2018年1月31日水曜日

YouTube:相手に向かい合わない縁側共感モード

共感音読カフェの記録映像から一部を抜粋して紹介します。

よく相手の話をちゃんと聞こうとするときには、相手にきちんと「向かい合いなさい」といわれます。
本当にそうでしょうか。
昔、縁側で、おばあちゃんやお母さんがなにか仕事をしている横で遊んでいた記憶がある人がいるかもしれません。
そのときのお互いの安心感は、共感的身体の基本ではないかと、水城は考えるようになってきています。

映像はこちら

2018年1月30日火曜日

共感的コミュニケーションにおける四つの共感モード

共感的コミュニケーションにおける三つの心がけ「AMO」について、イベント告知やYouTube映像などですでに紹介しているが、くわしくはあらためて書くとして、今回は「四つの共感モード」について書いてみたい。

共感的コミュニケーション(NVC)を学びはじめて間がなかったり、練習がかなり進んできたような人でも、ともすればおちいりやすい罠に、
「いつでも共感的であらねばならない」
という、一種の強迫観念に似た「自分教育」が生まれることがある。
相手に対しても自分に対しても、いついかなるときでも、つねに共感的であり、自分と相手を尊重し、思いやりをもってつながることをめざすことを「自分に強要」してしまう。
しかし、そんなことはなかなかむずかしいし、つらい。

もちろん、それは共感的コミュニケーションがめざす世界であり、姿勢であり、理想ではあるが、共感にもさまざまな「濃さ」や「姿勢」や「ベクトル」があるということを、ここでは説明しておきたい。
以下は私の経験から得られた分類であって、マーシャル・ローゼンバーグがそのようにいっているわけではないことをお断りしておく。

共感的世界にもいくつかの「モード」があって、私はそれを四つに分けている(現時点で)。

 1. 積極共感
 2. 表現共感
 3. 文字共感
 4. 縁側共感

「積極共感」は自分と相手のニーズにつながり、お互いにそれを大切にしあうことに意識を向けるモードだ。
みなさんがNVCのワークショップや講座、リトリートなどで普通に学ぶ姿勢だ。
共感的コミュニケーション(NVC)を学んだりトレーニングするというのは、ふつうにこのモードをさすだろう。

「表現共感」は、自分がなにかを表現することを通じて自分自身と深くつながり、またその結果としてコミュニケーションが生まれ、お互いに評価を離れてつながりあうモードをさす。
音楽でも美術でも演劇でも、なんでもそうなのだが、いざ自分を表現しようとするとき、そこにはさまざまな恐れや痛みがあったり、ニーズが見え隠れしていることに気づく。
それに向かい合うことで、自分につながり、自分の本来的ないきいきさを取りもどしたり、のびやかに能力を発揮することをめざす練習をする。
私が現代朗読ゼミや身体文章塾でみなさんといっしょにトライしていることだ。


「文字共感」は、文字通り文字で――テキストで共感的コミュニケーションを試みることだ。
メールやSNSでのメッセージのやりとりでは、しばしば誤解、行き違い、対立が生まれることを経験している人が多いだろう。
書いたことの意図が伝わらない、「そんなつもりで書いたんじゃない」と憤慨してしまうような受け取り方をされてしまう、あるいは相手がなにを伝えようとしているのかさっぱりわからない、そういうことが起こる。
テキストという非常に限定された情報交換において共感的に相手とつながり、理解しあう試みをするモードが、この文字共感だ。
これはいままでしばしば「難しい」といわれてきたし、私もそう思っていたけれど、トライしてみる価値はあると最近感じはじめている。
これについては本を一冊書きたいと思っているくらいだが、とりあえずは共感文章講座でのワークでみなさんと確かな体験を共有しているところだ。

最後の「縁側共感」は、ごく最近気付いた共感的身体のモードだ。
縁側で日向ぼっこしながら、編み物したり料理の下ごしらえをしたり、あるいは子どもが自分の宿題をしたりと、お互いが自分のことをしながらもなんとなくお互いに耳を傾けている。
けっして向かい合うわけではないが、受け入れあっていて、それぞれが「そこにいる」という自然な安心がある状態。
積極的な共感ではないが、自然でありのままで、とても心地よいあたりまえの共感的な関係。
特別なことではなく、ごくありふれて日常のなかでそのようなモードでいられればいいと思う。

これら四つのモードを使い分ける、というより、時と場合に応じて自分が必要な共感のモードにスッとはいっていくことができれば、共感にあふれた世界を創造していくことができるのではないだろうか。

四つのモードにはそれぞれの練習方法がある。
根幹には共感的コミュニケーション(NVC)という原理がいずれも働いているのだが、その働きの方向や強さが異なっている。
そのことをうまくつかまえて、効果的な練習をおこない、共感力を身につけていくことができれば、人生はずいぶんいきいきとするのではないかと私は思っている。

1月31日:共感編み物カフェ@国立春野亭(オンライン参加可)
編み物をしながら、お茶を飲みながら、ゆるく共感しあう場。まるで昭和の家の縁側のような安心できる居心地となる予定です。編み物ができない人ややりたくない人も歓迎。午後3時から8時まで、出入り自由。

2018年1月27日土曜日

YouTube:いまやっている仕事をやりたくないと思ったとき

共感音読カフェの記録映像から一部を抜粋して紹介します。

共感的コミュニケーションでは「自分のやりたいことだけやりなさい」と教えます。
なぜなら、自分がやりたくないことを無理にやっていると、自分と他人を損ないつづけることになるからです。
では、いまやっている仕事がいやで、やめたい、もうやりたくないと思ったときはどうすればいいのでしょうか。

映像はこちら

2018年1月26日金曜日

YouTube:コミュニケーションにおける「姿勢(非言語情報)」の重要性

共感音読カフェの記録映像から一部を抜粋して紹介します。

人と人のコミュニケーションにおいて、交わされるの言語情報だけではありません。
そのことばがどのように発せられているのか、そこにどんな感情がこめられているのか、どんな調子なのか、具合が悪いのか、あるいは活発なのか。
自分が相手に対して敵対的であるのかそうでないのか、共感的であるのか、ということも伝わっています。
その情報は、こちらの「姿勢」から発信されているもので、共感的コミュニケーションでは「思いやりの姿勢」とでもいう態度を持つことで、相手との自然な共感をめざします。

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2018年1月24日水曜日

朗読、声、身体、全体性をつかまえる

このところ現代朗読のワークがすこし注目され、じわりと参加者が増えていることはすでに書いた。

 じわり「現代朗読」ふたたび
 現代朗読で「読む」のは本ではなく自分自身

基本的に国立市の春野亭で稽古しているが、ちょくちょく出張ワークショップをおこなったり(中京や関西方面)、都内での講座を持つ機会がある。
残念ながらこの1月いっぱいで閉店となる三軒茶屋の〈カフェ・オハナ〉でも、隔月で野々宮卯妙が現代朗読のワークショップを開催していた。

オハナは完全に店がなくなってしまうということではなく、本拠地を瀬戸内の大三島に移して、ゲストハウス付きカフェとして存続するのだが(すでにサービスしている)、三茶の店でのワークショップがなくなってしまうことを残念に思った人が、別の場所での開催を提案してくれた。
それが、池尻大橋の〈アカシデカフェ〉というわけだ。

オーナーの有紀さんがよくご理解してくれて、毎月、朗読のワークショップを開催させてもらえることになった。
私と野々宮卯妙が交代で案内役をつとめる予定だ。
そのパイロット版として、まずは朗読リサイタルを、ということになった。
といっても、かるいレクチャーとワーク付きになる予定だ。

現代朗読がめざしていることや、実際におこなっていることは、いわゆる一般的な朗読とはかなり雰囲気を異にしている。
現代朗読では、「本を上手に読めるようになる」ことをめざしてはいない。
なにをめざしているかというと、「本を読んでいる自分自身の生命現象をあらわし伝えること」をめざしている。

本を読む、というのは、声を使ってテキスト情報を伝達することだが、テキスト情報以外にとても豊かなものが伝わる。
声を出すという行為は、呼吸や姿勢をはじめ、身体全体を使っていて、身体表現といってもいいと私はかんがえている。

また、人間の表現行為のなかでも、音声表現は自分自身の写し鏡のように「自分の内容がダイレクトにあらわれる」ことが起きる。
自分自身のいまこの瞬間に起きていたり受け取っていることに気づきつづけてなにかを読む人と、そうでない人とでは、なにかが決定的にちがう。
なにがどうちがうかは、実際にやってみればわかる。

朗読しながらも自分の身体の変化に注目し、自分自身に気づきつづける練習をするというのは、自分がいつも全体性を持ち、自分自身といっしょに居続けることの練習でもある。
この練習は、日常生活のなかでも力を発揮する。

