2018年3月30日金曜日

映画:イエスマン “YES”は人生のパスワード

2008年公開の合衆国映画。
これ、なんと、ダニー・ウォレスというイギリス人作家が自身の体験にもとづいて書いた本を原作としているとのこと。
まじかい。

自分では絶対に観ないような映画なんだけど、最近よくバカ映画情報を交換しあっている友人の安納献に教えてもらって、まあ観てみるかひまだし、くらいの感じでまったく期待しないで観はじめたもの。

主演はジム・キャリー。
ジム・キャリーといえば、「マスク」で強烈な印象を受け、その後「トゥルーマン・ショー」でちょっと感心したことがあるが、とくに好きな俳優というわけではなかった。
助演女優がズーイー・デシャネルという人で、これがなかなかの好演。
変なバンドのボーカルをやったり(もちろん売れてない)、変な写真教室のインストラクターをやったりして、なんとか生活している女。

ジム・キャリー演じる主人公は銀行員なのだが、こちらもぱっとしない毎日を送っている。
それがひょんなことから「イエスマン」になってしまったことで、人生が大きく変わりはじめるという、荒唐無稽なコメディなのだが、実体験にもとづいた話だというから驚く。
まあそういうこともあるかもしれないし、人生なんてそんなもんだよね。
つまり、変化をおそれていてはなにもはじまらないし、変化しないように縮こまっていても変化は勝手にやってくるものだ。
ならばと積極的に変化させていくのもいいかも。
たぶん結果はどちらも似たようなものかもしれないけれど、自分が選んだ変化と、流されていく変化のどちらがいいんだろう、というのはそれぞれの人の選択の問題だろう。

ちなみに、ズーイー・デシャネルは「銀河ヒッチハイク・ガイド」にも出演しているらしい。
これは未見なのだが、観てみたくなった。
つぎはこれ見る。

風邪ひかないけどひいたけどすぐに治った

音読療法のおかげで風邪ひかない、なんて豪語してたけど、すみません、ひきました。
でも、寝こむことなく、すぐに回復した。

毎年2月から3月は体調が崩れることが多くて、2011年以前はこの時期にかぎらず年に何度かひどい風邪をひいて数日寝こんでしまうことがあったのだが、2011年以降はこの時期に体調を崩して風邪ぎみになっても、寝こむことはなく、1日か2日で完調にもどっていた。
2011年は音読療法を体系化し、音読療法協会を設立した年だ。

今年は2月、3月と好調のまま乗りきり、このままいくかと思っていた。
花粉症がひどく、くしゃみや鼻水に悩まされるのはこの時期の常態なのだが、今回もそれのちょっとひどいのかと思っていた。
が、身体がだるくて熱っぽくなってきたので、これは花粉症ではなく風邪だとわかった。

すぐに横になり、休んだが、イベントがあって人が来たり、料理をする予定があった。
夜は早めに休んだが、鼻が詰まって息が苦しく、寝苦しかった。
夜中にすこし汗をかいた。

翌朝はだいぶ回復していたが、まだ完調ではなく、人が来て打ち合わせをしたり、料理を作ったりしたが、今度は鼻水が止まらない。
いわゆる水っ鼻というやつで、ひっきりなしに鼻をかんだ。
くしゃみも連発する。

夕方にちょっと横になって休んだら、鼻水は止まらないが、身体の感じはだいぶ正常にもどってきた。
夜になって鼻水も止まってきた。

結局、今回も寝こむことなく、うまくやりすごせた。
我ながら、回復力というか、免疫力が昔より高まっているなと実感している。
まあしかし、人間なので、いつなんどき、どんなトラブルに見舞われるかわからない。


そのことは自覚して、謙虚に身体の声に耳を傾けながら毎日をすごしたいと思う。

2018年3月29日木曜日

「怒り」は感情ではない、とかんがえてみる

ちょっと極端ないいかたをしてみた(表題)。
大事なことなので、もう一度いう。
話をわかりやすくするためにちょっと極端ないいかたをしてみる。

人はどんなときに怒るのだろうか。
あるいは怒りを表現するのだろうか。

共感的コミュニケーションの練習を深めた人ならだれもが気づいていると思うが、
「怒り」という感情は単独では存在しないことが多い。
表面的には「怒り」一色に塗りかためられているように見えても、その奥には、さらに「悲しい」「寂しい」「つらい」といった感情が見え隠れしていることが多い。
怒りの感情をつぶさに見ていくと、たいていの場合は繊細な感情のレイヤーが見えてくる。

さて、人はどんなときに怒るのか。
私の観察による理解では、人はなにかを恐れているときに怒りを発動させる。
なにを恐れているときか。
自分を守ろう、あるいはなにかを守ろうとしているとき。

それは大事なものを失ったり、奪われたり、価値観を踏みにじられたり、自分の存在そのものが尊重されなかったしているときだ。

子どもがなにかしでかしたときにしかりつけることがある。
そのときの自分をよくよく観察してみる。
表面的には怒りがあるものの、その奥には子どもを守りたい、成長してほしい、というあせりやもどかしさがあったり、自分の貢献やサポートが足りないというつらさがあったり、いつもこれほどいっているのにわかってもらえない、理解してもらえないという悲しさや寂しさがあったりする。

いったん怒りを爆発させたあとには、かならず、そのような繊細な感情が表面化してくる。
ただし、怒りという感情を「通過」しないと、なかなかそこは認知しにくい。

怒りのやっかいなところは、それを相手にぶつけてしまうと、相手との関係性をいちじるしくそこない、つながりを断たれることが多いことだ。
相手にしてみれば、怒りをぶつけられたことで自分を攻撃されたように感じて、逃げたり、反撃しかえしたり、つながりを切ろうとしてしまう。
こちらはただ、なんらかの恐れがあって怒りを表面化させてしまっているだけなのに。

怒りは相手にぶつけるのではなく、自分のなかで処理する必要がある。
怒りが沸き起こったとき、「ああ、自分はなにかを恐れているんだな。なにが怖いんだろう」と自分自身への理解とつながりを深め、怒りの奥にある繊細な感情を観察する。
それができたとき、はじめて本当のニーズに気づける。
本当のニーズが明確になったら、そのニーズレベルから行動したり、相手に話をすることができる。

怒りという感情は、「自分自身との一時的な対立」だとかんがえることもできる。

3月31日:共感編み物カフェ@国立春野亭(オンライン参加可)
編み物をしながら、お茶を飲みながら、ゆるく共感しあう場。まるで昭和の家の縁側のような安心できる居心地となる予定です。編み物ができない人ややりたくない人も歓迎。午後3時から8時まで、出入り自由。

2018年3月28日水曜日

寄付、ドネーション、お賽銭

国立春野亭のテーブルの上に、写真のような缶を置いている。

私はコーヒーが好きで、春野亭に来た人にもだいたいいつも「コーヒー飲む?」とおすすめしている。
とくに対価をいただいているわけではない。
私の趣味のようなものだ。

自分が飲む量と人にサービスする量は、ざっくり見積もって半々か、自分のほうが少ないかもしれない。
コーヒー豆はマンデリンの深煎りの、そこそこ質のいいものを使っている。
なので、缶に寄付をいれてくれると助かる。

以前は1杯100円と決めていたこともあるが、いまは決めていない。
入れてくれる人もいれば、入れない人もいる。
だからどうというわけでもない。

先日、ふと見たら、NVC仲間ののぞみさんが缶にお金を入れてくれていた。
だれも見ていなかったけれど、自発的に入れてくれた。
のぞみさんは春野亭でよく料理を作ったりして、むしろこちらがのぞみさんにドネーションしたいくらいなのだ。

自分のイベントをときどき、寄付方式でやることがある。
たいていは定額だが、ドネーション方式にすることもあって、私としては「こころよく出せる金額をいくらでも」と思っているのだが、なかなか出しにくいようだ。
出してくれても、小銭程度だったりする。
それはそれでいいのだが。
むしろ「講習費は3千円」などと決まっているほうが出しやすいみたいだ。

だれかがいっていたのだが、日本にはお賽銭文化がある。
寄付といえばお賽銭になってしまうのではないか。
キリスト教文化圏では、自分の収入の1割を協会に寄付するという習慣があったと聞いたこともある。

最近はドネーション方式のイベントには「基準額」というのをもうけるようにしている。
そうするとたいていの人はその基準額か、それよりやや安い金額をいれてくれる。
コーヒーも1杯100円と決めてしまうほうが、みなさんにとっては親切なのかもしれないね。

3月31日:共感編み物カフェ@国立春野亭(オンライン参加可)
編み物をしながら、お茶を飲みながら、ゆるく共感しあう場。まるで昭和の家の縁側のような安心できる居心地となる予定です。編み物ができない人ややりたくない人も歓迎。午後3時から8時まで、出入り自由。

2018年3月27日火曜日

【RadioGiraffe】vol.1 『NVC 人と人との関係にいのちを吹き込む法』の監訳者・安納献に聞きました

NVC(=Nonviolent Communication/非暴力コミュニケーション)の創始者であるマーシャル・ローゼンバーグの著書『NVC 人と人との関係にいのちを吹き込む法』は長くNVCの学習者の教科書的存在として読まれていますが、このたび2018年にあらたな内容を増補した新版が出ました。
その監訳者である安納献に、NVCジャパンネットワークの栗山のぞみが聞きました。

映像はこちら

ブラッド・メルドー「アフター・バッハ」

ひさしぶりにメルドーを聴いた。
10年ほども前の一時期、メルドーばかり聴いていたことがあった。
バンドでの演奏もすばらしいが、メルドーはソロがとくにすばらしいと思っている。
完全即興のソロパフォーマンスですばらしいのがたくさんある。

おなじような意味でキース・ジャレットもすばらしいが、ブラッド・メルドーはキースとは異なった方向の音楽性を持っていて、より前衛的、実験的、挑戦的といえる。

そして今回、バッハをテーマにしたアルバムが出た。
アルバム構成がおもしろい。
まず最初に「Before Bach: Benediction」という即興曲が置かれている。
バッハを弾く前の、バッハ的気分での即興という感じの曲。
かなり前衛的な感じだが、バッハに対する感謝の念をあらわしているのだろうと思う。

