2015年11月12日木曜日

アズワンというコミュニティ(アズワン探訪記その2)

私たちが泊まっていたのは、ビジターハウスと書いたけれど、正式にはアズワン研修センターという。
朝、起きてみると、キッチンで弘子さんが朝食の準備をされていた。
広々したリビングで朝食をいただく。

朝8時半に研修センターを出発して、SCS(鈴鹿カルチャーステーション)に移動。
車で移動したが、歩いても行ける距離だ。
「歩いて行ける距離」というのはキーワードのひとつで、アズワンコミュニティのメンバーはみなさん、お互いに歩いて行ける圏内に住んでいる。
閉鎖的で囲われた区域に住んでいるわけではなく、鈴鹿市内の思い思いの場所に、思い思いの住居に住んでいるが、お互いにアクセスしやすい距離を確保しているのがポイントだ。

SCSもゆったりした建物で、はいったところにくつろげるソファが配置され、グランドピアノが置いてある。
一見して古いピアノだが、あとで触ってみて驚愕した。
これについてはあらためて詳しく書くことにする。

エントラントの奥は喫茶コーナーになっていて、だれでも自由にくつろげるようになっている。
トランジション世田谷 茶沢会のメンバーの伊藤万季さんもやっている「くるくるマーケット」が、ここにもあった。
だれでもここに不用品を持ってきて、ほしいものを持って帰ることができる。
自由交換マーケットだ。

インフォメーションがあり、ジョイというショップがあり、オフィスがある。
これらがアズワンでは重要な役割をになっていて、いわばコミュニティの中核部分といっていい。

喫茶コーナーで坂井さんに話を聞かせてもらう。
私の理解では、コミュニティの中核にはサイエンズ研究所があり、サイエンズスクールがあり、またアズワンが経営する会社や組織がいくつかある。
それぞれにまたがって所属している人もいるし、エンジョイメンバーのように財政を共有している太いパイプでつながっている人たちもいる。

地域外にもつながっている人がおおぜいいて、単発で探訪する人もいれば、たまにスクールに参加する人もいる。
継続的に訪れる人もいる。
集中的にスクールに参加する人もいる。

私たちが行ったとき、たまたま北九州から50日間の短期滞在(とご本人はおっしゃっていたが、十分長いと思うな)の吉岡さんと知り合うことができた。
吉岡さんは50日の間に集中的にスクールのプログラムにすべて参加され、合間にはコミュニティのメンバーのお宅を訪問したり、会社や組織で働く体験をされていたようだ。

アズワンに属する人たちは、さまざまな不安から解放される仕組みのなかにいる。
私もふくめて現代人が日常的に直面している不安——経済的な不安、健康の不安、老いの不安、コミュニケーションの不安、教育の不安、衣食住の不安、そういったものからどんどん解放されていくことによって、その人本来が生き生きと人間性を発揮できる環境を整えるということを、コミュニティ全体がサポートしている。
そういう仕組みができあがっている。

コミュニティで生活していて、すこしでも不安や不満があると、みなさんはすぐにオフィスやスクールに行って、場合によっては1週間のプログラムに参加する。
それを「調べ」といっているのがおもしろかった。
自分のなかで起きていることを調べるのが、スクールに行く主目的のように見えた。
だれかにたいする怒りや妬み、不平等感なども、自分のどういう心の動きで起こってくるのか「調べ」てみる。
NVCでいうところの「自己共感」に近い。

調べや自己共感ができれば、相手にたいする怒りや妬み、不平等感が消え、では自分はどうすればいいのかという答え(行動、リクエスト)が見えてくる。
お互いを尊重する方法が見つかる。
そこには対立はなく、ただ共感的なつながりのなかで思いやりをもって自分と相手を大切にすることを実践していくだけだ。

もうひとつ重要なこと。
研究所の人たちがコミュニティの理念をささえ、実践の方法を提案しているからといって、彼らがメンバーの上に「立って」いるわけではないということ。
一般社会のみならず、NVCでも起こりがちなのだが、たとえばNVCの創始者のマーシャル・ローゼンバーグと直接接したり関わりがあった人たちに無意識の「上」であることを感じたり遠慮があったり、あるいは長らく関わっている人にたいして自分は後発や新米だからという引け目を感じたり。
そういったパワーの差異感がアズワンにはまったくといっていいほど感じられないことが、私にはとても不思議だった。

そのことを訊いてみたら、明快な答えが返ってきた。
徹底的にフラットな関係をキープするために、常にスクールで自分のなかで起こっていることを「調べる」システムができている。
すこしでも人の上に立とうとしたり、あるいはだれかに圧迫されたりしたように感じたときは、それがなぜ起こるのか実際に「調べ」てみることを繰り返して、この上下関係がまったく、徹底的にないコミュニティを実現しているのだということがわかった。
そこに注ぎ込まれているエネルギーはハンパなものではない。
(つづく)