2017年10月1日日曜日

加速度的に成長していく表現者を見る喜び

昨日は現代朗読ゼミあらため水城(表現)ゼミだった。
参加者はひとり。
数か月前から参加してくれているゆきこさん。

ゼミでは参加者がひとりだろうが、複数だろうが、基本的におなじことをやる。
もっとも、ひとりでやれることと、複数人でやれることは、形式は違うのだが、内容はおなじだ。
いずれも、「表現するための身体」としての自分自身を観察し、なにが起こっているのか、どんなことが生まれようとしているのか、繊細に感受し、それを妨げない練習をする。

ちょっと抽象的な話だが、なにかを表現しようとする人のなかで起こっていることの話をしたい。
具体例として、ここでは「朗読」という表現行為を例にとってみる。

だれかがなにかを朗読しようとするとき、その人のなかでは、たえず、
「こう読まねばならない」
「間違えてはいけない」
「はきはきと、はっきりした声で読まねばならない」
「イントネーションを間違えないように」
「意味の区切りを明確に」
「滑舌は明瞭に」
などといった、たぶんだれかから指導されたり、みずから思いこんだり、後天的に身につけてきたなにかこれが正しいというような「外部的基準」に、自分の表現をあてはめようとしてしまう。
無意識に。

この無意識の働きから逃れることはけっこう大変なのだが、これらがその人本来ののびやかさや、絶えずいきいきと変化しつづけている生命現象をあらわし伝えることを、著しく阻害している。
この働きに気づき、それらをやめていけるかどうか、という試みにはいっていくところが、まず私がおこなっている表現の稽古のスタート地点となる。
いや、スタート地点より手前の作業かもしれない。

スタート地点というのは、それらに気づき、ある程度「外部的基準」を手放せるようになったところだろう。

外部的基準を手放すためには、別の基準を自分で見つけるのが手っ取り早い。
私が提案する「別の基準」とは、「内的基準」のことで、つまり自分自身に目を向けることだ。
実際にワークをやってみるとわかるが、自分自身はたえず変化し、動き、流れつづけている。
また内的・外的にかかわらずさまざまな刺激(情報入力)にたいして反応しようとしている。
それらに目を向け、自分が動こうとしたがっていることを妨げず、方向性を保持してあげること。

表現ゼミではそんなことを一貫してやっていて、残念ながら最初はちょっとわかりづらい。
にもかかわらず、ゼミ生たちはゆきこさんにかぎらず粘り強くついてきてくれていて、やっているうちにすこしずつ見えてくるものがあるようだ。
とはいえ、それはかすかな兆候であって、手応えのような強いものは得にくい。
むしろ、手応えを感じたときは、それは間違いである可能性が高い。
自分が自然に、のびのびと、いきいきとやれているとき、実は手応えというものはほとんどないのだ。
自然にやれていることだから。

昨日はゼミ生のゆきこさんをテスト収録してみた。
彼女はハンセン病をテーマにして中国人作家・林志明が書いた短編集『天使在人間』(訳・鄧晶音)を、いずれオーディオブックにして配信したいという目標を持っている。
人に聞いていただくだけのクオリティのものを目指しているわけだが、そのクオリティは「上手」とか「正しい」ではなく、いかに「正直にゆきこさんらしいものであるかどうか」という基準だ。

身体(生命活動)に注目すること、自分の身体が受け取っている外的刺激とその反応を拒否し邪魔しないこと、その方向性をゆきこさんはまだ頼りないながらもきちんとつかまえていて、ここ数か月のあいだにみるみる表現のクオリティとオリジナリティが進化していく姿に、私自身がびっくりしているし、昨日は本当にうれしかった。

昨日は「わずかな思いやりに、心を打たれて涙する」という短編を読み、私もピアノの即興演奏で参加してみた。
ごく短い抜粋だが、記録映像を紹介したい。
ここからどこまで「ゆきこさん自身のナマの生命活動」としての表現クオリティを高めていけるのか、これからが楽しみだ。

映像はこちら