つづいてバッハの平均律クラヴィーア曲集から、プレリュードの第3曲。
楽譜通りに弾いている。
それを受けて「After Bach: Rondo」という即興演奏。
プレリュードのモチーフを使っているが、8分の5拍子という変拍子での演奏。
即興なのでモチーフからどんどん発展していって、大きな距離を移動する。

そのあとも基本的に、バッハの曲、それを受けての即興演奏とつづいて、全部で5組のバッハ曲と即興演奏が収められている。

最後に「Prayer for Healing」というスローテンポの、ヒーリング音楽のような即興で締めくくられる。

聴き慣れたバッハの曲と、まったく聴いたことのない前衛的なメルドーのパフォーマンスのバランスがおもしろい。
即興演奏部分だけだったらこのアルバムはどれだけの人に聴かれ、どれだけ理解されるのだろうと疑問に思うが、バッハをモチーフにしたことで多くの人が楽しんで聴けるものになっているのだろう。

ところでバッハは書き残された楽譜で愛されている音楽家だが、じつは即興のオルガン奏者としてのほうが当時は名をはせていたということは、意外に知られていないことなのではないだろうか。

2018年3月26日月曜日

料理:簡単手抜きチャーハン

以前紹介したとばかり思っていたのに、書いてなかったようなので、あらためて紹介。
電磁調理器でも作れる、簡単(手抜き)チャーハン。

【材料】一人前
・ごはん……あまりものでも炊きたてでも可
・玉子……1個
・玉ねぎ……小4分の1個
・人参……少し
・レタス……2〜3枚
・マヨネーズ、醤油、塩、胡椒、サラダ油

フライパンを火にかけ、サラダ油(大さじ2分の1)を熱する。
みじん切りにしておいた玉ねぎと人参をそのフライパンに投入し、玉ねぎがやや透き通った感じになるまで炒める。
ボウルに茶碗1杯のご飯をいれ、そこに炒めた玉ねぎと人参をいれる。
玉子を生のまま割って加える。
塩と胡椒を少々、醤油をひと回し、マヨネーズをひと回し加え、ヘラなどを使って全体をよく混ぜる。

ふたたびフライパンを火にかけ、サラダ油(大さじ2分の1)を熱する。
そこにボウルの中身を全部投入し、フライパン全体に均等に敷きつめる。
強火のままにしておくと、すぐに下のほうがこんがりとしてくるので、フライ返しやヘラを使って上下をひっくり返すように混ぜ返し、また均等に敷きつめる。
これを何度か繰り返し、全体に十分に火が通り、玉子がパラパラとからまった感じになったら、最後に手でこまかくちぎったレタスを加え、もう一度混ぜ返して、完成。

野菜はほかにも、ピーマンやチンゲン菜、ニラ、もやし、きゅうり、トマトなど、なんでも炒め加えることができる。
野菜以外にも、豚肉、鶏肉、ソーセージ、ベーコンなどを加えてもオーケー。
調味料に山椒を加えても、なおよし。

お金をテーマに自己共感の練習(NVC)

先日の共感カフェで「お金」をテーマにしてみた。
共感的コミュニケーションあるいはNVCの講座やワークショップでは、しばしば取りあげられるテーマだ。
つまり、さまざまな人がお金についての悩みや痛み、ブロック、躊躇など、さまざまな問題をかかえているということだろう。
そういう私もそうだ。

共感的コミュニケーションでは「お金」はニーズを満たすための「手段」ととらえる。
お金はニーズではなく、あくまでなにかを満たすための手段だ、ということだ。

お金を稼ぐことで自分はなんのニーズを満たそうとしているんだろう、とチェックしてみる。
これは比較的だれでもやれることで、やってみる価値もある。
共感カフェのような場でみんなでやってみると、自分でも気づいていなかったニーズに気づいたりすることもあるので、楽しい。

まず出てきたのは、基本的なニーズ。
安心、安全、ゆとり、平安、気楽さ、持続可能なこと。
多くの人がお金を得るための手段として、持続可能性を重視する。
会社や役所につとめる、アルバイトするといった、労働にたいしてその対価を得るという方法を取ることが多い。
それはそれで安心なのだが、今回の共感カフェに参加したメンバーたちには、さらにその先のニーズもあった。

有名な「マズローの欲求5段階説」というものがあるが、それを思いだしてもらえるとわかりやすいかもしれない。
この「欲求」の部分を「ニーズ」と読みかえると、そのままNVCの理解にもつながる。

お金を稼ぐこと、金銭的ゆとりを持つことで、さらに満たしたいニーズがある。
金銭的理由で制約されてしまうような選択肢から自由になること。
金銭的理由で楽しみを制約されないこと。
人に金銭的にも貢献できること。
チャレンジするための資金があること。
お金を稼ぐことに創造性を発揮できること。
金銭的理由でつながりを失わないこと。
影響力を持てること。
などなど。

このどれかのニーズ(あるいはいくつも、もしくは全部?)を満たすことに喜びをもって向かえるなら、お金を稼ぐ行動もいきいきと活気に満ちたものになるだろう。
またチームの場合、ニーズを共有し、ともに協力しあってがんばることができるだろう。

そんな話をしていたら、参加者と「こんなことしてみない?」というかなり具体的なアイディアが出てきた。
「これで稼げたら楽しいじゃん」
という計画。



ニーズにつながったらさまざまな手段が魔法のように飛びだしてくる、ということがNVCではよくいわれるのだが、それは本当なのだ。

心身の健康向上・調整・未病・活力向上に力を発揮する音読療法(ボイスセラピー)と、人間関係や自分自身とのつながりの質を作ることに力を発揮する共感的コミュニケーションを組みあわせていいとこ取りをするカフェ形式の勉強会、4月の開催は7(土)14時/21(土)14時/23(月)11時、いずれも約3時間です。

2018年3月25日日曜日

NVCの日本語書籍が(とにかく)ない

私の本『共感的コミュニケーション2018』を読んだという人からこんなメッセージをいただいた。

「Kindle で共感的コミュニケーション2018読ませていただいてます。NVCを学んでる最中ですが、読みやすい本を探しててたどり着きました。だいぶ入ってきやすいです。人生の波を乗り切り、命を味わうって言葉いいですね」

うれしい。
私の本はKindle版と紙の書籍の両方が出ているが、日本の書籍流通ルートに乗っていないので、書店の書棚にならぶことはないし、図書館にも置かれていない。
Kindle版はアマゾンにアクセスして検索すれば、すぐに入手できる。
また紙の書籍も私のウェブサイトから直接購入できるようになっている(送料無料)。
しかし、一般的にはまったく知られていない。

上記のように、NVCを学びはじめた熱心な人が、あちこち検索でたどって、私の本にたどりつくケースはあるが、まれだ。
NVCを学ぶための日本語の本としては、いまのところ日本経済新聞社から出ている『NVC 人と人との関係にいのちを吹き込む法』が定番となっているが、それ以外のものはほとんど出ていない。

『「なんでわかってくれないの!」と思ったときに読む本』という翻訳ものがあって、これもNVCをベースに書かれたコミュニケーションの本だが、もともとは英語で書かれている。

つまり、最初から日本語で書かれたNVCの本がほとんどない。
いや、まったくないといっていいだろう。
私の本をのぞいて。
あと、本にまとめた以外にも、膨大なドキュメントが私のブログ「水の反映」に掲載されている。
NVCを学ぶためのテキストをとにかくたくさん読みたい、という人は、私の本とブログをおすすめしたい。



これは私の書いたものをもっと知ってもらいたいということもあるが、それ以上に多くのNVCを学ぶ人たちが学ぶためのテキスト探しに苦労しているのを見て、いつももどかしい気持ちになってしまうからだ。

2018年3月24日土曜日

映画:グッド・ウィル・ハンティング/旅立ち

1997年公開のアメリカ映画。
監督はガス・ヴァン・サントという人。
写真集を出したり、小説を書いたり、ミュージックビデオをたくさん撮ったり、自分自身もミュージシャンとして活躍したりと、さまざまな活動をしている人らしい。
映画もたくさん撮っているが、私はあまり観ていない。
最近の「ミルク」「プロミスト・ランド」「追憶の森」なども未見で、これから観てみたい。

というのも、「グッド・ウィル・ハンティング」がすばらしい映画だったから。
マット・デイモンの「ほぼ」映画デビュー作といってもいいもので、しかも彼は脚本も書いている。
いっしょに書いているのがベン・アフレック。
彼もまた、デビュー作に近い。
ふたりはおさななじみとのことだ。

心に傷を負った、しかし天才的な頭脳を持つ若者と、老年にさしかかった心理学者で精神科医との交流が、映画の軸となっている。
世代を超えた友情の物語といっていいかもしれない。
精神科医をロビン・ウイリアムスが演じているのだが、これがまたすばらしい。

ロビンもマットも、映画中でかなりの長回しでの長ゼリフのシーンがある。
どちらも見応えがある。
この長回しに注目して観ていただきたい。
また、ベン・アフレックも抑制のきいた演技をしていて、ラストのほうでウィル・ハンティングの家をいつものように訪ねて行って彼が不在であることを知ったときの演技は、片頬だけで非常に豊かな表現をしていて、舌を巻かされる。

この3人に限らず、とにかく出演している役者たちがどれもすばらしい。
派手なシーンはないけれど、ストーリー、役者、演出、どれをとってもすばらしく、ひさしぶりに映画を観て泣いた。
私が観た映画ベスト10に入れてもいいと思うくらいだ。

2018年3月23日金曜日

知識ではなく経験をつたえたい

私自身の「限られたいのちのリソースを効果的に使いきりたい」というニーズにつながってあれこれ整理していたとき、あらためて気づいたことがある。
執筆や音楽、映像など、コンテンツ製作に力を注ぎたいという気持ちがある一方で、人とのつながりを大切にしてその場を育みたいというニーズもある。
この両方のバランスが大事だと感じているのだが、場を育むことについても、その内容というか方法について気づきがあった。

勉強会、講座、ワークショップ、いろいろないいかたがあるが、講師またはファシリテーターがいて受講者または参加者がいる形の「場」には、大きく分けてふた通りの方式があるような気がする。

ひとつは講師が学んだ知識やスキルについて学び、自分もそれを身につけたりできるようになりたいという目的の場。
もうひとつは、講師自身の経験や知見を教わり、それを自分なりに応用できるかどうかやってみる場。

