2015年7月5日日曜日

作品の読解(現代朗読)は客観的事実のみをあつかう

昨日の午前中は現代朗読基礎コースの今期3回めを開催した。
各コースにはゆるやかにカリキュラムというか、回ごとのテーマが設定されていて、いちおうそれにそって進行している。
3回めのテーマは「読解」。

現代朗読では、朗読表現そのものにたいするアプローチが他の朗読教室や講座とかなり異なっているのと同様に、読解についても独自のかんがえかたを持っている。

現代朗読で重視しているのは、テキストをできるだけ客観的にあつかう、ということだ。
たとえば、こういう読解はしない。

 ・作者について詳細に調べる。
 ・この作品を書いたときの作者の状況、環境などについても調べる。
 ・作品の背景を調べる。
 ・この作品にこめられた作者の意図、狙い、テーマを推測する。
 ・作品の舞台となった実際の場所に行って、想像をめぐらせる。

では、なにをするのだ、ということだ。
現代朗読の読解では、テキストそのものをあつかう。
そこになにが書かれているのか、どのように書かれているのか、ただその事実のみをあつかう。
そこに読み手の推測、想像、思いこみ、決めつけをまぎれこませることはしない。
作者がだれなのか、どういう状況で書かれたのか、といった情報も、表現にバイアスがかかる原因になるのでかんがえない。
可能なかぎりリアルに「作者の思い」とか「作品の意図」などを想像する方式もあるが、それをおこなうことは読み手としての主体を手放し、作品や作者に「読み方」をゆだねる、指示されることを許すことを意味する。

あくまで表現の主体は読み手であり、作品でも作者でもない、という立場を現代朗読は取るため、「読み方」を決定するのは徹底して読み手の側である、とかんがえる。

それがひとつ。
まず、テキスト。
朗読表現という「現場」にある、あくまでもリアルで、まぎれもない事実・事象としてあるもの。
テキストはまぎれもなくそこに事実として存在するリアルなものであり、それは動かないし、動かせない。

もうひとつ、おそらくたしかであろう存在事実として、読み手の身体がある。
それはたえず流動し、移り変わる存在だ。
動かない存在事実のテキストを、瞬間瞬間変転しつづける読み手という存在事実があつかう。
ここに朗読表現のダイナミクスがある、と私は感じている。

したがって、現代朗読の読解では、テキストを構造的に読み解き、ことばを音節・音素単位までつぶさに受け取ってその感触をなじませ、最終的には客観から「いまこの瞬間の自分自身のありよう」という絶対的主観へと進入するための道すじをつけることをめざす。

というふうにことばで解説しても、わかりにくいですね、はい。
気になる人はどうぞ体験してみてください。
7月の朗読体験講座は7月25日(土)夕方、羽根木の家にて。
詳細と申し込みはこちらから。