アカシデカフェでのワークショップではそういうことを伝え、いっしょに練習したいと思っているし、そのパイロット版のリサイタルでは方向性を知ってもらい、その一端を体験してもらえればと思っている。
朗読に興味がある人、あるいは朗読には興味はないけれど表現に興味がある人、自分自身の本当の声とか全体性に興味がある人、そういった方々に気軽にご参加いただきたい。

1月25日:朗読への招待@池尻大橋
駒場の住宅街の一角の〈アカシデカフェ〉で「朗読への招待」をスタートするにあたり、1月25日(木)15時から朗読リサイタル+ミニ講座(ドリンク付)を開催します。

YouTube:NVCの学びの問題点とその克服

共感音読カフェの記録映像から一部を抜粋して紹介します。

共感的コミュニケーション(NVC)を学びはじめたり、学びが進んでいく過程で、いくつかの問題が生じてくることがあると、私・水城自身の経験から感じています。
たとえば、NVCにはその練習のためのすぐれた方法がいくつか用意されているし、また現在もトレーナーなどによってさまざまなアプローチが考案されつづけています。
すると、その方法を練習することが、NVCの意図や本質とは別に目的化してしまうことがあります。
また、練習方法に忠実にあろうとするあまり、知識や思考に偏りがちな傾向も出てきます。
それをどうやって克服するかは、大切な問題だと考えていて、共感音読カフェでは声や呼吸、身体、そしてNVCの本質にもどることを、いつも練習しています。

映像はこちら

2018年1月23日火曜日

縁側における身体性が日本人の共感的身体

編み物しながらこうかんがえた。

私の世代以上の年代の者の感覚かもしれないけれど、家には縁側があって、そこでおばあちゃんや母が豆のからをむいたり、編み物したり、繕い物をしている。
晴れていれば、にわとりが放されている庭先でアリンコを観察したり、雨ならば縁側で本を読んだり積み木をして遊んでいる。
自分の横にだれかがいる安心感があり、いつでも話を聞いてもらったり、話をしてもらったりできる。

自分がそこにいて、気を許せるだれかもそこにいるという感覚。
そしてそのだれかは決していなくなったりしないし、一時的に席をはずしてもまたすぐにそこにもどってくる。
それを信頼できるから、安心していられる。

祖母や母のようすは、自然で、ただ自分の仕事にマイペースで没頭している。
しかしいまの人間がスマホやゲームに没頭したり、テレビをぼんやり見ている状態とは違う。
これはうまく説明できないのだが、スマホやゲームやテレビは、「人がそこにいる」という感じを奪ってしまう。

幼い子どもを見ているとわかるのだが、いっしょにいるママがスマホを操作していると、必死に気を引こうとする。
ときには危険なことをやらかして、身を呈して注意をこちらに向けさせようとさえする。
それはあたかも、だれか悪人か悪魔に連れさられようとしているママを、必死に引きもどそうとしているかのようですらある。

子どもにとって、まさに「ママがここにいない」という、恐怖に近い感覚に襲われるのではないかと思う。
そう思ってまわりを見回すと、まさに「ここにいない」人がたくさんいる。
ネットでつながったバーチャルな世界、あるいは自分の脳内で作られた思い出や思考や妄想の世界。
そこに「囚われの身」となっているママを感じたとしたら、子どもにとっては本当に悲しく、恐ろしいことだろう。

しかし、昔はよかった、というような話ではなくて、縁側にいた祖母や母はたしかに「そこにいた」。
それが安心だった。


共感的コミュニケーションにおいていつもいわれることは、まず自分自身につながっていることが重要だということ。
それはたしかにそうであって、自分自身につながっていない人間がだれかに共感しようとしたり、役にたとうと懸命になっても、うまくいかないし、ときにはそれが相手にとって迷惑だったりする。
また、よからぬことを引きおこしてしまうこともある。
自分自身につながってなにごとかをおこなうことが重要なのだということを、だれもが経験的に知っているし、同意してもらえることだろう。

では、自分自身につながっているとはどういう状態なのか。
共感的コミュニケーションでは、それは、「自分のニーズを理解し、体感している状態」とする。
自分にとっていまなにが必要で、どんなことを大切にしているのか、そのことを自分自身が理解し、身体でも実感していること。
そんなとき、人はいきいきしている。
自分のニーズを満たすためにどんな方法があるか、どんなことができるのか、虎視眈々と狙っている状態といってもいい。

しかし、もうすこし自然体な自己共感もあるのではないかと、私はなんとなく感じていた。
「自分と向き合う」
「自分自身を理解する」
「自分につながる」
などの表現に、どことなく引っかかるものを感じていた。

また、だれかに共感し、つながろうとするとき、
「相手に向き合う」
「相手の感情とニーズにスポットをあてる」
「相手を受け取ることに集中する」
ということを心がけるのだが、そこにもなんとなく違和感を覚えていた。

最近、その違和感の原因が明確になった。
それは「向き合う」という姿勢がなんらかの理由によって苦手だということだ。

縁側の話にもどるが、いつもそこにいて話を聞いてくれる母も祖母も、けっして私とは向き合っていなかった。
彼女たちはただ自分のことをしていて、しかし同時にこちらにも耳を傾けていて、どちらも積極的な感じはどこにもなかった。
自分のことをするのも、私の話に耳を傾けるのも、ついでにいえば遊んでいる私を見守るのも、積極的にではなく、自然に、ごくふつうにおこなっていた。
そのことが私を安心させていたのだ。

共感的コミュニケーションにおいて、もっと自然に、ふつうに人と人がつながって安心しあえる関係を持つことはできないだろうか。


編み物にもどる。
私が編み物(かぎ針)をはじめたのはわりと最近で、たぶん五、六年くらいしかたっていない。
男が、とめずらしがられることもあるが、最近は編み物男子も増えてきたらしい。
また、私の母は編み物をはじめ、和裁、洋裁、日本人形など、手先が器用な人で、おさない頃からそういうものに親しんでいた。
なので、抵抗なく、なんとなく編み物をはじめた。

はじめてみるとおもしろくて、我流だけど本を見ながら、あるいはYouTubeを参考にしながら、いろいろなものを作ってみた。
最近は帽子や網バッグ、スマホポシェットなどをよく作るが、たのまれてアクリルたわしもたくさん作った。
これは単純な模様編みで、ほとんどなにもかんがえなくてもどんどん編める。
単純作業なので、編みながらラジオや音楽を聴いたりする。
じんわりと楽しい時間だ。

私はこの時間を、時々「お祝い」の時間にあてている。
満たされたニーズを振り返って味わう時間だ。

編み物をしながら人の話を聞くこともできる。
共感カフェのとき、編み物しながら参加者の話を聞くこともある。

あるとき、共感カフェで編み物していたら、びっくりされた。
人の話を共感的に聞くというのは、その人にきちんと向かい合い、話を完全に受け取り、集中して感情とニーズに注意を向けることだと、その人は習ったというのだ。
たしかにそのとおりで、私もかつてはそう思っていたし、そのように聞こうと努力していたこともある。
しかし、あるときから、そんなにがんばって聞こうとしても受け取れないし、逆になにか大事なものを受け取りそこなうこともある、また相手にとってもそんなふうに全力で聞かれるのは一種のプレッシャーになるのではないか、と思いはじめて、がんばって聞くことはやめた。

そして最近、縁側にいた母や祖母のことと、自分が楽しんでいる編み物が結びついた。
編み物をしている自分は、たしかにそこにいて、自分につながっている。
編み物に熱中してほかのことに気づかないわけではなく、まわりのようすもゆるやかに受け取っていて、人が話をしていたらなんとなくそれを聞いている。
話の内容だけでなく、その人のようすも感じている。
ことばの情報と、その人から発せられる感情や雰囲気も「取りに行く」ではなく、自然に受け取っている。

この体感覚が私にはとてもしっくりくる。
編み物をしながら人の話を聞くとき、とても自然に共感が生まれ、相手も気楽に話したり、結果的に自分のニーズに気づいたりできる。
まさに縁側的共感といえる。

というわけで、共感編み物カフェを企画した。
編み物カフェは世の中にすでにたくさんあって、私も国立の富士見通りにある〈アブサラクリコ〉の会員なのだが、これはあくまで「編み物」が目的。
編み物の技術の上達や、作品を完成させることが目的。
共感編み物カフェは、それもあるけれど、同時に共感的に話を聞いたり、ただ安心してそこにいたり、居合える(変なことばだけど)ことを楽しんだり、を目的とする。
興味がある方は気軽においでください。


1月31日:共感編み物カフェ@国立春野亭(オンライン参加可)
編み物をしながら、お茶を飲みながら、ゆるく共感しあう場。まるで昭和の家の縁側のような安心できる居心地となる予定です。編み物ができない人ややりたくない人も歓迎。午後3時から8時まで、出入り自由。

