2016年9月14日水曜日

世界と、その理解のレイヤーの表層と深淵

小石川の見樹院で「地球交響曲ガイアシンフォニー」の連続上映会が滑川直子さんの主催でおこなわれていて、私は一番と二番をすでに観たんですが、つい先日は第三番を観に行ってきました。
第三番で焦点があてられるのは、カメラマンの星野道夫さん(故人)です。

星野さんを中心に、彼に関わったさまざまな人々や土地、その風景が登場します。
このシリーズは映像が美しいことはもちろん、全体に映像詩というか、まさに交響曲のような趣があるんですが、この三番はややメッセージ性が強まり、ことばが多く使われています。
星野さんが書いたことばだけではありません。

アラスカからカナダにかけて住む先住民族――いわゆるエスキモー――や、ハワイの先住民族の血を引く若者らが、星野道夫について語りながらも、海、森、大自然、人の英知についての深い洞察に満ちたことばをつむいでいきます。
そして宇宙物理学者のフリーマン・ダイソンと、かつては対立し絶縁状態にあったその息子のジョージとの交流なども、示唆に富んだものとして伝わってきました。

私がこの映画を観ながら、あるいは観終わってからもっともつよく感じたのは、自分をふくめ人間の英知というものは、どこまでも可能性のあるものではあるけれど、ものごとの理解はパイの皮のように折り重なったレイヤーになっていて、なにかひとつのことを理解できたと思っても、さらにその下にはより深い理解のレベルがあって、とうてい人知のおよばない深みがこの世にはあるのだ、ということです。
しかしえてして、なにかを理解したつもりになってそれ以上の探求をとめてしまったとき、私たちは決して世界の深みを見ることはできないのです。

また世界を理解することには深みだけでなく、アプローチがあり、ダイソンも語っていますが、科学もそのひとつの方法ではあるけれど、宗教や音楽、芸術、先人の知恵、儀式といったものもないがしろにできるものではないのです。

私は(私たちは?)世界理解のほんの表層にたたずんでいるにすぎず、とうてい人知のおよばない複雑で深淵なしくみで世界は存在していて、そのことにたいする畏怖の念を忘れたとき、自分自身もそれだけの表層的な人生しかあたえられないのだということを痛感します。
映画を観終わったいま、もっともっと英知のメッセージを、先人から、先住民から、ものいわぬ動植物や自然から、聞き取りたいという思いに私はかられています。

音楽瞑想ワークショップ@明大前キッドギャラリー(9.18)
ここ数年「音楽瞑想」として結実させたワークを、よりわかりやすく楽しめる形でみなさんとシェアします。深く自分自身の身体とこころにつながる体験を提供します。年内閉館が決まった明大前キッド・アイラックにて。