私がやりたいのは、はっきりと、後者だ。

私が読んだり、だれかの講座やワークショップに参加して得られた知識やスキルを、そのまま伝えることはしたくない。
それらの経験を通して、私なりに感じたこと、応用できることを伝え、それがまたその人にとってどのように感じたり、応用できるのか、それをいっしょに検証してみる、そういう場を作りたい。

これまで数多くの勉強会を主催したりお世話してきたが、その観点がクリアになっていなかったこともあった。
クリアではなかったけれど、無意識にそのような指向性はどの勉強会にもかならずあったような気もする。

共感的コミュニケーション(NVC)についても、海外のトレーナーから教わったことや本で読んだことをそのまま人に伝えることには、なんとなく抵抗があった。
その理由が自分でもよくわからなかった。
はっきりわかったのは、教わったことを自分でも試してみて、その独自の経験を人に伝えたいのだ、ということだ。
どのようにすばらしいことでも、すべての人がうまくいくとは限らない。
すくなくとも私が個人的にトライしてみて、どのようにうまくいったか、あるいはうまくいかなかったかについて伝えることについては、まったく躊躇がない。

そもそも私は小説家であり、極私的な経験を昇華させて物語を書くことが仕事だ。
それがだれかの役に立つこともあるかもしれないし、まったく役に立たないかもしれない。
それをあらかじめ知ることはできない。
私にできるのは、ただ私自身の経験とその昇華した物語を、個人的に伝えるだけだ。
伝えられた人にも、それは個人的な体験として受け取られるだろう。
それがその人にとって役に立つか立たないかは私には予測できないが、ひょっとしてただ本に書いてあることをそのまま伝えられるよりは深い体験があるかもしれない。

そもそも、本に書いてあること、映像になっていること、ネットに情報として流れているようなことは、私が伝える必要はなく、そっちを直接あたってください、という話だ。

私が作る学びの場は、それぞれの個人的体験を交換しあう場だ。
それはまだどこにも書かれていないし、参照される形で発表もされていない。
そこからそれぞれが(私を含めて)オリジナルな学びを発展させ、成長し、自分自身を生かしきる道を見つけていければ、と願っている。

心身の健康向上・調整・未病・活力向上に力を発揮する音読療法(ボイスセラピー)と、人間関係や自分自身とのつながりの質を作ることに力を発揮する共感的コミュニケーションを組みあわせていいとこ取りをするカフェ形式の勉強会、4月の開催は7(土)14時/21(土)14時/23(月)11時、いずれも約3時間です。

2018年3月22日木曜日

YouTube:朗読「ありがとう、理髪師さん」勝木雪子

中国の作家、林志明氏の短編集『天使在人間』(鄧晶音・訳/河出書房)から短編を朗読するシリーズ、第2弾です。
「ありがとう、理髪師さん」を、現代朗読のゼミ生・勝木雪子が朗読しました。

ハンセン病を扱った小説集である本書は、サブタイトルに「中国ハンセン病回復者の綴る17の短編小説」とあります。
ハンセン病について、そしてこの本についてすこしでも多くの人に知ってもらいたい、という思いがこめられた朗読です。

 朗読 :勝木雪子
 ピアノ:水城ゆう

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自分のいのちのリソースを効果的に使いつくしたい

少人数だけど人が来てくれていっしょになにかやったり、かんがえたり、学んだり、そしてまたひとりになって書き物したり、音楽聴いたり、映画を見たり、そんなことをしているうちに、深く自分につながる時間がおとずれた。
私が私であること、私のここにある命がなにを求め、なにを必要としているのか。
武術の稽古とあいまってひろびろと身体が開かれる感じがしている。

なんとなく惰性でやっていること、習慣になってしまっていること、人との関係性のなかで義務的になってしまっていること、そういったことをいま一度かえりみて、命のリソースを集中していきたいと思う。

私のニーズの中心にあるのは、自分のいのちを大事に使うこと。
時間的にも物質的にも精神的にも有限であるいのちのリソースをうまく使いきること。
私がおさらばしていくこの世界を、私がいたことですこしでもよくすること。
私のいのちの継続として祝福できる存在である子どもたちや若い人たちに、すこしでも役に立てること。

私のいのちのリソースをもっとも効果的に使える方法はなんだろう、ということをずっとかんがえている。
それは私のニーズと、私の能力が一致した場面であろう。

表現すること、伝えること、貢献すること、喜んでもらうこと、そういったことが自分の喜びでもあること。
そうかんがえると、やはりまずだれもが手に取って利用できる「コンテンツ」を作りたい、という戦略(ニーズを満たす手段/strategy)がしっくりくる。
コンテンツとはテキスト/本であり、オーディオやムービーである。

人と直接つながることも、私にとってはかけがえのない時間だ。
ただコンピューターにむかってものを書いたり、音楽やビデオクリップを作ったりしていればいい、というものではない。
しかし、最近はそのバランスが崩れぎみだと感じることが多く、すこし気がかりがある。
ようするに簡単なことばでいえば、「手を広げすぎた」という感じなのだ。

ちょうど新年度がスタートするこの時期に、直接人とつながる場/イベントをすこし整理して、もうすこしコンテンツ製作に使える時間とゆとりを確保しようと思う。
(結果的に)少人数で開催している共感カフェなども、自分のリソースを生かしきるにはすこし窮屈な感じがする。
大切な場ではあるが、バランスが重要だ。

長くつながりつづけて人たちとつながりを切るということではなく、別の形でつながることを提案してみよう。
量より質ということも大切だし。

2018年3月21日水曜日

少人数の講習会は自分の穴を見つけやすい

毎月一回、駒井雅和中級教練をお招きして開催している国立・春野亭での韓氏意拳初級講習会(体験可)だが、今回は常連のかたがたが身内の不幸やらインフルエンザやらで参加できず、世話人の私ともうひとりの常連のかたという、贅沢な講習会となった。

韓氏意拳はときにわかりにくいとか、とっつきにくいと感じるかたがおられるようで、その強力な稽古体系のわりには会員数はすくない(と私は思う)。
しかし、しばらくつづけているとそのおもしろさはわかってくるし、自分でも心がけて稽古をしていくことがさらにおもしろさを増大させていく。

基本的にひとり稽古をした上で、教練が指導してくれる講習会に出るのがいいと思う。
教練の先生がたもさまざまな個性のかたがおられて、そこも韓氏意拳のおもしろいところだ。

春野亭に来ていただいている駒井雅和先生(中級教練)は指導歴もふるく、またご自身で韓氏意拳をわかりやすく、おもしろく(!)伝えるための工夫を日々されているので、毎回どのような指導があるのか楽しみな先生のひとりだ。

今回は参加者にあわせて、これまでの講習会で手薄になっていると感じている稽古を集中的におこなっていただいた。
とくに基礎歩法を丁寧に指導してもらった。

私も赶歩(箭歩)における形体訓練との関係や、重心転換との関係について、大きな気づきをもらった。
自分ができていないこと(穴)にもおおいに気づいて、ちょっと落ちこむけれど、稽古のしどころが明確になった。
また、歩法から基本拳法の劈拳との関連にも進んだ。

劈拳はむずかしかったが、すべての稽古体系がたがいに関連を持っているとわかってはいてもなかなか体感できなかったことが、実際に腑に落ちる体験ができた。

駒井先生の国立クラスは、3月27日(火)と4月16日(月)に養生功講習会を、4月9日(月)に初級講習会を、ともに午後に予定している。
また昭島市のご自宅のK-STUDIOでも講習会を開催されているので、韓氏意拳学会の公式ウェブサイトをご参照いただきたい。

振動メトロノーム「Soundbrenner Pulse」

即興ピアノ演奏にみがきをかけるべく、秘密兵器を練習に導入してみた。

そもそも即興演奏の練習ってどうやるんだろう、と思われるかたがいるかもしれない(いないかもしれない)。
知っているかどうか知らないけれど(たぶん知らない)、即興演奏の最大の敵は自分の「手くせ」だ。

私の場合、即興演奏をおこないとき、可能なかぎり自分の「たくらみ」を手放すことを心がけている。
たくらまず、どのように音を紡ぐかというと、

 1. からだに任せる
 2. 自分が弾いた音に導かれる

からだがこのような音がほしいと教えてくれる、あるいはいま弾いたばかりの音がつぎの音を導いてくれる。
抽象的なものいいだが、実際にそんな感じ。

その際、自由に遊ぼうとしている音をさまたげる最大の敵が、長年弾きこみつちかってきてしまった自分の「手くせ」なのだ。
それを徹底てきに解体しておきたい。
即興演奏の練習というのは、それをやることだ。

手くせからは出てこないパターン練習をする。
そのときメトロノームが大変役に立つ。

メトロノームといえば、たいていの人は木製の三角錐の、重りのついた金属の棒が左右にかっちんかっちんと振れる「あれ」を思い浮かべるんじゃないだろうか。
私も子どものころからあれを持っていて、ピアノの練習に使った。
最近では電子メトロノームがたくさん出回るようになっていて、拍速やリズムの設定も簡単だ。
たいていは、ピッピッピッ、などという電子音で拍を知らせるようになっている。
スマホ用のアプリもたくさん出ている。

私があらためて入手したメトロノームは、電子式・デジタル式ではあるが、音で知らせるのではなく、振動で知らせる方式だ。
意外になかった。
またこの「Soundbrenner Pulse」はデザインもよく、腕時計のように巻いたり、太ももなど脚に装着できるようになっている。
振動がかなり強いので、裸のままポケットに入れておいても使える。

パワーのオンオフや拍速の設定は指とダイヤルでできるようになっているのだが、スマホとブルートゥースで連動させればより細かい設定ができる。
また、これは私はまだ使ったことがないのだが、バンドで全身がこれを持ち、おなじリズムをシンクロさせて練習することもできる。
練習だけでなく本番でも使えるかもしれない(リズムに問題があるバンドの場合)。

このメトロノームを腕に装着して、一定のリズムや、3拍子や5拍子、場合によっては7拍子などという変拍子でパターン練習するのは、とてもよい訓練になる。
手癖や生理的ゆらぎがあぶり出されてくる。