2018年1月21日日曜日

「命の有効活用」のニーズ

あまり聞いたことはないけれど、表題のようなニーズがたしかに私にはある。
みなさんはいかがだろうか。

年齢を重ねるにつれ、このニーズは大きくなるような気がする。
いや、もともとあったニーズだけど、年齢がそれを意識させるようになってきたのかもしれない。
すべての人にひとしく流れている時間という現象、そのなかにあって、私に与えられた命の時間がたしかに残りのカウントダウンをはじめているような感じがある。
いまこの瞬間を生きていることにはまちがいないのだが、観念としての残り時間があり、いわばその「思念」が「我想」として一種の圧力を私にかけている。

このニーズが活力を生んでいるときはいいのだが、きちんとつながれていないときに自分のなかで怒りやあせりなどの感情を生むバックグラウンドモードとして働いてしまうことがある。

だれかと時間を約束して待ち合わせしていたのに、無為に待たされてしまったとか……
がんばってなにかをやったのにうまくいかなくて全部無駄になってしまったとか……
人の役に立ちたくてそういう場や機会をもうけたのに、思ったように人が集まらなかったとか……

私の場合、このところ、自分が主催したり案内人をつとめている共感カフェの場に、思うように参加者が集まらないということが何度かあった。
せっかく移動時間、拘束時間、移動経費といったリソースを割いて出向いたのに、参加者が全然集まらないということがつづいた。
そんなとき、自分のリソースを金銭換算して、まったく見合わない、自分の時間が無駄だった、命の有効活用のニーズが満たされなかった、と思ったりする。

しかし、本当にそうなのだろうか。
私たちは、いや私は、命の活動を金銭に換算する癖が身についてしまっている。
そうではなくて、本来私は、金銭に換算できない命のニーズにしたがってこれらのことを始めたのではなかったか。
いまもなにごとにも換えられない大切なニーズを満たそうとして、自分の時間を使っているのではないか。
そのことにもう一度接続してみる必要がある。

そうはいえ、やはり命を有効活用するには、その効果や効率も大切なファクターだ。
ならば、有効活用のニーズにつながったまま、自分の行動や計画を洗いなおしてみればいいだろう。

最近はそんなことをかんがえながら、自分のおこないを振り返ったり、計画したりしなおしている。
余談だけれど、そんなとき、マインドフル手帳術がけっこう役に立ったりするんだな。
この手帳術を広めたい、知ってもらいたいというのも、私の命の有効活用のニーズに含まれる「貢献のニーズ」なのだろう。

心身の健康向上・調整・未病・活力向上に力を発揮する音読療法(ボイスセラピー)と、人間関係や自分自身とのつながりの質を作ることに力を発揮する共感的コミュニケーションを組みあわせていいとこ取りをするカフェ形式の勉強会、2月の開催は3(土)/10(土)/19(月)/24(土)、いずれも14時から約3時間です。

2018年1月20日土曜日

YouTube:ダンサーとしての朗読者のトレーニング法(現代朗読)

現代朗読ゼミの模様の記録映像から一部を抜粋して紹介します。

現代朗読ではしばしば、朗読者は身体表現者であり、その身体に向ける感受性はダンサーと同等のものである、といういいかたをします。
その瞬間の身体への注意深さをもって朗読している人と、そうでない人とでは、表現のクオリティがまったく違うという考え方です。
そのためにどんな練習をするのか、その方向性について、話をしています。

映像はこちら

2018年1月19日金曜日

音読療法の現場は命の交流の場

毎月恒例の富士見台の高齢者介護施設でのいきいき音読ケアワークに行ってきた。
もう何年つづいていることだろう。
私と音読療法士の野々宮はスタート時から行っているが、サポートメンバーはいくらか入れ替えがある。

ここに限らず、音読ケアワークの現場は音読トレーナー養成講座を修了した人の実践経験の場としても活用させてもらっていて、講座終了後も実践レポートを提出してもらうことになっている。
その後、正式にトレーナーとして認定される。

今回は去年の初夏に養成講座を修了した石原真奈美さんが参加してくれた。
彼女はすでに現場での実践を何回も経験し、レポートも規定数の提出を終え、正式に音読トレーナーとして認定されているのだが、その後も自分の経験とケアワークの場への貢献をつづけてくれているのだ。

若い彼女がワークの進行役をつとめることで、現場の雰囲気はだいぶ変わる。
ちょっとほんわかした感じのある優しいキャラクターが、みなさんを安心させるのか、なごやかな雰囲気がただよう。

音読トレーナーはみなさん、それぞれ独自のキャラクターがあって、それによって雰囲気は変わるのだが、そのことを音読療法では「よし」としている。
根幹のワークの部分や、目的と理念と共感をはずさないかぎり、場の進行は最大限トレーナーに任されている。
もっともそれゆえに、トレーナー資格を取得後も実践経験と学びを積んでいってほしいのだ。

毎月行っていて、参加の皆さんも顔ぶれが決まっている人が多いのだが、そうでない人もいる。
初めて参加する人、たまに参加する人。
逆に、いつも来ていたけれど見えなくなった方。
また、前回から健康状態が変化した人。

変わりなくお会いしているように思うけれど、実際にはみなさんも、そしてこちら側も、すべての人に平等に流れている時間のなかを動きつづけている。
その場にとどまりつづけている人はいないし、永遠につづくはずもない。

高齢者施設に行くと、日常よりも時の流れを感じることが多いし、また自分自身の命の時間についても感じることがある。
ほんの1時間ばかりだが、お年寄りたちといっしょにすごす時間は私にとってとても貴重で、命の響きを味わう時間となっている。

みなさんと命の時間を味わうためのひとつの方法として、音読療法があって本当によかったなと、毎回思う。
みじかい時間だが、みなさんと顔を合わせ、呼吸と声を合わせ、談笑し、ときに手を取り合い、そして1か月後の再開を約束しながら別れる。
その約束が果たされない人もいるし、果たされる人もいる。
永遠にはつづかないとわかっているがゆえに、この時間を大切にしたいと思っている。

ところで、しばらく音読トレーナー養成講座が開催できていなかったが、すこし先のゴールデンウイークの前半くらいに、これまでどおり二泊三日の合宿形式で開催する準備を進めている。
興味がある方はどうぞお知らせください。
日程や参加方法(費用のことも含む)について気楽にご相談いただければと思う。

呼吸や声を使って自分自身や身近の人を癒し活力を養うボイスセラピーの概要を学び、身につけるための講座です。この講座の受講修了が音読トレーナーの資格取得講座の受講要件となります。2月11日(日)10時からJR国立駅徒歩5分の会場にて開催。

2018年1月18日木曜日

MacBook Pro のダウングレードを決行

いつからなのかもはやさだかではないが、私のメインマシンは仕事もプライベートもここ10年くらいずっと、MacBook Pro を使ってきた。
たしか最初が MacBook Pro 15インチで、もちろんハードディスクを内蔵しているタイプだった。
それで執筆はもちろんのこと、オーディオブックの収録から編集、音楽製作、映像編集まで、なんだってこなした。
ハードディスクの容量を増やすための換装を何度もやったし、ソリッドステートドライブ――フラッシュメモリを搭載したSSD――が出てきたときにはその換装も手慣れたもので、あまり使わなくなったCDドライブを取りはずしそこにハードディスクを移動させ、メインのドライブにSSDを入れて改造したりもした。

その後、最初からSSDを搭載した MacBook Pro 13インチに乗りかえ、それを長らく使っていた。
途中、サブマシンとして MacBook Air や無印の MacBook(12インチ)を使ってみたこともあるが、メインは13インチのProだった。

一昨年の暮れにタッチバーを搭載した MacBook Pro が出たとき、長らくモデルチェンジをしていなかったProシリーズがいよいよ満を持した感があったので、思いきって15インチに乗りかえ、この一年あまり使いこんでいた。
広い画面はなかなか快適だったが、なにせ重いのと、タッチバーは(私の使い方では)無用の長物だったことと、キータッチが不満だったのとで、なんとなく残念な感じがつづいていてすっきりしなかった。

いろいろ考えて、この際、思いきってダウングレードすることにした。
15インチを下取りに出し、13インチのタッチバーではないノーマルタイプのProに乗りかえることにしたのだ。

それを、今日、韓氏意拳の稽古の合間にそれを完了した。
いやー、はっきりいって快適。
ダウングレードを決断してよかった。
キーボードもJISからUS配置にもどした。
私はかな入力派なのだが、かなが印字されていないUSキーボードでかな入力するという、変態的なスタイルも気にいっている。
日本語入力のための切り替えやキー配列の多少の交換などは、Karabinarという常駐ソフトを使っている。

