多くの人が自分自身に気づき、マインドフルに生きることで、共感と非暴力の世界が広がってくれることを、私は願っている。

「沈黙の朗読」に「音楽瞑想」がくわわり、来場の方にある種の「体験」を提供する、まったくあたらしいハイブリッドなパフォーマンスとなります。5月20日(水)20時から。