2018年3月20日火曜日

YouTube:マインドフル手帳術参加者インタビュー

2018年3月18日。
ひさしぶりとなるマインドフル手帳術ワークショップを開催しました。
共感的コミュニケーション(NVC)の自己共感スキルをもちいて手帳を活用するライフハック術です。

オンラインも参加者もいましたが、現地・国立春野亭に来てくれたふたりに、ワークショップの前と後でそれぞれインタビューをさせていただきました。
その模様をかいつまんでご紹介します。

インタビューに応じてくれたのは、伊藤はるかさんとジーノ(梶野翔)くんです。
おふたりには感謝。

次回のマインドフル手帳術ワークショップは、国立およびオンラインでは4月7日(土)、名古屋天白では4月15日(日)に開催予定です。
詳細は水城ゆう公式ウェブサイトをご覧ください。

映像はこちら

マインドフル手帳術ワークショップをおこなった

ひさしぶりとなるマインドフル手帳術ワークショップを開催した。
国立春野亭では初開催で、オンライン参加者もひとり。

ひさしぶりだったが、今回はこのワークショップのためにあらたに「ハンドブック」を準備した。
ちゃんと編集・製本して、48ページと薄くはあるが、ちゃんとした紙本だ。
それを使って進めた。

この模様は伊藤はるかと、参加者のジーノくんに、動画インタビューをしてあるので、近日中にYouTubeで公開予定だ。
どんな感じなのか知ってもらえたらと思う。

そして今回参加できなかったけれど、興味あり、べつの機会に参加したいというかたが多くいらしたので、4月7日(土)の午後にも開催することにした。
(名古屋天白の〈アロマファン〉でも4月15日(日)に開催します)
ご都合つくかた、ふるってご参加ください。

4月7日:マインドフル手帳術ワークショップ@国立春野亭
国立駅徒歩5分の会場で、午前11時からランチタイムをはさんで午後4時まで、共感的コミュニケーションの「自己共感」スキルをもちいた画期的な「マインドフル手帳術」の実践ワークショップをおこないます。ひさしぶりの開催となります。

2018年3月19日月曜日

テキストコミュニケーションにおける共感(NVC)

このたびおこなう「共感文章講座」は、私が提唱する共感の四つのモードのうちのひとつ「テキスト共感モード」について私の経験を伝え、また参加のみなさんといっしょに練習する勉強会である。

おさらいしておくが、四つの共感モードとは以下のとおり。

 1. 集中共感モード
 2. 表現共感モード
 3. テキスト共感モード
 4. 縁側(自然体)共感モード

くわしくはこちらの記事「共感的コミュニケーションにおける四つの共感モード」を参照していただきたい。
⇒ https://juicylab.blogspot.jp/2018/01/blog-post_30.html

すでに何度か開催してきたが、やるたびにわかってきたことがいくつかある。
まず、私たち現代人――とくにスマホが普及したここ数年――は日々、大量のテキストを処理し、書き、またそれでコミュニケートしているということ。
そしてこの場面でディスコミュニケーションに直面し、幾多のトラブルを抱えた経験のある人がとても多いこと(私もそのひとり)。
その経験からくる痛みが、テキストコミュニケーションにたいしての怖れをもたらし、メールやSNSでのやりとりを避けるようになったり、ブログで表現することを躊躇するようになった人がとても多いこと。
いずれも、とても残念な事態だ。

つぎに、テキストベースで共感的なやりとりをするのはとても困難で、対面でないと共感的なつながりは作りにくい、せめて電話やオンラインでのミーティングでなければ、と思っている人が多い。
私も正直、そう思っていたことがある。
が、講座をなんどか開催し、みなさんといっしょに検証していくうちに、テキストベースでも共感的なつながりを作ることは不可能ではない、ということに気づくようになってきた。

共感文章塾では、テキストにおいてもそこにあらわれ読みとることができる「感情」と「ニーズ」にフォーカスし、自分自身とのつながりと相手とのつながりを作る試みを練習する。
自分自身とのつながりが見えたとき、そこにはオリジナリティの高い、のびやかな文章があらわれてくる。
また相手とのつながりを試みたとき、それはお互いの価値観を大切にしあう思いやりに満ちたことばのやりとりが生まれる。

こういったことが、いまこの瞬間の私たちにこそ必要なのではないかと思っている。
まあなにより、私自身が必要で、役に立っているということなんだけどね。

3月21日:共感文章講座(自己共感を用いた文章表現)
3月21日(水/春分の日)午前11時から約6時間、共感文章講座を開催します。水城ゆう( mizuki-u.com )が長年つちかってきた文章術、指導法に加えて、共感的コミュニケーションにもとづいた共感のプロセスも取りいれたユニークな方法を練習します。オンライン参加も可。

熊谷守一「生きるよろこび」展

東京国立近代美術館で熊谷守一「生きるよろこび」展を観てきた。
熊谷守一という名前を知らなくても、絵を見ればだれもが「ああ、この人ね」とわかる、ポピュラーな絵をたくさん描いた人だ。
とくに97年という長い生涯の後半に描かれた、輪郭のくっきりした、版画とも思えるような明快な画面は、いまでも多くの人に愛されている。

私自身はといえば、正直、あまり興味を持っていなかったのだが、ふと気が向いて展覧会に行ってみることにした。
没後40年という節目に開催された、けっこう大きな回顧展で、来場者の年齢層はかなり高め。
私などはもっとも若い世代にはいるだろう。

展示はおおまかに製作年順になっていて、最初期から最晩年まで網羅されている。
それがおもしろかった。
とくに最初期から中期にかけて、まだクマガイモリカズスタイルが確立される前の、さまざまな試行錯誤や実験、挑戦がつづいていた時代の作品が、私にとっては刺激的だった。

それらを観たあとで、後半の確立したスタイルの画面を観ると、それが単純明快なようでいて、じつはかんがえ抜かれ、趣向をこらしたものであることが見えてくる。

一貫しているのは、光と陰、形と補色を追求していることだ。
最初期の、真っ暗といってもいいくらいの影の多い画面が、後半にはまるで影のない、あっけらかんと明るい作品になるのだが、よく見るとじつは後半のほうが影に満ちているという不思議がわかってくる。
明色が補色と対比され、どの作品も明るいのに陰影が大きく配置されている。
魔法のようだ。

とはいえ、スタイルが確立されたあとの作品群は、私にとっては退屈に思える。
そこに至るチャレンジの時代が刺激に満ちている。
自分は本当に変化やチャレンジが好きなのだなと、あらためて確認した。
そして初期から中期にかけての作品にも、本当に素敵な、心が洗われるようなものがいくつかあって、楽しかったな。

2018年3月18日日曜日

三本指スワイプができない

執筆やネットなどの作業用のメインマシンとして、MacBook Pro の13インチをヘビーに使っているが、マシンパワーがあるので常時複数の作業を並行しておこなっている。

同時にいくつものアプリを立ちあげている。
執筆用にEvernoteやScrivener、ネット用にSafariとChrome、ときにはForefoxも。
ほかにもTweetbotやiTunes、Logic、Final Cut も立ちあがることがある。

ひとつの画面では作業しづらいので、複数のデスクトップ画面を用意しておいて(4画面くらい)、3本指のスワイプ動作によって横スクロールで画面を切りかえている。
これが便利で、動作もスムースなので、外付けの拡張モニターのようなものは不要だ。

3本指というのは、人差し指と中指と薬指なのだが、今日、たまたま薬指の先にバンドエイドを貼っていて、タッチパッドがそれに反応しない。
これが意外に不便。
Ctrlキー+→キーでも画面を切り替えられるのだが、3本指スワイプが身体に染みついてしまっていて、ついやってしまう。
するとそれは2本指と認識されてしまい、別の動作が働いてしまう。

いまふと思いついて検索してみたら、タッチパッドも使える指サックがあるらしい。
試してみようかな。

映画:アナイアレイション -全滅領域-

2018年(今年ですね!)公開の米英合作SF映画。
公開といっても、映画会社であるパラマウント側と製作サイドが作りなおしをめぐって対立し、全世界配給権がNetflixに売却されるという経緯があった。
私もNetflixで観た。
つまり、映画館という大画面ではなく、コンピューターのモニター画面という制約を受けることになったのだ。
監督であるアレックス・ガーランドは「問題ない」といってたらしいが、そんなはずはないだろう。

アレックス・ガーランドといえば、『ザ・ビーチ』という長編小説がデビュー作で、私も小説から(なぜか英語版で)読んだが、その後映画の脚本や製作にかかわるようになり、2015年には「エクス・マキナ」を監督している。
私も観たが、レビューはまだ書いていない。
なかなか印象深い映画で、画面作りや編集のテンポが独特の感じがあった。
それをこの作品も引きついでいる。

主演はナタリー・ポートマン。
といえばスター・ウォーズのアミダラ姫だが、当作ではやたら根の暗い、わけありな主人公を演じている。
たぶん映画中で一度も笑顔のシーンがない。
ほかのキャラクターもそうで、やたらとシリアスだ。

そもそも設定が異色で、気持ちわるい風景やシーンがつぎつぎと出てくる。
人間が理解しがたい現象や風景、事物がたくさん出てきて、それに登場人物たちのわけありな背景がからまってきて徐々にあきらかになっていく。

こういう超日常ものというか、一種の悲劇的なファーストコンタクトものが、最近の映画に増えてきているような気がする。
かんがえてみれば、いまでは名作と認知されている「エイリアン」だって、ギーガーの美術と相まって最初は非常に気持ちわるいといわれたものだ。
なぜか私はこの手の気持ちわるい映画が好きなのだが。

最後に、音楽も気持ちわるいですよ。
ぜひ観てみてください。

2018年3月17日土曜日

ゆるふわだけど深く楽しかった共感編み物カフェ@天白アロマファン

国立〈春野亭〉でやっている「共感編み物カフェ」を、名古屋市天白区の古民家スペース〈アロマファン〉でもやってみようということで、先日、初めて開催した。

ここでは毎月、なにかしらイベントをやらせてもらっているのだが、今回は平日の日中開催ということで、世話人の水野生惠さんと相談して、ゆるくやってみることにしたのだ。

春野亭と同様、時間内なら出入り自由、編み物以外に好きな手仕事やお絵かきなどやることも自由、参加費も自由、というゆるさだ。
ただし「共感」の場としてすべての人が安心して参加できるように、話をしたいだれかがいたらそれをさえぎらない、決めつけない、非難しない、アドバイスしない、そのかわりに共感的に聴く、ということを心がけてもらう。