ちょっとした便利ソフトをちょこまかと使っているのだが、それらについてはまたあらためて紹介したい。

2018年1月17日水曜日

共感的コミュニケーションにおける「契約」問題

15日(月)の午前11時から、共感音読カフェを開催した。
平日の開催で参加者があまり多くなく、ときには参加者がいなくて開催が流れてしまうこともあったので、今年から基本的に土日に開催しようかと思っていたのだ。
自分のリソースの有効性と持続性のニーズにためだ。
とはいえ、平日日中の開催を望む声が何人かから届いたので、それに応えることにした。
こちらは貢献とつながりのニーズを満たすためだ。

15日は旧ゼミ生のヤザワちゃんが直接国立に、鈴鹿のえりこさんがオンラインで参加してくれた。
ヤザワちゃんはとくに話したいこととかやってみたいことはなくて、ただ私の顔を見に来ただけだといっていたのだが――それはそれでうれしくありがたい――、話をしているうちにいろいろ出てきて活発になった。
えりこさんはちょっとした気がかりがあって、それをシェアしてくれた。

いずれも家族のような親密な関係の相手とどのようにつながるか、気がかりがあるときに自分にどんなことが起きているのか、気づいたり、自己共感したりする時間となった。
私にも大きな気づきがあって、ありがたいと思った。

とくに私にとって大きかったのは、共感的コミュニケーションにおける「契約」についてだ。
契約、なんていうと、なんとなく共感的コミュニケーションにはそぐわない言葉のように聞こえるが、通常の社会的な意味とはすこしちがう意味がこめられている。
「お互いのニーズを満たすために、お互いに合意した上での約束ごと」

子どもがお母さんになにかを約束する。
お母さんも自分のニーズを伝えて子どもの約束を聞き入れ、自分も約束をする。
この契約においてもっとも重要なことは、もし契約がやぶられたときにどうするか、だ。

通常の社会契約においては、契約違反にたいしては罰則が適用されることが多い。
罰則が契約の履行の確実性をうながすとされている。
しかし、共感的コミュニケーションにおいては、罰則という考え方はない。
もし約束が履行されなかったとき、そのニーズに共感し、また満たされなかったお互いのニーズについてももう一度確認しあう。
その上で、契約の見直しをする、というプロセスを踏む。
そうやって繰り返しニーズを確認し、契約を更新していくことで、お互いに大切にしあえる人間的な関係性を粘りつよく作りつづけていくのだ。

ところで、今年から共感カフェに音読カフェも合体した欲張りな内容にすることにした。
しかし、ここで問題がひとつ。
オンラインで遠隔参加している人と、どのように音読エチュードをやるか。

実際にやってみたことがあるのだが、音読エチュードの群読をやろうとしても、ネット経由だとタイムラグが生じて、同時読みがずれてしまうのだ。
エコーのようになってしまって、うまく合わせることができない。
なので、同時になにかを読むエチュードはできないことがわかっている。
しかし、音読エチュードはほかにもさまざまなものがあるので、タイムラグがあっても大丈夫なものを採用すればいいし、あらたにそういうものを考案してもいいだろう。

そんなわけで、次回の共感音読カフェまでに、ネット参加者もタイムラグを気にせずに参加できる音読エチュードをいくつか用意しておくことにした。
遠方の方も、自宅からの方も、どうぞチャレンジしてみてください。

次回の共感音読カフェは1月20日(土)午後2時からの開催となっている。
またその前には、私が出向く共感カフェが3つ連続である。
17日(水)夜に下北沢の旅カフェ〈ステイハッピー〉で、18日(木)午後にやはり下北沢のカフェ〈かまいキッチン〉で、19日(金)昼に国立の古本カフェ〈門〉で、それぞれ共感カフェを開催するので、タイミングがあえば気軽にご参加ください。

1月開催:共感音読カフェ@国立春野亭(オンライン参加可)
心身の健康向上・調整・未病・活力向上に力を発揮する音読療法(ボイスセラピー)と、人間関係や自分自身とのつながりの質を作ることに力を発揮する共感的コミュニケーションを組みあわせていいとこ取りをするカフェ形式の勉強会です。1月の開催は20(土)/27(土)、いずれも14時から約3時間です。

2018年1月16日火曜日

共感文章講座がますますおもしろくなってきた

昨日は共感文章講座を国立春野亭と、zoomというミーティングシステムを使ってオンラインで開催した。
参加者は3名と少人数だったが、たいへん楽しく、創造的に、いきいきとやらせてもらって、私もありがたかった。

NVCをベースにした共感的コミュニケーションの考え方にもとづいて文章を書く講座というのは、全世界的にNVCが学ばれているいまでも、おそらく私のところだけではないかと思う。
たしかにユニークな内容であり、しかしちゃんとNVCにもとづいた正当的な手法であることに、私は自信を持っているし、参加者にもおもしろがってもらえている。

いったいどんなことをどんな風にやっているの? と思われるかたも多いだろう。
実際に参加してもらえればわかるのだが、ちょっとだけ説明を試みてみたい。

共感的コミュニケーションでは「自分につながる」ことを大切にしていて、そのときに自分の感情とニーズに注目する。
自分の感情を味わい、その奥にあるニーズを理解することを「自己共感」という。

文章を書くときもニーズがあり、当然のことながらだれかが書いた文章もニーズにもとづいている。
書いたり読んだりするときも、自分がなにを大事にしているか、あるいは書き手はなにを大事にしてそれを書いたのかに注意を向けたとき、ある独特の風景や感触が見えてくる。

自分のニーズにつながって書かれた文章と、そうでない文章とでは、なにかが大きく異なっている。
とはいえ、感情やニーズをストレートに吐露しても、読み手には受け取りにくい文章となってしまう。
では、どうすればこちらの感情やニーズ、あるいは意図を、読み手に伝えることができるのか。

そのことを検証しながら実際に書いてみる、というワークを、私が考案したプロセスを踏まえておこなってみるのが、この共感文章講座だ。
案内役の私も大変おもしろく、毎回たくさんのインスピレーションをもらってわくわくしている。
そしてこの講座は、テキストでコミュニケートすることが劇的に増加している現代社会に生きる者にとって、大変有用であり、多くの方に参加してもらいたいと思っている。
オンラインでも気軽に参加できるので、気になった方はぜひともご参加ください。

2月25日:共感文章講座(自己共感を用いた文章表現)
2月25日(日)午前11時から約6時間、共感文章講座を開催します。水城ゆう( mizuki-u.com )が長年つちかってきた文章術、指導法に加えて、共感的コミュニケーションにもとづいた共感のプロセスも取りいれたユニークな方法を練習します。オンライン参加も可。

2018年1月15日月曜日

現代朗読で「読む」のは本ではなく自分自身

昨日の午前中は今年2018年初の現代朗読ゼミを開催した。
参加者は、ゼミ生が1人と、単発参加の人が2人だった。
単発参加のうちの1人は常連といってもよく、もう何度目かのリピーターであるが、毎月必ず参加できるとは限らないので、まだゼミ生にはなっていない。
しかし、気持ちはゼミ生であるとのこと。

もう1人は完全な初体験の人で、朗読自体もこれまで習ったことはないとのことだった。
現代朗読や音読療法、そして共感的コミュニケーションに興味を持ってこちらにやってきたそうだ。

初参加の方がおられたので、現代朗読が何をやっているか、何をめざしているか、どんなことをやるのかを簡単に説明をする。

現代朗読の最大の特徴は、本やテキストを伝達のために読み上げるのではなく、自分自身を表現するために朗読という表現行為を使うところにある。
伝達のための朗読行為は、朗読者を取り替え可能であるが(取り替えても目的は達せられる)、表現のための朗読行為は表現者を取り替えることができない。
逆に本やテキストは取り替え可能となる。
表現者としての朗読者が確立していれば、何を読んでもその朗読者の表現となるわけだ。

そういう立ち位置の朗読をするために何が必要かということを、現代朗読協会常に考えている。
朗読者は自分の朗読表現を見つけるために、自分自身のオリジナリティーに鋭く接近する必要がある。
つまり、自分自身を知り、自分自身を観察することが必要なのだ。
また、自分自身とは、自分自身に起こっていることや自分自身の身体性に気づき続けることに他ならない。

現代朗読では「本を読む」のではなく本を読んでいる「自分自身を読む」ことを心がける。
本を読んでいる自分自身がどのように変化し何が起こっているのかを観察し続けるわけだ。
また、身体性に注意深く注目し続けるという意味で、朗読者はダンサーと何ら変わりはない。
朗読するという表現行為は、ダンスするという表現行為と限りなく近いと言える。

このような考え方から、現代朗読協会練習方法に様々なアプローチを取り入れている。
それははっきりいって、どの朗読教室や朗読講座とも異なる、かなり異質なものだといえる。
朗読の目的には様々あるし、表現者にもいろいろなニーズがあるから、すべての人に現代朗読の方法が当てはまるとは思わないが、朗読の方法で自分自身にアプローチすることを楽しいと感じる人が増えてくれるといいなと望んでいる。
気になる方は、まずは体験しに来てみてほしい。

朗読や群読などの身体表現を用いていまこの瞬間の自分自身をのびやかに表現するための研究の場・現代朗読ゼミ、1月の開催は20(土)/27(土)、いずれも10時半から約2時間。

2018年1月14日日曜日

さらに音声入力のテスト

音声入力を使ってテキスト入力をするスタイルがだいぶ定着してきた。
特に1人で仕事部屋に入るときは音声入力をすることに何の躊躇もない。
くっきりはっきりとしゃべればしゃべるほど、認識と変換精度は向上し、ほとんど打ち間違えがなくなる。

MacBookがかつてのペコペコしたストロークの深いキーボードではなくなり、ペタペタしたほとんどストロークのないキーボードを採用したので、私のように強い圧力でパカパカと打ちこむ人間にとっては、このキーボードは打ち間違いが多くなってしまう。
ピアニストの私は、ピアノの鍵盤のようにストロークが深く、キータッチの感覚がくっきりとあるキーボードの方が、打ちやすいのだ。
ところが、最新のMacBookやMacBook Proを使ったことがある人ならお分かりだと思うが、今のキーボードはほとんどストロークのないペタペタしたものなのだ。

音声入力により打ち間違いがかなり少なくなったのは助かっている。
そして入力が速い。
入力が速いということは、おなじ時間でたくさんの文章を書けるということだ。
短い時間でたくさんの文章を書いて、あまった時間を別のことに使う。

入力スピードが速いと思考が追いつかないのではないかという人もあるかもしれないが、そんなことはない。
思考速度は常に入力スピードより早いのだ。
したがって入力スピードがいつも思考の邪魔をするということが、これまで起こっていたことだ。
もっとも音声入力がいくら迅速にできるからといって思考速度に追いつくまでにはいかない。
しかしそのギャップはかなり埋めることができるような気がする。

仕事場にいない時に音声入力を使えるかどうか、ここが今後の課題だ。
とくに外出時、まわりに人がいるようなときに音声入力をどうやって使うか。

Bluetooth接続の完全独立型イヤホン「Zolo」のテストレポートを先日書いたが、残念ながら初期不良で返品した。その後返品交換となって、新品が届いた。これは問題なく動作しているので、今いろいろ使ってみているところだ。

右耳と左耳にそれぞれイヤホンを独立して突っ込むようになっているので、マイクはどちらかの側にあるのだろう。
それとも両方ともにあるのだろうか。
これはまだ調べていないのでわからないが、まずは右側のイヤホンを使ってマイク入力のテストをしてみた。
つまり右耳だけにイヤホンを突っ込んだ状態で音声入力のテストをしてみた。

片耳でも入力はできる。
どうやって耳に装着してあるイヤホンで口から出ている音声を拾っているのかわからないが、かなりぼそぼそと小さな声でしゃべっていても音声認識はそこそこ使える。
周りに人がいる環境のようなところでも、他人が密着していなければある程度音声入力は使えるだろう。
ただ、カフェのような割合静かな環境の中だと、ボソボソ声でしゃべっていても周りに聞こえてしまうので、不審がられるかもしれない。
スマホを耳に当てるなどして電話をかけているようなカモフラージュをすれば、不審がられることはないかもしれない。
これはいちどテストしてみたいと思っている。

この原稿ももちろん、音声入力を使って執筆した。

YouTube:朗読「わずかな思いやりに、心を打たれて涙する」勝木雪子

中国の作家、林志明氏の短編集『天使在人間』(鄧晶音・訳/河出書房)から、短編作品「わずかな思いやりに、心を打たれて涙する」を、現代朗読のゼミ生・勝木雪子が朗読しました。
勝木雪子にとって初めての朗読、初めての収録です。

ハンセン病を扱った小説集である本書は、サブタイトルに「中国ハンセン病回復者の綴る17の短編小説」とあります。
ハンセン病について、そしてこの本についてすこしでも多くの人に知ってもらいたい、という思いがこめられた朗読です。

 朗読 :勝木雪子
 ピアノ:水城ゆう


映像はこちら

2018年1月13日土曜日

もうすぐ2年、寿美ちゃんち共感カフェ@東松原

世田谷東松原の個人宅で共感カフェをご案内するようになって、やがて2年が経とうとしている。
個人宅というのは星寿美さんの家のことだ。
彼女の家のこじんまりとした、しかし居心地のいい居間を利用して、共感的コミニケーションの勉強会を月に1回のペースでおこなってきた。

寿美ちゃん――私は彼女のことをいつもそう呼んでいる――のつながりがある人々が多くやってくる。
寿美ちゃんがそうであるように、皆さん個性豊かな人たちで、勉強会も毎回バラエティーに富んだ楽しいものとなっている。
楽しいだけでなく、気づきの多い、深い学びがもたらされる時間にもなっている。

今回は、やはり寿美ちゃんの知り合いの、若いカップルが参加してくれた。
2人ともNVC――共感的コミニケーションは未体験で、名前ぐらいは聞いたことがあるけれども勉強会に出たり体験するのは初めてということだった。

私の共感カフェでは大抵そうであるように、今回も、NVCの原理やプロセスを原則通りに伝えるというよりも、実際の体験やエピソードに即して共感を実際に体験してもらうという方法をとった。
肉親との関係や自分自身とのつながりについて、実際に私が共感したり、参加者に共感してもらったりしながら、自分のニーズに深くつながっていく体験をしてもらえたのではないかと思う。

初めての人が実際に共感を体験すると、ちょっとした新鮮な驚きがあるし、今回もかなり面白がってもらえたようだった。
これをきっかけに、より共感的コミュニケーションに興味を持ち、継続的に学びや体験を深めていってもらえるといいなと思う。
また、若い人にとっては肉親との関係について、私のような年代のものから共感をされるというのがいいのかもしれない。
親のニーズについて推測するときに、同年代の者同士でニーズを探すのも有効ではあるが、親と同じ世代である私のような者といっしょに推測したり、親が持っているかもしれない「痛み」について想像を働かせる助言を聞くと言うのは、新鮮な発見があるように見受けられた。

この寿美ちゃんち共感カフェにかぎらず、私はあちこちで1か月に1回というペースの共感カフェを開催しているが、そこを主催する方や参加する皆さんは一様に、1か月に1回ではなかなか学びが進まないという悩みをいうことがある。
しかし、勉強会の開催は1か月に1回しか行われなくても、その間に皆さんは必ず共感について思い起こしたり、気にかけていたりするわけで、それが学びや成長をもたらしている。

寿美ちゃんちの共感カフェもすばらしい場になってきているし、そのことに世話人の寿美ちゃんやリピーターとして参加し続けている人たちに、深い感謝とお祝いを捧げたいと思う。

次回、来月の寿美ちゃんち共感カフェの開催は、10月1日(木)の予定です。

東松原在住で自宅をイベントに開いている星寿美さんが、共感カフェを主催しています。おたがいに深く聴きあうことのできる場で自分自身の価値とニーズにつながるためのサポートをおこなうおはなし会です。午後2時から約2時間。

2018年1月11日木曜日

音声入力で原稿書きするテストのつづき

先日、「車の運転中の生産活動」という記事で、iOSを使って原稿を音声入力で執筆することの試みについて書いたが、そのあと車の運転をしながらそれができるかどうか、できるとしたらどのような実用的な方法があるのかについて検証してみたので、その報告。

iOS(iPhoneやiPad)で使える音声入力支援のためのアプリはかなりある。
人気のあるところでは、「音声認識Mail」「Voice」「Recco」「音声認識装置」などがあり、私もひととおり試してみた。
しかし、どれも帯に短したすきに長しという感じで、しっくりくるものがない。

こんなのがあるといいのに、と私が考えているのは、
「だらだらと断続的に音声入力で執筆ができて、考えてあるあいだの空白時間は入力操作がストップしていて、話し始めたらまたスタートする」
という動作をするもの。
ついでにいえば、動作のスタート/ストップを音声でできればもっといい。
ひょっとしてすでにあるのかな、こういうの。
もしご存知の方がおられたら教えてください。

結局、いろいろな音声認識ソフト使ってみたけれども、EvernoteとオリジナルのiOSの音声認識機能が最も自然な組み合わせだと分かった。
車を運転しながらマイクボタンをタッチするのはちょっと注意が必要かもしれないけれども、信号待ちなのでいちどタッチしてそのまま音声入力をすれば、いまのところ実用に耐える感じがしている。

iOSの音声認識機能は40秒から1分程度で自動的に止まる。
止まったとき、信号音がするので、それとわかる。
長い文章を入力している時、途中で入力がストップしてしまうこともあるけれども、たいていの場合、1分以内でコト足りる。
運転に集中したいので、本当はダラダラといつまでも思いつくままに入力していたいのだが、iOSではそれはできないようだ。
そういうアプリもあるようだが、使い勝手がいまいちなので、私は使うのをあきらめている。