といっても、共感的コミュニケーションを知らない人も参加するので、場の舵取りはゆるやかに私がさせていただく、という感じ。

このイベントというか場づくりは、私が提唱する4つの共感モードのうちのひとつである「縁側共感モード」を実践するためにはじめたものだ。
それぞれがただその場に情動態で「いる」ことによって、自然に安心なつながりのある居場所が生まれ、なんでも話せる、なんでも聴きあえる身体性を体験し、またそれを日常のなかでも生かしていくための気づきを得ようというものだ。

実際私は、ほかの共感カフェの場でも、これまで心がけてきた「集中共感モード」から、一見ゆるい「縁側共感モード」に自分を置くことを心がけるようになっている。
するとこれまでとは明らかに違うことが起きる。
これでいいのだ、という確信がある。

今回も私も編み物しながら、編み物がはじめてという生惠さんにアクリルたわしの作りかたを教えたりしながら、手仕事を楽しんだり、人の話を聞いたり、それに共感したりしていた。
なかには人間関係の悩みを話してくれる人もいて、これまでだと積極的に共感しながらなにか解決の方策をさがしたり、話し手が自分のニーズにつながって解決の方向を見つけたりする手伝いをしたのだが、編み物カフェではただ聞いて、ただゆるやかに共感するだけだった。

私も縁側共感モードで提唱している三つの「(ニーズ)当てにいかない」「向かいあわない」「追い詰めない」を心がけていた。
私抜きにそれぞれが聞き合うグループができたりもして、私も楽だったし、みなさんも安心しながら楽しんでおられたんじゃないだろうか。

この共感縁側カフェは、ちょっとした心がけさえみんなで共有していれば、特別な知識やスキルを持ったファシリテーターは不要で、私がいなくてもいつでもだれもが場を開いて共感しあえるだろうと思う。
このような場がどんどん広がっていけばいいのだ。

3月31日:共感編み物カフェ@国立春野亭(オンライン参加可)
編み物をしながら、お茶を飲みながら、ゆるく共感しあう場。まるで昭和の家の縁側のような安心できる居心地となる予定です。編み物ができない人ややりたくない人も歓迎。午後3時から8時まで、出入り自由。

超きもち悪い映画

なんで好きなのかわからないが、かなり気持ち悪い映画がけっこう好きだ。
気持ち悪い、というひとことではもちろんすまされないすぐれた映画だと思うけれど、一般的には気持ち悪いと思われるだろう「エイリアン」とか。
いまでこそ高く評価されているけれど、公開当時はギーガーの美術もあって「気持ち悪い」感が強力だった。
あと、ホラー感が。

気持ち悪いといっても、スプラッタなものが好きなわけではない。
違和感というか、非日常感というか、そういう感じ。

これについてはあらためて書く予定。
というのも、いま、超気持ち悪い感満載の映画「アナイアレイション―全滅領域―」を観ている最中だからだ。
監督は「ザ・ビーチ」「エクスマキナ」のアレックス・ガーランド。

帰省中にいろいろなことが起こったなあ

今回の帰省中にはいろいろなニュースが飛びこんできた。
一番大きいのは、森友文書の財務省による改竄・捏造事件だろう。
朝日新聞が執念を見せた感じ。
明らかになってきたのは、財務省はこのようないい加減な、というより民主主義の根幹をくつがえすような暴挙を、もう何年もやっていたらしい、ということだ。
問題は森友だけにとどまらず、さらにたくさんあるんじゃないかと思えてしまう。
さらにいえば、財務省だけか、この問題は?

安倍政権になってからとくに、民主主義の基本的原則である三権分立が軽んじられ、踏みにじられているように感じることが多かった。
これを機に、膿を全部出していただきたい。
官僚何人かの処分で終わりにできるような問題ではない。
検察もこの際、自負を持ってがんばってほしい。

この問題、まだまだ目が離せないし、私も当事者として関心をもって注目していきたい。

数日前にはスティーブン・ホーキンス博士が亡くなったという報がはいってきた。
ホーキンスも死ぬんだなあ、あたりまえだけど、という感慨がまずあった。
SF長編小説がデビュー作だった私としては、ホーキンス博士にはずいぶんたくさんのインスピレーションをいただいた。
ご冥福をお祈りする。

プライベートでは……
車のタイヤを交換した。
実家音読カフェを実施した。
このあたたかさでさすがの雪もどんどん溶けはじめている。
花粉症のピークがやってきて死にそうになっている。

東京にもどる途中で名古屋に立ちよって、天白〈アロマファン〉で共感編み物カフェをおこなった。
昨日は東京国立近代美術館に行って、熊谷守一「生きるよろこび」展を観た。
そのあと下北沢に移動して、午後には〈かまいキッチン〉で、夜には〈Stay Happy〉で、それぞれ共感カフェをおこなった。

明日の日中は半日をかけて、「マインドフル手帳術」のワークショップを開催する。

3月18日:マインドフル手帳術ワークショップ@国立春野亭
国立駅徒歩5分の会場で、午前11時からランチタイムをはさんで午後4時まで、共感的コミュニケーションの「自己共感」スキルをもちいた画期的な「マインドフル手帳術」の実践ワークショップをおこないます。ひさしぶりの開催となります。

2018年3月16日金曜日

音読トレーナー養成講座について

ひさしぶりに音読トレーナー養成講座を開催します。

ボイスセラピー講座を受講ずみの方が対象となりますが、ボイスセラピー講座も同時開催しますので、連続受講も可能です。
その場合は2泊3日の合宿参加となります(ごく近隣の方は通いも可能)。
会場は国立市のJR駅から徒歩5分にあります。

すでにボイスセラピー講座を受講ずみの方は、音読トレーナー養成講座のみ1泊2日で受講することも可能ですが、音読療法協会の正会員になっているかたは無償で再受講ができます。

音読トレーナー養成講座は定期開催はしていません。
開催希望のかたが何人か集まったときに、それぞれのかたの参加ご希望を調整して、一年に数回のペースで開催しています。
今回はゴールデンウィークの連休前半を利用して開催することになりました。

講座では、音読療法の全貌と音読ワークの技法、および共感的コミュニケーションを身につけていただきます。
受講後は実際に音読ワークを実施していただき(サポートします)、レポートを何回か提出してもらう必要がありますが、その後は音読トレーナーとして正式に認定を受けます。

音読トレーナーの活躍の場は介護福祉施設、学校、企業、介護予防教室、あるいは個人的に開催する音読カフェなど、さまざまです。
ぜひとも社会貢献活動を仕事に、あるいはボランティアワークでコミュニティと関わることを、音読療法というツールを使ってやってみてください。
私たちも社会貢献をめざす仲間が増えてくれることを歓迎します。

4月28・29・30日:音読トレーナー養成講座
介護予防や健康促進ワークに最適な音読ワークをファシリテートできる「音読トレーナー」の資格を取得するための2泊3日の合宿形式講座を4月28日(土)午後から30日(月/振替休日)の三日間にわたって、JR国立駅徒歩5分の会場で開催します。

2018年3月14日水曜日

共感週間ですよ

現在、北陸の実家に帰省中で、絶賛花粉症中の水城です。
音読療法で風邪などの病気をまったくしなくなったのは喜ばしいんですが、花粉症には音読療法は無力のようです。
もっとも、呼吸法で花粉症がなおったという話も聞くので、やりようがあるのかもしれません。
今後の研究課題です。

それはともかく、明日・木曜日から今週いっぱい、日曜日まで、共感的コミュニケーションのイベントがつづくので、みなさんをお誘いします。

まず、木曜日は、名古屋天白の古民家スペース〈アロマファン〉で、東京国立でも好評裡に開催している共感編み物カフェをやります。
編み物をしながら、お茶を飲みながら、昭和の家の縁側のような安心できる空間でゆるく共感しあいましょう。
編み物ができない人ややりたくない人も歓迎。
午前11時から午後4時まで、出入り自由。
もちろん、共感的コミュニケーション(NVC)についての質疑応答や、実践的な解説、共感体験など、案内人の水城がみなさんのニーズに応じます。

金曜日は共感カフェ2連発、ともに下北沢です。
午後3時からは〈かまいキッチン〉にて。
夜8時からは〈Stay Happy〉にて。

土曜日は国立の古本ブックカフェ〈門〉で、もけごはん付き共感カフェ
12時から。

そして日曜日は、ひさしぶりの開催となるマインドフル手帳術ワークショップを、国立春野亭およびオンラインでおこないます。
午前11時からランチタイムをはさんで午後4時まで、共感的コミュニケーションの「自己共感」スキルをもちいた画期的な手帳術の実践ワークショップをおこないます。ひさしぶりの開催となります。

どこかでみなさんにお目にかかれるとうれしいです。

2018年3月13日火曜日

実家音読カフェを実施

毎月一回、北陸の実家に帰省するたびに実家のリビングでおこなっている音読カフェを、今月も開催した。
近所のかたに呼びかけて、興味を持った方に集まってもらっているのだが、このところ新規参加者を呼んでいないので、常連のかたがリピートしている。

回を重ねてくると、それぞれのかたにそれぞれの変化があって興味深い。
うれしいのは、どなたも回を重ねると、しだいに自分の身体のようすや状態、変化によく気づきはじめるようになる、ということだ。
最初は呼吸法をやっても、
「いまどんな感じですか? ささいなことでいいので、気づいたことがあったらことばにしてみてください」
「???」
という感じだったのに、徐々にことばが出てくるようになる。
そして、ささいなこと、微細なこと、緻密なことに気づきはじめる。
ここが心身の健康をみずから整え、不調や病気を予防していく基本となる。

前回、ちょっとむずかしい音読エチュードに挑戦して、かなり大変だった人もおられたので、今回は難易度を落としてみることにした。
ちょっとしたことば遊びや身体と連動したリーティングゲームのようなものを音読エチュードにしているのだが、今回はエチュード的な読み方ではなく、ただ読むだけ。
ただし、ちょっと長文。

夏目漱石の『永日小品』から「火事」という短編の全文をみんなで読む。
声をあわせての群読。
ゆっくり読むと10分くらいかかるだろうか。
みんなで声をあわせてはきはきと読みつづけると、私でも途中で息が切れそうになる。
呼吸筋群がかなり活性化し、身体もぽかぽかしてくる。
かるい疲労も感じる。
ちょっとした体操をこなしたあとくらいの運動感が残る。