ともかく、iOSの音声認識機能と変換の正確さは驚くべきほどのもので、これは十分に実用に耐えるものだと感じている。
私は執筆作業をするために、どうしてもキーボード付きのラップトップマシンが必要だと思っていたが、音声入力ができるなら、タブレット端末で十分だ。

問題は、音声入力ができない時と場合があるということだ。
喫茶店など、衆人環境の中では、やはりどうしても音声入力はやりにくい。
口元をマイクに近づけたり、Wi-Fiのヘッドセットを使ったりしてぼそぼそと人に聞こえない位の小さな声で入力もできるのかもしれないが、それはまだ試してみていない。

実は、この記事も音声入力で行っていて、iPadのiOSから音声入力をWi-FiでMacBook Proのほうに飛ばしている。
ワンセンテンス入力し終えたときに、認識間違いやミスがあればMacBookのキーボードで訂正している。
私はキーボード入力が人よりかなり速い方だと思っているけれども、音声入力はそれを上回ってさらに迅速だ。
体感で約2倍位の速度があるように思う。
これは生産性という点では大変重要なことだが、文章のクオリティーと言う側面ではどうなんだろう。
このあたりは今後さらに検証を続けていかねばならない。

小説もこれで書けるだろうか。

2018年1月10日水曜日

元旦帰省、各務原、名古屋、現代朗読と共感カフェ

今年も恒例の元旦移動で、東京から北陸の実家へ戻った。
ただし、今年は車での移動である。
国立から中央高速経由、圏央道経由、東名で名古屋まで行き、名古屋市内で息子を拾い、一緒に北陸の実家に戻った。
久しぶりの息子とのドライブは、楽しかった。
途中で眠くなったので、息子に運転を代わってもらった。

実家の離れの和室の壁が古びて汚くなっているので、のり入りの漆喰をネットで購入して、息子に手伝ってもらって正月から壁塗り作業。
少しこねて粘り気を出したものを、コテで壁に貼り付けていくだけの作業なので、楽ちん。
結構楽しい。

4日からは銀行や役所が開いているので、昨年やり残した母の年金の書類の手続きなどを郵便局などに行って済ませた。
他に、葬儀に来てくれた親類の者達へのお返しなどを、ネットショップで手配する。
ついでに、春にニホンミツバチを誘引するための金稜辺の鉢植えを、ネットショップで購入してみる。

6日は岐阜各務原の白狼澪さんちに行く。
ボイスセラピー講座もしくは共感カフェをやる予定だったが、あいにく参加者がいなかったので、澪さんとご飯を食べながらゆっくり話をしたり遊んだりする。
これはこれで楽しかったな。

名古屋で移動して、ひさしぶりにバラさんの自宅にお邪魔する。
バラさんの娘の聖ちゃんや奥さんの暎子さんに再会する。
聖ちゃんの娘のたおちゃんとは初対面。
4歳になったということだった。
ご飯を食べたりワインを飲んだりしているうちに、聖ちゃんの夫の正一郎さんも帰ってくる。
正一郎さんとも初対面。

夜はバラさんちの二階に泊めてもらって、熟睡させてもらった。

翌7日は、天白区の水野生惠さんちに行って、午前中は現代朗読のワークショップを、午後は共感カフェをやらせてもらう。
生惠さんちに集まってくる皆さんは、なぜか朗読に興味を持ってくれる人が多く、ここでは継続的に現代朗読の稽古をやっていきたいなと思う。そのうち、何か発表できるような表現作品が出来上がってくるとおもしろいと思う。

この日の印象を生惠さんがFacebookで紹介してくれている文章があるので、引用させてもらう。

―――――
昨日は、午前中は水城ゆう先生の「現代朗読」WS、午後は同じく「共感カフェ」。各3時間ずつ。
でも、あっと言う間~~~
濃ゅい一日でした。。。 
現代朗読とは、ふつうの朗読とは少し(かなり)異なり、「自分自身」に「気づく」ための朗読。
「身体」を意識しながら読むことで、自分が今どんな感じなのか。。。みえてくる。
一方で、「他者」とも声を合わせて読んでいるので、
「自分自身とつながりながら、他者ともつながっている」
という不思議な感覚を、感じる瞬間がありました。
こういう「感じ」が、ずーっと続くととても心地よいかもしれない。。。
私自身はひとりっきりで読んでいても存分に楽しめるタイプなんですが・笑 それ以上の楽しさがありそう。
もっとたくさんの方と朗読してみたいぞ~  
午後の「共感カフェ」も、非常に濃ぃ内容で、ただおしゃべりをしているわけではなく、水城先生の傾聴は素晴らしく、そしてNVCをどこでどう使うのか、というアドバイスが的確なので、毎回学びがいっぱいです♪
誰かに聴いてほしいことや、お悩みがある方はぜひ一度はご参加くださるといいのでは。。。と思います。
来月は2/12(祝・月)に水城先生に来ていただきますので、どうぞお楽しみに☆
初めましての方も、大・大歓迎です^^/
―――――

生惠さん、そして参加してくれた皆さん、大変お世話になりました。
またご一緒しましょう。

2月12日:朗読と共感のコラボカフェ@名古屋天白
自由でのびやかな表現を心がける現代朗読と共感的コミュニケーションのコラボ企画を、名古屋天白の気持ちのいい古民家スペース〈アロマファン〉にて、2月12日の午前・午後で開催します。

2018年1月8日月曜日

レビュー:Zolo Liberty (完全ワイヤレスイヤホン)

音楽家なので、音楽を聴くための「出口」にはこだわりがある。
音楽家として音に対してもっともこだわりがあるとしたら、その「入口」と「出口」だろう。

入口はマイクである、音を拾う仕掛け。
ここが粗悪だと、音も粗悪になってしまう。
有能なスタジオには、高価なマイクが備えられている。
残念ながら、音質と装置の価格はほぼ比例する。

出口はスピーカーだ。
こちらも貧弱だと、音が貧弱になる。
スタジオには高音質のモニタースピーカーが設置されている。
民生用のスピーカーとは種類が違うものだ。
価格もケタが違う。

最近は据え置き型の大きなスピーカーで音楽を聴くということが少なくなった。
個人的に気軽に聴くには、ステレオ式のイヤホンか、せいぜいヘッドホン。
音質が改善されたのでタブレット端末やラップトップの貧弱なスピーカーでそのまま聴くこともあれば、ブルートゥースでモバイルスピーカーに飛ばして聴くこともある
まあしかし、それは、音楽を聴く、というより、聞き流す、といったほうがいい。

音楽を聴くには、ちゃんとしたスピーカーをある程度の音量で鳴らせる環境がないとき、ヘッドホンがベストだ。
ヘッドホンも民生用のものもあれば、スタジオ用のモニター専用のものもある。
私は両方持っているが、音質をチェックするときにはモニターヘッドホンを使うことが多い。
もっとも、普段音楽を聴くのにそんなものをわざわざ持ちだしたりはしない。

音楽家といえども、普段気楽に音楽を聴くときには、一般人とあまり変わらない普通のヘッドホンで聴く。
普通のヘッドホンといっても、これがピンからキリまであるから困る。
一般人がヘッドホンを買うとき、その値段のまちまちぶりにとまどうんじゃないだろうか。
みなさん、なにを基準に買っていますか?

ヘッドホンは頭部を横断し、耳を覆うので、それが重いときにはイヤホンを使う。
私もある時以降、ほとんどこれになった。
ヘッドホンをかぶって街を歩くのは気がひけるが(そういう人も見かけないではないが)、イヤホンだったら気にならない。

イヤホンもまた、ピンキリの価格、ピンキリのクオリティがある。
こちらも一般人は買うときに困るんじゃないだろうか。
みなさん、なにを基準に買っていますか?

私は最近はカナル式の、耳の穴にぴったりはまって脱落しにくいものを使っている。

イヤホンにはケーブル式のもの、ケーブルとアンプ付きのもの、ブルートゥース接続のワイヤレス式のものなど、さまざまな方式のものが最近は選べる。
私も最近は、ブルートゥース接続のものを使うことが多い。
かつてはワイヤレスのものは音質が落ちるものが多かったのだが、最近は音質はケーブル式とほとんど変わらなくなってきた。

いくつか使ってきたが、最近ではJBLのワイヤレスイヤホンが気にいっている。
ふたつのイヤホンの中間にバッテリーがついていて、一見邪魔なのだが、そこがクリップ式になっていて、襟の後ろにはさんで固定できる。
そしてバッテリーがこの手のイヤホンとしては大きめなので、長時間駆動できるところがいい。
音質もよくて、気にいっている。

そんなところへ、数量限定でAnkerの「Zolo Liberty」という製品のプライスダウンが来た。
これまで使ったことのない、左右完全独立型のイヤホンだ。
この手のタイプにはもちろん興味があったのだが、いかんせん高価なものが多かった。
そしてまだまだ製品としては練れていない感もあった(ある)。
練れていない高額製品を買うのはためらわれる。

Solo Liberty は7,000円を切ってくるという手頃価格だったので、思いきって購入してみた。

製品がとどいて、もっとも気になっていることをまず試してみた。
それは、耳にどの程度フィットするのか、着脱はどんな感じなのか、使っていて脱落するおそれはないのか、ということだった。
試してみると、その心配はほとんどないことがわかった。
カナル式のイヤホン部分は耳の穴にぴったり収まるし、個人差に応じて交換できるゴムのアタッチメントも3種類付属している。
また、耳の穴の上のくぼみの部分に引っかかるようになっている構造体もあって、耳の穴に押しこんでからちょっとひねりこむようにすると、かなりしっかりと固定されることがわかった。
普通に動く分にはほとんど脱落することはないだろう。

専用ケースは充電ケースにもなっていて、使わないときは収納しておけば自動的に充電されるし、使うときに取りだせば自動的にスイッチもはいる仕組みだ。
ブルートゥースの接続も一発でできた。
音質もまずまずという感じ。

ただ、ひとつ問題があった。
左右の音量が違うのだ。
これはどういじってもずれたままで、右の音量が極端に小さい。
だいぶ試してみたが、右イヤホンにはガリノイズも発生したりして、不良品と判断せざるをえず、残念だが返品することにした。
しばらく使いこんでみたかったのだが。

そんなわけで、いまは使っていないし、おなじ品物を再度購入しようとしたが、もう品切れで買うことはできなかった。
が、印象は悪くなく、また入手する機会があれば使うかもしれない。
いまはJBLのイヤホンにもどっていて、それはそれで機嫌よく使っている。

立ち寄り出張講座

東京と北陸を車で行き来しているので、途中で立ち寄って出張講座や勉強会、共感カフェを開催する、ということを昨年の後半からやりはじめている。
名古屋や岐阜で世話人を引きうけてくれる人が現れて、感謝にたえない。
毎回、楽しくやらせてもらっているだけでなく、リピーターが現れるおかげでそこが一種のコミュニティのように育っていく驚きもある。
まあ、それが目的ではないので、単発で参加してもらってなにか気づきを持って帰ってもらえればそれでいいわけだが、うれしいことではある。

立ち寄り先は名古屋や岐阜のほかにも募集中。
こちらのラインでいえば、静岡や神奈川、山梨あたりもはいるだろうか、どなたか世話人がいれば喜ぶ。

別ルートも可能で、たとえば金沢(石川)、富山、新潟、長野あたりも立ち寄り可能。
その地域の方でなにか場づくりをやってみたいという人がいたら、相談しましょう。

私がご案内できる講座や勉強会としては、つぎのようなテーマがある。

・共感的コミュニケーション(共感カフェ/NVC)
・現代朗読
・音読療法
・共感的文章講座
・マインドフルネスや音楽瞑想
・これらをミックスしたもの

いずれにしても、先日の記事「2018年水城が作る「場」のコンセプト」に明記したように、
「自分自身にいきいきとつながり、成長しながらもその瞬間の最高のパフォーマンスを発揮できる活体であることで、目的をもって世界に貢献しつづけること」
をコンセプトとしている。
あらためて読んでみたい方はこちらからどうぞ。

2018年1月6日土曜日

だれもが作家になりうる時代

芥川賞という、新人の純文学作品に与えられる賞があるけれど、この賞にノミネートされるための条件をご存知だろうか。
一般人にはほとんど知られていないが、出版界には文学専門の月刊誌というものがある。
だいたい以下の4誌が純文学マーケットを占有していると思ってもらっていい。

『文学界』文藝春秋
『群像』講談社
『新潮』新潮社
『文藝』河出書房新社

ここに掲載された新人作家の作品が、芥川賞の選考対象になる、と思ってもらっていい(例外はある)。
では、ここに作品を掲載するにはどうしたらいいのか。
各誌が主催している新人賞に応募して、受賞するか、優秀作品として選者や編集者の目にとまる必要がある。
いろいろと面倒なのだ。

これら文学雑誌を読むのは、文学作品を読むのが好きな人たちではない。
自分も作家になりたい、純文学作家として名を知られたい、本を出したい、という人たちが読んでいる。
つまり、読者はほぼ書き手(の候補)といっていい。

ちょっと乱暴ないいかたに聞こえるかもしれないが、私にいわせれば、そんな面倒なことをしなくても、書きたいものがあればさっさと書けばいいし、人に読んでもらいたければネットで広く配信すればいい。
それでお金がほしいなら電子書籍にして課金すればいいし、紙の本にしたければとっととオンデマンドで印刷製本すればよい。

実際、私はそうしている。
なにも困ることはないし、毎日、だれか(とくにそれなりの都合を押しつけてくる編集者や出版社)からとやかくいわれることなく好きなように書いてたくさんの人に読んでもらっているので、とても幸せだ。
人がなにかを書いて発表するというとき、これ以上なにが必要だというのだろうか。
私にはわからない。

音楽や映画の世界では、インディーズということばがある。
商業的な会社やレーベル、流通から離れて、自分たちで勝手に作り、自分たちで勝手に売っている人たちだ。
とはいえ、大変な成功をおさめている人もいる。
メジャー以上に名が知られたり、収益をあげている人も、最近はどんどん増えてきた。
これが時代の流れなのだ。

もの書きの世界もインディーズでいいではないか。
もともと作家というのは、孤独にひとりで原稿に向かうのが好きな人間だ。
あまりにひとりが寂しいというのなら、インディーズグループを作ってもいい。
私が「身体文章塾」を主宰し、そこから生まれた作品群、作家たちを「HiYoMeKi」として世に問うているように。

というわけで、今年は「HiYoMeKi」の飛躍の年にしようと思う。
ひょっとしたら、ここから芥川賞が生まれるかもしれんよ、みたいな。

1月14日:共感文章講座(自己共感を用いた文章表現)
1月14日(日)午前11時から約6時間、共感文章講座を開催します。水城ゆう( mizuki-u.com )が長年つちかってきた文章術、指導法に加えて、共感的コミュニケーションにもとづいた共感のプロセスも取りいれたユニークな方法を練習します。オンライン参加も可。

1月開催:身体文章塾(1.14)
テキストで自分自身を伝えるために、自身の身体性とむすびついたことばや文体についてのさまざまな試みをおこなっています。1月の開催は14(日)/21(日)/27(土)、いずれも19時より約1時間半程度です。


2018年1月5日金曜日

じわり「現代朗読」ふたたび

2016年に世田谷の〈羽根木の家〉を引きはらい、国立に拠点を移してから、なんとなく「いったん解散」みたいな感じになっていた現代朗読だが、じつはしぶとくこつこつと活動はつづいている。
去年2017年は新ゼミ生があらためて参加してくれて、それぞれのニーズをじっくりしたペースで練っている。
最初はとまどうことも多かっただろうと想像できるが、それでも食らいついて基礎的なトレーニングに付きあってくれて、気がついたらオリジナリティあふれる個性的な表現者が垣間見えるところまで来た。

旧ゼミ生もたまに顔を出してくれて、そんなときは群読エチュードを楽しんだりして、あらためて朗読という個人表現における群読トレーニングの有効性を確認できた。
現代朗読では群読そのものをステージ表現として仕上げることもやってきていたし、そもそも群読は楽しいのだ。
朗読なんかやったこともない、興味もない、というような人にも一度体験してもらいたいものだ。

そんななか、名古屋で集まっているみなさんのなかからも、音読や朗読に興味を持ってくれる人が出てきたのは、うれしいことだ。
名古屋天白では水野生惠さんが、私の活動拠点としてご自分の古民家スペース〈アロマファン〉を提供してくれている。
そこで毎月のように共感カフェやボイスセラピー講座、文章講座など、開催しているのだが、なんとなくミニコミュニティのような親しみを感じている。
そんなみなさんが、音読や群読、朗読に興味を持ってくれていて、今回、あらたに「現代朗読」と「共感的コミュニケーション」をコラボしたワークショップを試みることになった。

それが1月7日(日)。
どんなことが起こるのか、そこからなにが生まれるのか、とても楽しみだ。
ある程度の人数の参加者がいると、群読エチュードもがぜんおもしろくなる。
今年2018年は、こちらのみなさんと表現の場や、表現を核のひとつにした共感的なコミュニティをさらに育てていけるといいな、なんてことを考えてみたりしている。

東京国立のほうでも現代朗読はさらに進展しそうで、新年そうそうにはあらたな参加者が体験の申し込みをしてくれている。
参加者がある程度増えてくれると、楽しい群読パフォーマンスができるので、今年は実現できるとうれしい。
そのための下ごしらえとして、3月9日におこなう野々宮卯妙と私の「沈黙[朗読X音楽]瞑想」公演は、わざわざ渋谷の会場を使ってみることにした。
公演の拠点を探している一環だ。

「こう読まねばならない」「そうしてはならない」というような決まりのない、「自分はどうなっているのか」「読んでみたらどうなるのか」にもっぱら興味を持ち、観察をこころみる現代朗読の方法は、日常生活への影響も大きいことがわかっている。
自分はどうなっているのか、なにをやりたいのか、それこそ共感的コミュニケーションでいうところの深い自己共感の練習にうってつけで、さらにいえば「自分を表現する」ことで、外の世界と積極的につながろうとする稽古でもある。
すこしでも興味をおぼえた人は、まずは体験に来てみてほしい。
お待ちしてますよ!