そしてもうひとつの楽しみは、「火事」という明治の文豪の作品そのものを味わってみること。
いつもはほとんどやらないが、作品の内容にちょっと踏みこんで、この作品がいかにすばらしいものなのか、読みどころはどこなのか、小説家という立場で解説してみた。
みなさんに喜んでもらえたようだった。
ときにはこんな感じの音読カフェもいいだろう。

音読カフェは東京でも国立や池尻大橋の〈アカシデカフェ〉などで実施しているので、興味があるかたは参加してみてほしい。

3月22日:おとなの音読カフェ@池尻大橋アカシデカフェ
駒場の住宅街の一角の、隠れ家のようなステキ空間「アカシデカフェ」にて、月1回の音読カフェを開催します。声をだす楽しさ、よろこびを味わいつつ、コアマッスルを鍛え、免疫力をあげていくレッスンです。毎月第4木曜日の19〜21時。

マインドフル手帳術ワークショップについて

3月18日(日)に国立春野亭およびオンライン(zoom)で開催する「マインドフル手帳術ワークショップ」で使うための『マインドフル手帳術ハンドブック』が完成して、送られてきた。

このワークショップはこれまで何度か実施したが、ひさしぶりとなる今回は『ハンドブック』を用意して、参加のみなさんにはより明確に、具体的に、そして家に持ちかえったあともつづけられるように、その指針とツールとなるものをお渡しすることにした。

ハンドブックの目次はこんな感じ。

 1 マインドフル手帳術とはなにか
 2 準備・すべてを書きだす
 3 分類・ニーズと向かい合う
 4 転記・手帳を使う
 5 計画・行動化する
 6 習慣・マインドフルのための時間
 付録 ニーズリスト

ワークショップのためのハンドブックとしては、けっこうちゃんとした本なのである。
目次を見るとわかるように、NVCでいうところのニーズや戦略・リクエストを活用する部分がある。
この手帳術によって仕事や生活を整理し、クリアな戦略を立てることで人生をすっきりさせようというものだが、どうじにこの手帳術をこころがけることで自然にNVC=共感的コミュニケーションの練習にもなる。
私自身、大変有用で役に立っていることなので、みなさんにもぜひ知ってもらいたい。

3月18日:マインドフル手帳術ワークショップ@国立春野亭
国立駅徒歩5分の会場で、午前11時からランチタイムをはさんで午後4時まで、共感的コミュニケーションの「自己共感」スキルをもちいた画期的な「マインドフル手帳術」の実践ワークショップをおこないます。ひさしぶりの開催となります。

2018年3月12日月曜日

初対面の人と会話が続かないという悩み

自分は内気で、人の話を聞くのは苦ではないけれど、会話が続かなくて気詰まりを感じてしまうことがある、というケースをときどき聞く。

もともと自分を積極的に表現したり伝えたりするのが苦手なんだけど、人とのつながりやお互いに尊重しあえる関係は大事にしていて、相手の話を聞くことは嫌いではなく、むしろもっときちんとディテールや背景まで聞きたい。
しかし、実際に話を聞いたときに、具体的にどのような質問をすれば会話に広がりが生まれるのかわからない、いつも尻切れとんぼのようになって会話が終わってしまう、という悩みがある。

初対面の相手に、
「いつもどんなことをされてるんですか?」
と聞いたときに、相手が、
「こうこうこういうことをやっています」
と答え、それが自分にとってとても興味がひかれることであったとしても、適切な質問を返すことができず、
「そうなんですか」
といって会話が終わってしまう、という経験を重ねてきた、そんなふうな人。

会話=コミュニケーションというのは、お互いに伝え合うことで成立する。
相手の話を一方的に受け取ったり、自分のことを一方的に伝えたりすることもコミュニケーションではあるが、相手がなにかを伝えてきたとき、自分のなかで起こったことや想起されたことを相手に伝え返すことで、さらにあらたな交流が生まれてきて、クリエイティブなことが起こったり、インスピレーションが生まれたり、というのがコミュニケーションの醍醐味だろう。

相手の話を聞いたとき、自分のなかになにが起こっているのかに注目してみる。
なにか興味をひかれただろうか。
ドキドキしただろうか。
わくわくしただろうか。
不安になっただろうか。
それを相手に伝えることはできるだろうか。

「私はいま、あなたの話のなかで○○ということを聞いてとてもわくわくしたんですが、もうすこし詳しく教えていただけます?」
そのように聞くことはできるだろうか。
そのとき、相手のなかには「聞いてもらえた/受け取ってもらえた/興味を持ってもらえた/自分が話したことが相手に影響をあたえた」という気持ちが起こっている。
ほとんど無意識ではあるかもしれないが、相手はこちらとのつながりを感じている。
そんな相手からは、話をさらに深めたり、もっといろいろと聞き出したりできる可能性は高くなっている。

構えることなく、正直になること。
自分のなかで起こっていることを添えて質問すること。
これが会話のひろがりとつながりを作る可能性を高めてくれる。

3月16日:かまいキッチン共感カフェ@下北沢

3月16日:ステイハッピー共感カフェ@下北沢

3月17日:もけごはん付き共感カフェ@国立〈門〉

水色文庫のアクセス数にびっくり

新作テキスト「遠くからやってきた波に乗るということ」をブログ「水色文庫」に登録した。
ついでに、ページビューの統計記録を見てみた。
つまり、一日に何ページくらい閲覧されているのか、一ヶ月ではどのくらい見られているのか、といったアクセス記録が見られるようになっている。

いままで一度も水色文庫のアクセス記録を見たことがなかった。
気にしたことがなかったのだ。

今回、ふと見てみると、びっくりするほど毎日多くの人が読みに来てくれていることがわかった。
一日あたり500ページビュー近く、一ヶ月にして2万ページビュー近い数字があるのだ。
これは私のメインブログであるこの「水の反映」に迫らんばかりの勢いだ。

水の反映は、ほとんど毎日、せっせと更新して、かなり多くの方に読んでいただいている。
ありがたいかぎりだが、数か月に一回しか更新(つまり新作の登録)していない水色文庫が、これほどまでに多くの方に読まれていると知って、驚くと同時に、喜びを感じている。

私の書いたものがたくさんの方に読まれている。
ひょっとして朗読されたりもしている。
ときにはラジオやライブで水色文庫の作品を読ませていただきます、とか、読みました、といった報告を受けることもある。
それはとてもうれしいことだが、報告がなくても読まれていることもたくさんあるかもしれないことがうかがえる数字だ。

2018年3月11日日曜日

水色文庫新作「遠くからやってきた波に乗るということ」登録しました

水色文庫の新作「遠くからやってきた波に乗るということ」を登録しました。

このテキストは2018年3月、東京・渋谷文化総合センターでおこなった「沈黙[朗読X音楽]瞑想」コンサートのために書きおろした作品です。

2018年3月10日土曜日

渋谷文化総合センターでの「沈黙[朗読X音楽]瞑想」コンサート

2018年3月9日、金曜日夜。
渋谷文化総合センター大和田の大練習室にて、東京ではずいぶんひさしぶりとなった「沈黙[朗読X音楽]瞑想」のコンサートを開催した。

この公演は、2016年末に閉館した明大前〈キッド・アイラック・アート・ホール〉のギャラリースペースでおこなっていたものだが、閉館にともなって東京での開催が中断していた。
単発で大阪や名古屋で何度かおこなったものの、東京では開催適地を探していた。
今回、渋谷の文化総合センターの大練習室を押さえることができて、ひさしぶりの開催となった。

こちらは練習室だけあって、音響がよく、またグランドピアノが完備されているので演奏にもうってつけだ。

当日、国立から渋谷に移動し、18時すぎに会場入り。
ピアノを移動し、椅子を配置。
今回はピアノをまんなかあたりに置いて、まわりに椅子をばらばらと置くという配置にしてみた。
そして、記録用のカメラを設置。
NVC仲間ののぞみさんが早めに駆けつけて手伝ってくれたので、大変ありがたかった。

金曜夜ということもあったのか、あるいは時期が悪かったのか、参加者は少なかったのだが、ひさしぶりに来てくれる人も何人かいて、リラックスした雰囲気ではじめることができた。

開演時間19時ぴったりにスタート。
まずはこれまでの経緯や公演内容について私からすこし話をさせていただき、そのあとピアノ演奏からはじめた。
いつものとおり、完全な即興演奏、どんな音が出てくるのか、自分でもわからない。
出てきた音がつぎの音へと導いてくれ、私はただ自分の居心地のいい方向へ、わくわくする方向へと進んでいくばかり。
ときにはその方向が自分の演奏技量を超える位置だったりするけれど、そこはがんばってチャレンジし、失敗することもあれば、思いがけず乗りこえられることもある。
今回もそんな感じ。

すぐに野々宮卯妙が朗読ではいってくる。
体調が完全でないといっていたが、はいってきた瞬間に集中している身体であることがわかる声だった。
テキストは私がこの公演のために書きおろした「遠くからやってきた波に乗るということ」という作品。
めずらしくSFっぽくないストーリー。

前半は沈黙の朗読で、後半が音楽瞑想という2部構成の公演なのだが、いつも前半のほうにボリュームがある。
今回も前半の50分くらいが沈黙の朗読パートで、そのあと私は音楽瞑想のための演奏をかなり長くやったつもりだが、あとで確認したら15分強くらいだったようだ。
自分では30分くらい演奏したつもりだったのだが。

終わってから、みなさんに紙と色筆ペンを渡すと、黙々とお絵かきタイム。
なぜかこの公演が終わったあとは絵を描きたくなるらしい。
さまざまに芳醇なイメージを描いてもらって、私は言語化できないほどのたくさんのニーズが満たされた思いをいただいた。

今回、私にとっての大きな収穫は、ピアノの即興演奏にしてもテキスト表現にしても、私がより自分らしい表現であり、そのクオリティを高めたいというニーズがさらにクリアになり、どちらに向かいたいのかもくっきりしてきたことだった。
その機会をまたいただきたいと思っている。
次回のこの公演は、6月か7月くらいをかんがえている。

自分の身体を把握する練習

かねてから強調していることだが、朗読にせよ音楽にせよ、当然ながらダンスなどの身体表現においてはなおさら、自分の身体の感じをリアルに把握している人と、なんとなく漠然とイメージだけでとらえている人とでは、表現のクオリティは大きく異なる。
すぐれた表現者は、朗読者、音楽家、舞踊家、どんな人も、意識的にせよ無意識的にせよ、表現することと自身の身体の状態が一致している。

私は現代朗読を主宰し演出している身なので、朗読を例にとってみる。
朗読は書いてあるもの(本/ストーリーなど)を声に出して読むという表現行為だが、お話の内容にばかり注意が向き、自分の身体がどのような状態なのか、どんな感じがしているのか、どのような変化が起きているのか、そちらにまったく注意が向いていない読み手と、自分の身体状況に注意が向けられつながっている読み手とでは、あらわれてくる表現のいきいきさがまったく違ってくる。
朗読経験がまったくない人でも、ちょっと想像すればそのことは予想がつくだろう。

ところが、実際にやってみると、自分の身体がわからない、見えない、感じがつかめない、という問題が発生する。
今日も現代朗読ゼミに初めて参加するという方がやってきたが、自分の身体が見えないという問題が起こった。

現代朗読では基礎トレーニングのなかに「体認のエチュード」という、読みながら、しかし自分の身体に注目し、なにか気づいたことを言語化してみるという練習法がある。
身体を動かすといっても、左右に回る、上下にのびちぢみするといった、ごく単純な動きで、それをおこないながらただ目の前の文章を読むだけだ。

やってみるとわかるが、最初はまるでぼんやりしていた自分の身体の輪郭が、しだいにはっきりしてきたり、やりこんでいくと緻密な変化や状態に気づくようになる。
しかし、最初はぼんやりしているどころか、変化が起こっていることすら気づかないということが起こる。
いかに現代人が自分の身体を無視して生きているのかがわかるのだが、表現をするにあたってそれでは困る。
瞬間瞬間、刻一刻と変化しつづける自分自身と付き合いながら表現をおこなっていくのが、時間軸のなかでリアルタイムにおこなう表現行為なので、自分をとらえ、またその変化を緻密にとらえていくのは重要なことなのだ。

現代朗読のゼミでは、毎回、そんな練習をしている。
すると不思議なことに、とくにテクニカルな反復練習のようなことをおこなわなくても、朗読者の表現クオリティがどんどんあがっていくのがわかって、おもしろい。
今日来てくれた方も、まだ自分自身をとらえることは難しかったが、その必要性はわかってくれたようだった。
日常生活のなかでもやれる練習なので、時々時間を見つけてやってくれるとうれしいと思う。

3月24日:現代朗読ゼミ
朗読や群読などの身体表現を用いていまこの瞬間の自分自身をのびやかに表現するための研究の場・現代朗読ゼミ、3月の開催24(土)10時半から約2時間。

2018年3月9日金曜日

SNSメッセージを読んでいてもやもやしたとき

フェイスブックやツイッター、あるいはメッセンジャーやLINEのグループを読んでいて、気持ちが揺らぐことがある。
楽しそうにしている人のメッセージを目にしてうらやましくなったり、仲間はずれのように感じて寂しくなったり、価値観の違うジャッジにたいして腹が立ったり。

なかでも、自分が参加できなかったイベントについて、参加した人たちが楽しそうにメッセージを交換しているのを読んだとき、もやもやした気分になったことはないだろうか。
そんなとき、自分になにが起きているのか、ちょっとかんがえてみたい。

自分もその場にいたかったのに、参加したかったのに、できなかった、あるいは参加しないことを選んだ。
でも、みんなが楽しそうに会ったり、交流しているのを読んだり、画像を見たりすると、もやもやして落ち着かない気分になる。
そこには寂しかったり、うらやましかったり、くやしかったり、後悔を感じたりしている自分がいるかもしれない。

その感情の奥にはどんなニーズがあるのだろう。
自分も楽しみたかった、みんなとの交流やつながりを大事にしていた、そんなことが満たされなくて、寂しかったり残念な気持ちになっているのかもしれない。
しかし一方で、参加しないことを選んだ自分のニーズもある。
それはどんなことだろう。

自分の自由、自立、自発性、選択を大切にしていたから、行かないと決めたのかもしれない。
そこに行かないかわりになにか別のことをすることを選んだのだ。
それはそれで自分のニーズを大事にしたわけであり、後悔するにはあたらない。

いずれにしても、満たされたニーズと満たされなかったニーズがそこにはある。
それを味わい、満たされたニーズはお祝いし、満たされなかったニーズは別のチャンスに満たすことを試みる。
ただそれだけのことだ。
それだけのことだが、自分のなかは随分クリアになっているだろう。


ところで、私はテキストコミュニケーションにおける共感的な交流の試みに挑戦している。
メールやSNSのメッセージ、ブログといった、いま私たちが多様しているテキストコミュニケーションにおいて、自分とまわりの人々に共感的つながることは可能かどうか、という試みだ。
興味がある方は勉強会にどうぞ。

3月21日:共感文章講座(自己共感を用いた文章表現)
3月21日(水/春分の日)午前11時から約6時間、共感文章講座を開催します。水城ゆう( mizuki-u.com )が長年つちかってきた文章術、指導法に加えて、共感的コミュニケーションにもとづいた共感のプロセスも取りいれたユニークな方法を練習します。オンライン参加も可。

2018年3月8日木曜日

ヘアバンド(輪針編み)、コンサートのためのピアノの練習

明日9日(金)の渋谷での「沈黙[朗読X音楽]瞑想」コンサートにそなえて、ピアノの練習をしたり、ずっとやってるわけにもいかないのでその合間に仕事したり、編み物で気分転換したりしている。

「沈黙[朗読X音楽]瞑想」コンサートでの演奏はこれまでずっとそうであったように、あらかじめなにも決め事をしない、用意しない、完全な即興だ。
なので、練習するといっても、なにか決まった曲があるわけではない。
あえていえば、指ならしというか、弾き癖のチェックのようなことをする。

合間に輪針を使って編みはじめていたヘアバンドを編みすすめる。
輪針は棒針の一種で、棒針ははじめたばかりなので目がそろわなかったり、ずれたり抜けたり、むちゃくちゃになってしまっているのだが、Opalという色とりどりの毛糸を使っているので、楽しく練習できる。
ま、あくまで練習、試作品ということで。

もうすこし練習して、もうすこしまともなものを編めるようになりたい。
共感編み物カフェは、来週名古屋・天白と、月末に国立・春野亭で開催。

3月15日:共感編み物カフェ@名古屋天白〈アロマファン〉

3月31日:共感編み物カフェ@国立春野亭(オンライン参加可)

4連続の共感イベント週が来ます

明後日・10日(土)午後は国立春野亭(およびオンライン)での共感音読カフェだが、来週はさらに4連続で共感的コミュニケーションのイベント(勉強会)があるので、紹介したい。
いずれか都合のつくタイミングがあれば、ご参加いただきたい。

いずれも、共感的コミュニケーション(NVC)に2007年から関わりつづけ、著作『共感的コミュニケーション2017/2018』を書いた作家でピアニストの私・水城ゆうがファシリテートする。
すべて、決まったカリキュラムなどはない、参加した方々のニーズに応じた流れのなかで進めていく、気楽で安心な場だ。

3月15日:共感編み物カフェ@名古屋天白〈アロマファン〉
名古屋でも開催することになりました。
編み物をしながら、お茶を飲みながら、ゆるく共感しあう場。まるで昭和の家の縁側のような安心できる居心地となる予定です。編み物ができない人ややりたくない人も歓迎。午前11時から午後4時まで、出入り自由。

3月16日:かまいキッチン共感カフェ@下北沢
安心して親子連れで行ける店として有名な下北沢〈かまいキッチン〉で、#共感的コミュニケーション ( #NVC )の勉強会を開催します。3月16日(金)15時から17時まで、案内人は水城ゆうです。お子さん連れ歓迎。

3月16日:ステイハッピー共感カフェ@下北沢
隔月で開催している下北沢の旅カフェ〈Stay Happy〉の共感カフェです。だれでも参加できるオープンで気楽な雰囲気の勉強会です。参加費1,000円+1オーダー。

3月17日:もけごはん付き共感カフェ@国立〈門〉
国立市の古本ブックカフェ〈門〉で、おいしいもけごはんと〈門〉のご主人・和田さんによる絶品のお茶をいただきながら、共感的コミュニケーションについて学んだり、お互いの話を深く聴きあう練習をします。12時から。

連続共感イベント(結果的に)

共感的コミュニケーションがらみのイベントがつづいて、お疲れさん自分、というところにたどりついた。

月曜昼の共感音読カフェ@国立春野亭には、リアル参加者とオンライン参加者が交流して、いきいきとした場が生まれた。
これは私が主催して月の数回開催しているもので、つぎは10日(土)午後の予定。

その夜の、月に一回開催している武蔵小杉の高橋さんちでの共感カフェには、新規参加者がひとり。
といっても、国立の私のイベントに以前から参加してくれている人で、共感的コミュニケーションはかなりやりこんでいる。
そんな人が来て、自分の問題を話したとき、私がとてもびっくりしたのは、武蔵小杉の常連のメンバーたちの「聞く力」がすばらしかったことだ。

高橋さんによれば、武蔵小杉での開催は今回がちょうど13回め、つまりこの回から二年めという区切りの回だそうだ。
場と参加者が育ってきているという感じは漠然とあったのだが、みんなで初参加者の話を共感的に聴き、また共感してつながっていくようすを見たとき、ここまで力をつけているとは思っていなかったので、私は驚いてしまったのだ。
驚いたが、もちろんそれはみなさんと私自身へのお祝いであった。

火曜日は個人セッションがおふたり、のほか、大阪から遊びに来たくぼりょこと窪田涼子が、めずらしく私の著書『共感的コミュニケーション』に目をとめ、ひょいと読みはじめたのはいいが、それっきりがっつり食いついて『2017』と『2018』を全部読み通してしまったのには驚きつつ、うれしかった。