1月7日:朗読と共感のコラボカフェ@名古屋天白
自由でのびやかな表現を心がける現代朗読と共感的コミュニケーションのコラボ企画を、名古屋天白の気持ちのいい古民家スペース〈アロマファン〉にて、新年1月7日の午前・午後で開催します。

1月開催:現代朗読ゼミ
朗読や群読などの身体表現を用いていまこの瞬間の自分自身をのびやかに表現するための研究の場・現代朗読ゼミ、1月の開催は13(土)/20(土)/27(土)、いずれも10時半から約2時間。

2018年1月4日木曜日

メルマガ記事を書くときに留意していること(実体験にもとづいているか)

毎日のように私が書いているメールマガジンの記事だが、なんとなくやっていて、今後はなんとなくではなくはっきりと意識してやっていこうと思っている方針がある。
わざわざ書かなくてもよさそうなものなのだが、いちおう、私の姿勢を知っていただくためにも書いておこう。

それは、
「記事は事実、実体験、自分自身の経験のなかで得られた気づきをもとに書いている」
ということだ。
だれかから聞いたことや、本やネットやメディアから得られた情報を、私の意見として書くことはない。
もしそういう情報があったとしても、かならず私自身の経験や実体験を通してから書かれるだろう。

自分自身のリアルな体感覚や経験とつねに向きあい、緻密な観察の目を向け、気づきを逃すことのないようにしたい、という思いがある。
もっとも、自分自身の感覚や知見もどこまでほんとうにリアルなものなのか、それはほんとうに起こっていることなのか、ほんとうに感じていることなのか、という疑いの目をもって検証しつづける姿勢が必要だろう。
人間はともすれば、
「このように感じている」
という自分の感覚や経験や記憶すら、自分にとって都合のいいように捏造する動物だからだ。

私がおこなっているコミュニケーションの勉強会にしても、音読療法にしても、現代朗読や音楽などの表現にしても、マインドフルネスや音楽瞑想にしても、そしてもちろん韓氏意拳などの武術にしても、徹底して「自分に起こっていることのリアリティ」を追求していきたい。
観念や妄想や捏造の世界から距離を置き(とても小説家のことばとは思えないが(笑))、徹底したリアリズムでリアルな身体と世界に向き合いたい。
それを書き記しておきたい。
これが私のスタンスである。

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2018年1月2日火曜日

共感的に「ありがとう」を伝える

「ありがとう」ということばは大切なものごとをたくさん含んでいるけれど、気軽に使えることば(という道具)なので軽重さまざまな場面で使われてしまう。
ときに、
「とりあえずありがとうといっとこう」
とか、
「心がこもってないありがとうだよね」
というようなことが生まれてしまう。

本当に「ありがとう」を伝えたいとき、そしてその感謝の内容についてもきちんと伝えておきたいとき、共感的コミュニケーションの方法は役に立つことがある。
感情とニーズをセットにして伝える方法だ。

「きみが手伝ってくれたおかげで、ぼくの誠実さやサポートや信頼のニーズが満たされて、ほっとしたし、うれしかった。ありがとう」

ところで、2017年という年は私にとって、数えきれないほどのニーズが満たされた一年だった。
つながり、信頼、学び、気づき、サポート、貢献、スペース、流れ、いきいきさ、触れ合い、親密さ……いちいち書きだしていたらキリがないほどのニーズが満たされた。
それこそニーズ表にリストアップされているニーズのほとんど全部を書きだすことになるだろう。

自分ひとりでがんばって満たしたニーズもあれば、みなさんといっしょに満たしたニーズもあるし、みなさんのおかげで満たせたニーズもある。
いろいろあったけれど、振り返ってみれば私の命がみなさんの命とともに祝福され、いきいきと活動できた一年だった。
あらためてみなさんにいいたい。
「ありがとう」

2018年がはじまったわけだが、まだまだニーズを満たす旅はつづく。
満たせなかったニーズもあれば、満たせたけれど引きつづき満たしたいニーズもある。
今年もまだ満たせないかもしれないけれど、いつか満たせるときをめざしてそのニーズをにらみながら今年もチャレンジをつづけていきたいこともある。

今年も共感的コミュニケーションで自分自身につながり、みなさんとつながり、世界の荒波をサーフしていきたい。
武術や音楽瞑想によって質の高いマインドフルネスをこころがけ、表現や行動のクオリティを高めていきたい。
音読療法によって心身の調律をおこたらないようにしたい。
そんななかで、具体的にどのようなアウトプットが生まれてくるのか。
また一年、お付き合いいただければ幸いである。
どうぞよろしく、なのだ。

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2018年水城が作る「場」のコンセプト

「自分自身にいきいきとつながり、成長しながらもその瞬間の最高のパフォーマンスを発揮できる活体であることで、目的をもって世界に貢献しつづけること」

これは私がこれまで作ってきた「場」の目的であり、これからもそのように作っていきたいと願っているコンセプトで、そもそもは自分自身がそのようにありたいというニーズの中心核を言語化したものだ。

「自分自身にいきいきとつながっている」状態というのは、ちょっとはやりっぽくなってしまったけれど「マインドフルネス」であることで、つまりはいまこの瞬間の自分自身とまわりから自分が受け取っているさまざまなことに(価値判断抜きに)気づきつづけていることをいう。
共感的コミュニケーションでは「自己共感」ができているといい、つまりは自分自身の「ニーズ」に気づき、把握しつづけている状態のことをいう。

「活体」とはさらにそれが進展し、いまにもニーズを満たすために動こうとしている、あるいは動きはじめている身体的状態のことだ。
全身がいきいきと充満しているが、かといって力んでいるわけではなく、脱力しているわけでもない。
ほどよく必要なだけパワーに満ち、楽々と、軽々と自分自身を発揮できる状態にある。

こういったことを心がけ、それがもたらされたとき、人は自分自身をその目的・ニーズのために最大限に生かしきることができる。
そのために、古来から、さまざまな生きる工夫、哲学、修行法が考案され、実行されてきた。
現在も自己啓発本があふれていることからわかるように、あらたな方法が提案されつづけているが、すでにそれは古来の方法にあるといっていい。

私が日々稽古している武術や、音読療法に取りいれられている呼吸法や発声をもちいた心身調整法のなかに、上記すべてのエッセンスが詰まっている。
また、さまざまな瞑想法があるが、これも私は音楽瞑想として古来の方法をシンプルにまとめてみた。

今年2018年もいくつかの切り口で学びと気づきの「場」を持ったり、そのような場に呼ばれれば喜んで駆けつけるつもりだが、いずれにしても冒頭のコンセプトから離れるものではない。
人は死ぬまで自分自身でありつづけ、またその人として世界と関わりつづけ、貢献できれば幸せなのではないだろうか。

2018年1月1日月曜日

2018年始そうそうのイベント

みなさん、あらためて、あたらしい年明けに、日頃よりのご厚情を深く感謝申し上げます。
昨年末に母が永眠しました。
新年の挨拶は遠慮させていただきます。

それはそれとして、2018年は1月6日から私がかかわるイベントがスタートします。
新年そうそうのイベントを紹介させていただきます。
みなさんとどこかでお目にかかれるとうれしいです。

1月6日:ボイスセラピー講座@各務原〈カフェ花寧香〉

1月7日:朗読と共感のコラボカフェ@名古屋天白

1月8日:ボイスセラピー講座@国立

1月10日:こすぎの大学共感サロン

1月11日:寿美ちゃんち共感カフェ@東松原

1月13日:現代朗読ゼミ

1月13日:共感音読カフェ@国立春野亭(オンライン参加可)

1月14日:共感文章講座(自己共感を用いた文章表現)

1月14日:身体文章塾