このあとも共感イベントがつづくので、気楽にご参加ください。

3月10日:共感音読カフェ@国立春野亭(オンライン参加可)
心身の健康向上・調整・未病・活力向上に力を発揮する音読療法(ボイスセラピー)と、人間関係や自分自身とのつながりの質を作ることに力を発揮する共感的コミュニケーションを組みあわせていいとこ取りをするカフェ形式の勉強会です。3月の開催は10(土)14時/24(土)14時、いずれも約3時間です。

3月15日:共感編み物カフェ@名古屋天白〈アロマファン〉
名古屋でも開催することになりました。
編み物をしながら、お茶を飲みながら、ゆるく共感しあう場。まるで昭和の家の縁側のような安心できる居心地となる予定です。編み物ができない人ややりたくない人も歓迎。午前11時から午後4時まで、出入り自由。

3月16日:かまいキッチン共感カフェ@下北沢
安心して親子連れで行ける店として有名な下北沢〈かまいキッチン〉で、#共感的コミュニケーション ( #NVC )の勉強会を開催します。3月16日(金)15時から17時まで、案内人は水城ゆうです。お子さん連れ歓迎。

3月16日:ステイハッピー共感カフェ@下北沢
隔月で開催している下北沢の旅カフェ〈Stay Happy〉の共感カフェです。だれでも参加できるオープンで気楽な雰囲気の勉強会です。参加費1,000円+1オーダー。

3月17日:もけごはん付き共感カフェ@国立〈門〉
国立市の古本ブックカフェ〈門〉で、おいしいもけごはんと〈門〉のご主人・和田さんによる絶品のお茶をいただきながら、共感的コミュニケーションについて学んだり、お互いの話を深く聴きあう練習をします。12時から。

2018年3月4日日曜日

映画:アポロ18

2011年公開の、合衆国とカナダの合作映画。

1995年公開の「アポロ13」という映画とはなんの関係もない。
こちらはトム・ハンクスやケヴィン・ベーコン、エド・ハリスといった名優たちも出演していた、なかなか見ごたえのある、事実をもとに作られた大作映画だったが、「アポロ18」は対照的なB級映画といえよう。
公開直後の評価もさんざんだったようだが、私はそこそこ楽しめる部分もあった。

実際のアポロ計画は17号で打ち切りになったのだが、じつはひそかに18号が月に飛んでいた、その極秘フィルムを入手した関係者が、それをもとに再構成した「ドキュメンタリー」映画なのだという触れ込みで作られた。
もちろん嘘だ。

国防省の極秘任務で、家族にも内緒で月に18号で送りこまれた3人の宇宙飛行士が、月で不可解なできごとに遭遇し、ついには……
というストーリー。
まあいわゆる、悲劇的なファーストコンタクトものだが、造形はたしかに酷評されるような陳腐な部分もある。
が、アイディアと演出はそう悪くもないと私は思った。

はじまってから30分以上、なんの事件も起こらない、通常のミッションや宇宙飛行士たちのバックグラウンドが映されていく。
きっとなにか起こるだろうと、観る側は勝手に期待をたかまらせていくのだが、りいつまでたってもなにも起こらない。
いつ起こる、いつ起こる、というこちら側の気分の盛り上がりが、監督のねらいだろうが、まんまとはまってしまう。

いざストーリーが展開したいったとき、「案の定」という感じなのだが、それはそういうものに「すれて」いるこちら側の事情であって、あまり映画を観たことのない人が観れば、心臓発作を起こすほどびっくりするんじゃないか。

というわけで、SFスリラー映画にあまりスレていない人は楽しめることまちがいないことを保証しておく。

2018年3月3日土曜日

ワークブックを作りながら小説も書きおろしている

3月18日にひさしぶりにおこなう「マインドフル手帳術ワークショップ」のためのワークブックを作っている。
BCCKSというオンデマンド出版サービスを使って、『マインドフル手帳術ワークブック』という本を書いているのだ。

ワークブックなので、ワークショップ参加者に書いてもらうためのノートページもはいっているけれど、解説もかなり書きこんでいて、本の仕上がりは64ページを予定している。
これを参加者全員にお渡しして、マインドフル手帳術を体験してもらおうという企画だ。

と同時に、3月9日に迫ってきた渋谷総合文化センター・大和田での「沈黙[朗読×音楽]瞑想コンサート」で朗読してもらうための、書き下ろし短編小説のストーリーも、遅まきながら降りてきたので(文字通り「降りてくる」という感じなのだ)、書きはじめている。

ふたつ、まったく異なったコンテンツだけれど、そういうものを行ったり来たりしながら仕事するというスタイルが、私は気にいっている。
気にいっているというより、向いているといったほうがいいかもしれない。

書き物しながらも、まるで多動性の子どもみたいに突然仕事を投げだして編み物したり、料理したり、ピアノを弾いたり。
ピアノの練習だって30分とつづけることはない。
料理しているあいだも、ラジオを聴いたり、キッチンカウンターに置いたiPadで映画を観たり。

身体のなかではさまざまなものがチカチカと光っていて、それがたえず動き、変化している。
私という現象が変化しつづけていて、それに逆らわず付き合えればいいんじゃないかと、最近は思いはじめている。
なにごとかに集中すべき、八方美人はよくない、などという思いこみを自分に課していたのは、いったいどこからやってきた思いこみなんだろう。


3月18日:マインドフル手帳術ワークショップ@国立春野亭
国立駅徒歩5分の会場で、午前11時からランチタイムをはさんで午後4時まで、共感的コミュニケーションの「自己共感」スキルをもちいた画期的な「マインドフル手帳術」の実践ワークショップをおこないます。ひさしぶりの開催となります。

いまさらながらiPhoneカメラのピント合わせ

iPhoneのカメラで写真を撮るとき(純正アプリ)、画面のまんなかにはない部分にピントをロックしたい場合は、そこをタップすればいいと思っていた。
が、なんだかうまくいかない。
とくに近くにあるものを撮るとき(接写)、ピントが合わなくて困る。

調べてみたら、iOS 11.2 でピントが合わない不具合がある、と出てきた。
しかし、私は最新の iOS 11.2.6 にアップデートずみなので、問題はないはずだ。

さらに調べてみたら、ピントロック(オートフォーカスロック/AFロック)は画面タップではなく、「長押し」と出てきた。
ロングタップというらしい。

ピントを合わせたい場所をロングタップすると「AE/AFロック」ということで、ピントと露出が固定されるらしい。
画面の上に「AE/AFロック」されるまで長押し。

もうひとつ技が出てきた。

1. 「HDR」をオンにしておく(フラッシュはオフ)。
2. 被写体をカメラに入れて、ピントを合わせたい場所をロングタップしてAE/AFロック。
3.すこしだけズームしてから(ピンチアウト)、iPhoneを被写体からちょっと離して、シャッターボタンを押す。

これで小さなものでも近づいてピントが合うようになった。

2018年3月2日金曜日

iPhoneで映像と音声収録

先日、新生童謡唱歌ユニットOeufs(うふ)の収録をするのに、しばらく使っていなかったパナソニックのビデオカメラを引っ張りだしてきたのだが、再生してみるとこれが思わしくない。
光量が足りなかったのか、設定が悪かったのか、それともカメラ自体が機能低下していたのか。
いちおうSDカードにデジタルデータで記録する方式の、フルハイビジョンカメラなのだが、なんだか画面がぼんやりとボケているのだ。
これだったら、いつもメモ録で使っているZOOMのQ2nというおもちゃみたいなビデオカメラのほうがずっといい。

Q2nはカメラというより、カメラ付きマイクという感じのもので、マイク部分ががっしりとできていて、音声クオリティがとてもいい。
ZOOMというメーカーは以前からそのような特徴に特化した製品をたくさん出している。

おなじZOOMから、iPhoneのライトニングアダプタに直接ぶっ刺す方式のステレオマイクが出ていて、これも使ってみた。
iQ7という型番。
iPhone単体で収録した音声も悪くはないが、iQ7だとよりクリアになったり、より広がりを持たせたり、いくつかのモードを選べる。
ただ、私が持っている製品だけの問題かもしれないが、きちんとiPhoneに刺しておかないとひどいノイズが乗って、使い物にならないことがある(何度か失敗した)。

ともあれ、パナのビデオカメラを使うより、iPhoneで映像も音声も収録したほうがクオリティが高いし、なにより簡便でいい。
しばらくこれでやってみる。
とはいえ、パナのビデオカメラにも愛着があるので、設定を見直して再挑戦してみるかもしれない。

2018年3月1日木曜日

羽根木公園、あるがまま、寿美ちゃんちカフェ、うふ収録

世田谷・東松原の寿美ちゃんち共感カフェの常連であるみきちゃんの提案で、3月最初の共感カフェはその前に羽根木公園の梅林に集合して、梅見をしようということになった。
そういえば、去年も梅見をしたし、そのあとに桜の花見もした。
花見はお弁当をそれぞれが持ちよった気もするが、ひょっとして梅丘駅前の店でランチをしたような気もする。
今回は羽根木公園の梅見のあと、東松原の定食屋〈あるがまま〉でランチをしようと決めていた。

梅は盛りをすぎていたがまだまだ見頃で、ほのかな香りが「いまここ」をたっぷりと感じさせてくれた。
人馴れした鳩がベンチでくつろいでいたり水浴びをしている光景が平和だ。

そのあと、〈あるがまま〉に移動して、ランチ。
2年前まで羽根木に住んでいて、その前も東京に出てきたあとはずっと梅丘と豪徳寺のあたりにいたので、まだ「地元感」が抜けない。
引きもどされるような磁力を感じる。

ランチ後は寿美ちゃんちに移動して、共感カフェ。
いまさら共感的コミュニケーションの勉強という区切り感は私のなかではまったく起こらず、羽根木公園からあるがまま、そして寿美ちゃんちへとつづく流れが、一貫して共感的世界のなかにあって、心地よく安心していられる時間だった。
とくにこれ以上私がなにか付け加えることもない。
あえていうとしたら、このような場をこつこつと作りあげてきた寿美ちゃんと私と参加者のみなさんと、ともにお祝いしたい。

寿美ちゃんち共感カフェのあとは、伊藤はるかを国立春野亭まで拉致して、先日機材セッティングをしくじったOeufs(うふ)の再収録。
はるかちゃんの同意と協力を得て、音楽ではとても難しい挑戦となることを私は試みている。
そういうチャンスがめぐってきたことを感謝している。